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デザイナーがやるべきゲーム「風ノ旅ビト」

「風ノ旅ビト」というインディーゲームがある。2012年にPlayStation3で配信され、そしていま、2020/4/21現在、PlayStation4で無料でDLできる。(5/6まで予定)

これがむちゃくちゃ面白かった。この面白さは、一般的なストーリーの面白さではない。「感動できる」とか「泣ける」とかの評価軸ではない。(感動するし泣けるんだけど)

これはほかのだれでもない、「ぼくの物語」である。そこに感動するのだ。

これは、デザイナーにこそやってもらいたい。すごく勉強になる。いや待てよ?全人類にやってもらうべきだな?と、ぼくの拙い分析ではありますが、なんとかレビューさせていただきます。

長くなってしまうのだが、前段でエンターテイメント、ゲームについての分析を書いてます。もちろん専門家じゃないので、あくまで個人的な見解です。それを踏まえて『風ノ旅ビト』のレビュー、という構成です。

多くの人に、余計なイメージを持たずプレイしてもらいたいのですが、若干ネタバレがありますので、ご注意ください。(見出しに記載しています)

これまでのエンターテイメント

これまでのあらゆるメジャーなエンターテイメントは、ことごとく「他人の物語」だった。小説然り映画然り。

名探偵が颯爽と現れ、解き難き謎を解く、そのさまに魅入る。

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はたまた絶望的な四面楚歌、死を覚悟する状況の主人公が、機転を効かせたアクションで、あるいは熱い友情で結ばれた仲間の助けによって切り抜ける、そのスリル。

スポーツだって、そうだ。その神がかったプレーの裏にある血の滲むような努力を想像し、感動する。

でも明らかにこれらは、自分とは違うだれかの物語だ。この他人の物語を「さぁさぁぼくを楽しませてくれたまえ」と食通(死語)のように嗜むもの。それがエンターテイメントの王道だった。

エンターテイメントのじぶんごと化

そしてこのエンターテイメントは、観る人がその他人の物語を「じぶんごと化」することで、その楽しさが何倍にも膨らむ性質がある。

例えばスポーツはひいきのチームがあったほうが何倍も楽しい。それをグローバルにやってるのはオリンピックだ。花形とされる陸上競技は、一体どれだけの人が陸上競技を日常的に楽しんでいるだろうか。

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スーパーヒーローもいつからか人間臭くなり、ぼくの延長線上に感じられるようになった。ロボットのパイロットは、怖がりの若者だし、異世界転生ものなんて努力できないぼくにとって共感でしかない。

他人の物語を、いかに自分の物語として楽しんでもらえるか。エンターテイメントは常にそれを目指してきたといっていいかもしれない。

ゲームというエンターテイメントの登場

エンターテイメントの中でもTVゲーム(もちろん携帯ゲーム機、スマホゲームも含む)は、やや異質だ。その存在が「操作する」という行為と不可分である。それが故にかなり早い段階から、というか当初から、そのエンターテイメント性は身体性を帯びていて、じぶんごと化されたエンターテイメントだったと言える。

逆にゲームの中では受動的なコンテンツこそが異質であり、それがもてはやされることすらあった(映画的だと言われたファイナルファンタジーシリーズや、サウンドノベルなど)。

ゲームにおける自分ごと化

当初、たとえばインベーダーゲームではストーリーは描かれない。あるのは設定だけだ。

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このゲームでは、そのスコアがぼくを表現するものだった。より難しいステージをクリアすることがぼくを表現した。

高いスコアを、先のステージを目指すことこそが、ぼくの物語だ。その物語は薄く貧弱、散文的で連続性に薄い。が、そこにはたしかにぼくが躍動していた。

そして現れたスーパーマリオは、よりさらにぼくだった。そのキャラクターは走り、飛び回り、ゴールを目指した。インベーダーゲームのようにスコアやタイムを目指すこともあったが、動くこと、つまりプレイそれ自体が楽しかった。

