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「岐津禰」No.2

             2,
 白い靄にぼんやり見える人影はあの女、あの老女だった。しかし、何故あの老女が、こんなところで、何をしている…?
 度部に暴行されたことを憲兵隊本部に訴えにわざわざ来たのか?だが、日本兵の暴行、暴力等日常茶飯事、やりたい放題の朝鮮で、そんな訴えが一々取り上げられる筈もない、そんな意味のないことするためにわざわざ来る筈はない。
 度部が、ひと影にぼんやりとまとわりつく靄に近づくと、老女の影は背を向けて何処かへ案内するかのように前を歩く。
 その老女の影が、何か、朝鮮語で云った、
「ご案内いたします、どうぞこちらへ」
そう聞こえた、そしてその声は夢に聞く、正しくあの老女の声、だった。
 白い人影は、度部の前を歩き、度部を宿舎の外に連れ出した。宿舎から離れ、村里離れて、何やら古い、朝鮮式の山寺の前まで来た。
この辺り駐留して数年になり、憲兵として巡回する度部はこの辺りの地理はほぼ全て記憶していた。
 しかし、こんなところに、こんな山寺、全く覚えが無かった。白い人影は、その入り口前で、立ち止まった。
 度部は、狐狸にでも騙されているのかと疑わしげに、靄に包まれた人影を疑わし気に睨むと、人影はすうっと開けてもいない寺の格子戸を透けて小屋の中へと消えた。
 怪訝に思った度部、同じようにその戸を押すと、度部の体が、吸い込まれるように寺の中へと入った、
「恋しうございます、度部殿…」
板敷の床に人影は座り、日本の芸者のように床に頭を付けてそう云った。
顔は見えない、だが度部には状況を理解出来なかった。あの老女、暴行され辱めを受けた度部に恨み辛みをぶちまけて罵倒するものと思い込んでいたのだが、しかし老女は、しとやかに、しかも驚いたことに、老女が日本語を喋ったことに暫くして気が付いた。そして、度部は、老女が云ったそのひとことの意味が解せなかった、
「恋しうございます、度部殿」
老女は確かにそう云った…?
しかも、今、度部は初めて気が付いたが、下げた女の頭の髪は、老女の薄汚れた白髪どころか透き通るような黒髪、しかもそれは背を覆う程に、絹糸のように長いのだ…
 度部には、妻はいなかった、また「恋しい」と慕われるような女にはまるで縁がなかった。それに日本人であれ朝鮮人であれ、女には、元から相手にされなかった。
だが女は
「恋しうございます、度部殿」
と名前まではっきり云ったのだ。
「だ、誰だ、お前は」
女はゆるりと顔を上げた。浮世絵に出て来るような雪のように白い肌、細面で、そして細く長い流し目の、しかも若くて美しい女、だった。
 ふと、どこかで会った、この女に似た女に、間違いなく何処かで会った記憶が蘇るが、しかしその記憶自体が、夢の中での出来事のようであり、やはり目の前の女が誰か、それが何処で会ったのか、思い出せない。
「どうして、おれの名を知っている?」
「お忘れでしょうか?もう、何十年も前のこと、度部様は毎夜、私のこと、恋い慕ってくれました」
「な、何?」
何十年も前?何十年も前と云えば、俺が、二十歳から三十歳のことを云うのか?
「倭の國は、和泉の郡、血惇山寺の…」
女は云った、血惇山寺?血惇山寺と云えば…
 度部は思い出した。確かにその年頃、度部は、日本の、泉州和泉の辺り、碌でも無い連中と絡み、盗みや暴行、ありとあらゆる悪事を犯し、官憲から逃げまわっていたころのことだった。 
そして追われれば、度部は必ず、仲間と離れて一人、高野に向かう街道をひたすら逃げて走り、途中で道を逸れて山中に逃げ込んだ。
 そこには廃れた庵のような古い山寺が在り、そこで事が治まるまで隠れて過ごしていたが、確か、その山寺の名は、血惇山寺、と云う名前だった。
(度部様は、毎夜、私を思い、慕ってくれました)
もしや、と度部は思い当たった。あの頃、度部は荒れに荒れていた。明日のことなど、どうでも良かった。盗んで食い、犯して満たした、それ以外のことは何もしなかった。心はいつも虚しかった、腹が、欲が満たされても、心は和むことはなかった。
 そこが寺か庵かどうかさえ区別がつかなかった。夜中、だった、盗んできた酒を浴びるように飲んで寝入り、ふと目覚めて度部、祠の中、奥の方から、微かに光が漏れていることに気付いた。
 月明かりか、どこかの隙間から差し込んでいる?それでも気に成り、奥の、壇になった辺り、その辺から光が漏れていると判って、小さな祠の扉を開いた。その更に奥、ひとの大きさの半分程の銅像が立っていて、その姿が、黒光りに光っているのだった。
 妙なこともあるものだとよく見ると、それは、吉祥天女の黒塗りの像、だった、木像か銅像か分からない。
 度部はその姿を見るなり、その優雅な美しさに魅了され、そしてその艶めかしく、しなやかな姿態に、忽ち愛欲の心が生じ、その処置のしようもなく、床の上を転げ回った。
(如涅槃經云:「多婬之人,畫女生欲。」)
 それが、毎夜のことだった、遂に、度部は狂う程に恋慕して、溜まらず天女の像を台座から抱え降ろし、そして遂に交わった。
 それから数日の後、度部は、その山寺も、樵に不審がられて密告されたか、警官に踏み込まれる寸前に逃げ出した。

