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「火男さんの一生」No.51

           51,
 上村吉信はしぶとく生き残っていた。だが体は板に貼り付けられたように、腕も脚も、指先さえも木に括りつけられたように、曲げることも延ばすことも成らず、また顔は引き攣って突っ張ったように、瞬きすら出来ず、看護婦が差し出すスプーンの汁を口に流し入れて貰っても、飲み込むことも出来ず、その殆どが口から溢れ出た。
 だが、上村吉信の意識は醒めていた。廊下を歩くスリッパの擦れる音も、看護婦らの欠伸も丸々聞こえていた。
 事実、吉信は由美子を殺していなかった。由美子との仲は、最悪だった、その顔を見るさえ我慢出来なくなっていた、由美子の口から罵声を浴びれば、その首絞めて殺してやりたい衝動に駆られた。だが実際にはその口を平手で打って黙らせれば激情は収まった。ただの、巷に普通に見る、借金取立に押し掛けた家で、忽ち始まる夫婦喧嘩の見本のようなもの、だった。
 ただ、上村吉信は追い込まれていた。伴野からの自身の借金に加え、鹿木が借りた金の保証人にもなって、その額は相当大きくなっていた。伴野は容赦なく取り立て屋を送り込んできた。伴野の金への執着心を上村吉信は身に染みて知っている。ふと吉信は思い当たった、由美子とお互いが受取人になって保険を掛け合った。その保険金があれば、とふと思った、その金、持って何処か遠くへ逃げる?
吉信の心は動いた。そしてふと後悔した、何でこのこと、今の今まで思い付かなかったのか?吉信と由美子は、大して考えもせず鹿木島に逃げて来た。鹿木島、伴野から金を借りた鹿木公男の経歴調べれば、二人がここに逃げて行くことは誰にでも予想できた。あの時点で、どこか別のところへ逃げていれば、事態は変わった筈…
だが、何れにしても、吉信は由美子殺しを実行しなかった、いや、未だ何も、生来の怠け癖か、愚図って何も決めていなかった、と云うのが実際、だった。
 吉信が殺す前に、由美子は毒を飲まされて死んだ。吉信には、誰が殺ったか、そんなことはどうでも良かった、自分が手を下さずとも由美子は死んだ。吉信は、大阪の保険会社に訪ね、姪二人の生命保険金、自動車の保険金、請求した時と同じ担当者を指名して面会した。 
さっさと金払わんかい、と担当者に噛みついた。煮え切らない態度に癇癪を起して吉信は保険会社のビルのロビー、玄関前の通りでも、不払いを詰って吠えまくった。
 だが、金は一銭も振り込まれなかった。伴野は、使いの者を送って、いついつまでに金を払え、さもないと命はない、と期限を切って来た。伴野の、金を返さぬ者への残酷な仕打ちは、吉信は身近に居てよく知っている、決して脅しではない。
 吉信は切羽詰まっていた。
 
だが、警察に、由美子殺しの容疑者として逮捕、拘留されて、吉信は、不法逮捕、誤認逮捕に激しく抗議しながら、吉信は自分の心は逆に安らいでいることに気が付いた。留置場に閉じ込められて過す一日がなんとも心の芯から安らぐのである。
何故か?ここは伴野には絶対手出し出来ない場所だった、のだ。それを知って以来、吉信は、青木から指を逆さに折り曲げられようが、首を気を失うまで絞められようが、耳元で鼓膜が裂けんばかりに怒鳴られようが、何んとも思わなくなっていた。却って心が安らぐのだった。
 体は、石のように固く、僅かにも動かない、だが、久しぶりに、ここ数日、たっぷりと眠れるせいか、心は穏やかであり、脳は活発に動いてくれた。
 俺は、由美子を殺していない、なら、誰が由美子を殺した?しかも、それこそ、鼻を抓まれてもそれが誰だか判らないあの真っ暗闇の中、しかも横に自分が寝ている状況で、いったい、誰が…