Bダッシュをしているマリオは、その瞬間たしかにぼくだったのだ。クリボーに触れて「痛っ」と声を出した人は多いはずだ。

コントローラーを通してぼくの身体性は拡張された。マリオの体験は、ぼくの体験に限りなく近づいてきた。個人的には、これが原初的UXだと思っている。

ただしストーリーや設定はファンタジーというよりは突飛であり、ストーリへの共感や自分ごと化は生まれてはいなかった。(レースゲームなんかもこの類いだったろう)

RPGの台頭

そしてドラゴンクエストが生まれた。ロールプレイングゲームという名の通り、その主人公を演ずるゲームだ。このRPGというジャンルは、この時代のエンターテイメントにおけるじぶんごと化のひとつの頂点だったと思う。(そういう意味で、決してしゃべらせず、徹底的に主人公を匿名化したドラゴンクエスト、堀井雄二氏はすごすぎる。神。)

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RPGにおけるじぶんごと化は、そのストーリーの主人公への自己投影だ。その映像は、映画やテレビやアニメには到底かなわない。にもかかわらず、そのインタラクティブ性の設計と秀逸なストーリーによって、よりつよく、より没頭するエンターテイメントとなった。

ただしそこに描かれたストーリーは、やはり、他人の物語だった。

より現実に近づいていくゲーム

技術、そしてゲームハードの進化は、ゲームをよりリアルな方向へと進化させた。3Dの表現は、人間の視覚を忠実に再現する。モニタに映し出される水面は、その水温すら感じるほどにリアルだ。

こうしてゲームは、オープンワールド、一人称へと向かった。そこにはやや貧弱なストーリーがあり、さらにたくさんの短い貧弱なストーリー(クエスト)が並ぶ。あるいはストーリーなどもなく、存在するのは武器と戦場だけの場合だってある。

そこでじぶんを投影するのはストーリーではなく、自由に歩くことだったり、自由に選択することになった。いよいよゲームのエンターテイメント性が人間の本質に近づいてきたのだ。

しかしそれでも、そこにあるのはやはり、身体性の拡張のみか、他人の物語だ。

そして「風ノ旅ビト」

前置きが長くなってしまったが、本題にはいる。まずこのゲームの概要を公式サイトから引用しよう。

“言葉”や“文字”を使わず、心のコンパスを頼りに広大な世界を旅する。

広大な砂漠の真ん中で目を覚ます。フード付きのマントのような衣服をまとったそれが、ぼく自身だ。

アナタは、未知の世界で目覚め、砂に沈む古代の文明を見つけます。どこまでも広がる砂漠の中を歩き、滑り、飛んで、進んでいきます。時折、アナタと同じ姿のキャラクターと出会うことがあるでしょう。共に行くか、別れるか。すべては、アナタの旅の行方次第。

上記の通り、まずこのゲームには言葉が使用されない。タイトルとエンドロール、そして必要最低限のチュートリアルのみ。体力ゲージなどのインフォグラフィックもない。時間のある方は、プロモーションビデオをぜひ。雰囲気をつかみやすいはずだ。

素晴らしさの分析(1):表現(スクリーンショットあり)

このゲームの素晴らしさには3つある。それは表現と体験とストーリーだ。まぁ言うなれば全部だ。そしてそれぞれは、独立して存在するのではない、お互いがお互いに影響を与え、それぞれの価値を高め合っている。当たり前だ。当たり前だが、ここまで高度に調和しているゲームはそうない。

まずは表現、その中でもビジュアルについて述べよう。いや述べるよりも、まずはいくつかのスクリーンショットを見てもらったほうがよいだろう。

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画質に依らない美しさがある。神々しさ、侘び寂びの美。龍安寺石庭に通じるような哲学すら感じないだろうか。

デザインの基本である対比(コントラスト)のお手本のようだ。こうして視覚表現を適切に使い、ストーリーや言語を用いることなく、プレイヤーの心理を意図的に揺さぶるのだ。

制作者のインタビューを読めば、これが制約の中で生まれた表現であることがわかるのだが、なるほど制約こそアイデアの源泉だと改めて感じさせる。

わたしたちデザイナーに置き換えるのであれば、クライアントから示された課題が困難であることは、より本質的な回答への近道かもしれない、ぐらいに捉えるべきだと言われているようだ。