              
 そしてここは、和泉の國から遥か遠く、朝鮮は古都、慶州に、警察に追われて度部は、海峡を越えてこの地に逃げ帰って来ていた。
 その、遥か昔、消えかかった記憶に残る血惇山寺で見た吉祥天女の像が、何故、朝鮮の地に、しかも生身の姿で目の前に居る、それに、ほんのさっきまで、度部をこの廃れた山寺へ導いて来たのは、度部が暴行した老女、だった筈…
 天女はすらりと立ち上がり、羽毛で編み上げた薄い衣を肩から脱ぎ落し、全裸になって白い肌を曝した。度部の体に凭れかかり、度部は誘われるままに、蚊帳の中へと入った、
「お久しゅうございます、度部様…わたしは、もう度部様に嫌われてしまったのかと、毎夜一人で泣いておりました…」

 度部は、何か、肌に獣の毛が刺さるような痛みがして、ふと目を覚ました。度部は横に眠る、天女の顔を覗いた。そこに寝ているのは、白い狐、だった。度部は驚いて跳ね起き、横に置いていた軍刀を抜き、その首を刎ねようと構えた、
 狐は鳴いて訴えた、
「私は、倭国は和泉の郡、血惇山寺の床下に巣を営む狐、名を吉津禰、と申します、吉祥天女様に化身して度部様のことを騙しておりましたのですが、度部様のことがいつしか忘れられなくなり、度部様をお慕いする余り、こうしてこの地迄飛来して参りましたのでございます。ようやく度部様に巡り会え、我は我が正体が狐であることを忘れて、度部様に抱かれて心満たされて安らかに眠ってしまっていました。
 お許し下さりませ。ですが、度部様、我が身の正体、度部様に知られた以上は、私は、度部様をこの場で殺すしか、私は元の國に帰ることが出来なくなりました」
白狐は、突然に牙を剥き出し、狼のような唸り声をあげて度部に襲い掛かった、
度部は狐の首を斬り落とした、身二つになった狐、その体、忽ち濃い霧に包まれ、後ずさって見る度部の前でその霧が晴れ、そこに倒れているのは、度部が、抗日農民を追い詰めた農家で犯した、あの老女の裸体、だった…