そして特筆すべきは音楽である。それはまさにアンビエントで、ことさらつよく主張するものではない。雄弁に語るものではない。しかしそれこそが「ぼくの物語」をただしく盛り上げてくれるのだ。

プレイ後、この音楽を聴けば、すぐにあの世界へトリップできる。アンビエントでありながら、たしかにぼくの心に染み渡っているだ。プレイ時間が短いにもかかわらず、驚くべき心への浸透力だ。

なお本作のサウンドトラックは、グラミー賞にノミネートされていることから、そのクオリティの高さはゲーマー以外にも評価されている。(ちなみに、制作者であるJenova Chen氏は「ゲーマーという言葉をなくしたい」と言っているが)

※AppleMusicおよびPrime Musicで聴けることを確認しました。是非プレイ後にお楽しみください。

素晴らしさの分析(2):体験(ややネタバレ)

上述したビジュアルによって描かれる世界は、広大さを感じさせ、目を奪うほど美しい。しかしその冒険心をくすぐる広大さは、ひとりでこの世界を旅をする不安や寂しさもセットなのだ。

この世界をとぼとぼと歩く。孤独に世界にアプローチしていると、自分と同じ姿をしたキャラクターが現れる。その挙動はあきらかにコンピューターのそれではない。これは自律しただれかだ!とすぐにわかる。

文字や言葉を徹底的に排したゲームだ。ジェスチャーすらかなわず、コミュニケーションはほぼとれない。それでもぼくたちは心を通わせ、この世界を共有し、わずかではあるがポジティブな影響を互いに与えることができるのだ。(同時に、なにも関与しないことも可能。しかしネガティブなことはできない。その設計の素晴らしさ…)

孤独だと思っていた世界で、自分ではない誰かがいると気付く。一瞬で心がぐわっとあたたまるのがわかる。それほどまでに強烈な体験だった。

表現(広大な世界と音楽=冒険心と不安)と仕組み(マルチプレイ=ひとりではないと感じさせてくれる))でもって、不安と安心のコントラストを、描き出す。この心理体験によって、ぼくは一気にその世界へとダイブしてしまったと言える。

そして操作感という体験について。本作のキャラクター操作は、非常に後味の良い、豊かな体験を提供してくれる。操作に対するレスポンスは非常に練られていると感じた。クイックすぎず、かといってストレスはない。たしかにぼくの一部だ、と感じることができるちょうどいいレベルだ。

このゲームのキャラクターは、飛ぶことができるようになる。この浮遊感はすばらしい体験だ。しかも落下して命を落としたり、不可逆なことが起きたりすることはない。空を飛ぶことはなにもリスクがない行為だ、とすぐにわかる。これは体験を体験として楽しめるとても大切な要素のように思う。滑空の様子は下記から。(ムービーはiOS版のものです)

傾斜をのぼるときは足取りが重くなる。ゆっくりと一歩ずつ踏みしめていることが感じられる。傾斜を降りるときは、歩行スピードが上がり、一定の角度がつくとスノーボードのように滑り降りることができる。これがとても気持ちいい。爽快だ。下記ムービーで少しでも感じてほしい。(ムービーはiOS版のものです)

この楽しさはまさしく身体性の拡張だ。ぼくが、モニタの中ではあるが、浮遊している。足に力を込めて登っている。そして斜面を滑走しているのだ。

これは体験するということの面白さを体験するゲームなんだとわかる。そしてその体験は、やはりここでもぼくの心を揺り動かすのだ。

坂を登ることは辛く、降りることは楽ちんだ。空を飛ぶことは気持ちいい。

行動に感情が付随する。そしてそこには美しく描かれた夕焼けがある。しかしそれは徐々に暗くなっていく。ここちよく斜面を滑っていたぼくに唐突に不安が訪れる。止まることができない。重力に逆らえず、ただただ滑り落ちてゆく。

「大事な場所を通り過ぎてしまったのではないか?行き過ぎではないか?このまま滑り続けてもいいのだろうか。」

これはまさに、自転車に乗って知らない街まで来てしまった、あの不安感。焦燥感だ。

こういった体験の設計が、先述した表現とあいまって、ぼくの心を揺さぶる。それは確実に意図的でありながら、明示的でない。だからこそ、感情をぼく自身が発見していくという過程があるのだ。すごすぎる。

素晴らしさの分析(3):ストーリー(ややネタバレ)

誤解のないようにしておくが、本作は明確なストーリーはほぼない。そもそもプレイ時間は1時間程度。長くても2時間あれば終わるのではないか。

プレイヤーがある目的地に向かって旅をする。それが「風ノ旅ビト」の唯一のストーリーだ。

だが、それだからこそすばらしいのだ。

みずから歩み、みずから解釈する。だれかが書いたシナリオなんてない。ここで紡がれるあらゆる物語は、ぼくが引き起こしたものだ。

これこそが本作の最大の魅力だと、ぼくは思う。ここでの体験は、まさしく「ぼくの物語」にほかならない。

明確なシナリオの補助線がないからこそ、決断ひとつひとつがぼくを投影する。湧き上がる感情も、明確な補助線がないから、混乱してしまう。「なぜぼくはいま不安なのか」「なぜこんなにこころがあったかいのか」

そしてみずからその理由を探し、納得する。

「ひとりで寂しいと思うからだ」「ひとりではないと感じたからだ」

こうして感情を発見することがまた「ぼくの物語」をより個人化していく。

悪くいえばシナリオがないゲームだ。これまでも、シナリオが希薄で自由度を売りにしたゲームはたくさん存在した。それはときに「アーティスティック」だとか「雰囲気ゲー」などと、ネガティブな意味を持って評価されることもあった。

しかし本作において、そのシナリオ解釈の自由さが「雰囲気ゲー」にとどまらない理由。それは先述した「表現」と「体験」が、ぼくの身体性を拡張し、心理をモニタの中へと引き込んだからに他ならない。

ぼく自身が砂漠を歩き、空を飛び、砂丘を滑走する。心の動きは、だれの指示でもない、ぼく自身が発見した魂の震えだ。ぼくが自身が決断し、その希薄なシナリオの余白を埋め、想像する。

そうやってこの体験が「ぼくだけの物語」と昇華する。

プレイした人の数だけのストーリーが生まれること。それが「風ノ旅ビト」のストーリーの素晴らしさだ。

おわりに

このゲームから「ワンダと巨像」をイメージされる方も多いと思います。まさに制作者Jenova Chen氏のアイドルは、ICO、ワンダと巨像、人喰いの大鷲トリコを制作した上田文人氏だそうです。

上記ゲームが好きなかたは、特におすすめしますが、Jenova Chen氏の願いは、ゲームに触れてこなかったあらゆる人が、ゲームを楽しむ未来だそうです。だれでも楽しめることも本作のすばらしさだと思います。実際に5歳のムスメも、空中浮遊を楽しんでいます。

そしてこのゲームはPlayStation4はもちろん、スマートフォンでも楽しめます。(「風ノ旅ビト」は邦題で、「Journey」で検索してください)

ぜひあなただけの物語を楽しんでください。

で、なんでデザイナーがやるべきか

ここからはデザイナーへのおすすめ理由です。上記で述べたことがその理由なんですが、まとめると「文字に頼ることなく人の心を揺さぶるコツが満載だ!」ということです。

デザインされたもの、とくにぼくたちの生業である、広告物のデザインは、いつだってクライアントはもちろん、デザイナーが想像する以上に見てもらえていません。記憶も残らない。

今日見た広告を教えて、なんて聞いてみても覚えていないんですね。テレビCMでもそう。つまり心理面に影響を与えないデザインは見過ごされてしまうのです。

ぼくたちデザイナーは、ただしく(これ大事)人の心理にアプローチする術を持たない限り、見栄えだけのデザインに終始してしまうことになる。

なので本作のような心理面を揺さぶるすばらしいコンテンツ(それはゲームに限らず、デザインはもちろん、映画や小説など)を体験する。そしてそこで起こる感情の動きをつぶさに観察し、理由を探る。因数分解する。言語化する。一般化する。抽象化する。その繰り返しが再現性のある技術としてデザイナーに蓄積されるのだと思うのです。

この6000字を超えるnoteを書くことも、その鍛錬でした、という終わりです。つぎはFF7Rについて書こうかなw

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