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「岐津禰」No.5

             5,
 度部は、警視庁本庁に出張する署長を見送るため、数名の警官と一緒に、ジープで港へ向かった。
 折り返し東京に向かう船が港に入って来た。波止に横付けすると、全員、見慣れた島の住民ばかり、板の橋を危なっかしく渡って降りて来る。
 最後に、見慣れぬ、七〇歳前後の、ほぼ白髪頭にハンチング帽を被った、一見、街の人間ふうな男が、揺れる板の橋を、船員に介助して貰って降りて来た。
 気付かなかったが、波止で出迎える島の住民の中に居たのか、吉津祥子がその男を、不機嫌そうに迎えた。吉津祥子の、別れたと云う亭主か?

 警官が、署長の荷物をそれぞれが分担して持って板の橋を渡って船内に積み込んだ。板の橋が外され、署長は狭い甲板に出て、見送る署員らに手を振りながら、船は波止から離れ、港を出た。
 度部ら警官が乗り込んだジープが港を出てすぐ、男の後ろを歩く吉津祥子を追い越した。
署員の一人が気付いて云った、
「あれ?今の「キツネ」のおカミさん?一緒の男、あれ、もしかしたら旦那、じゃない?ご主人と別れたみたいなこと云ってたけど…どうすんだろ、この後、次の便は、来週の月曜だろ、東京行きは。家に泊めるんだろか、ご主人?」
「あのさ、どうでもいいんじゃない、何処で泊まろうが、お前が、さ、気にする必要ないんじゃない?それとも、なに?お前も、最近、入り浸りらしいが、もしかして、ん?」
「あ、オレなんか週に一回ぐらい、でもさ、係長なんか、毎晩だよ、ねえ、係長」
 度部は不機嫌に黙り込んだ。

 翌日。 
島に、釣り人用の簡易宿が一軒ある。東京から二日間もかけ、かつ次の帰りの便は5日後になる。そんな大層な時間かけて釣りに来る客は滅多とある訳はなく、昨日、署長の見送りに行った船から、数日後の台風通過の天気予報も影響してか、釣り人らしき客の姿は見掛けなかった。
 度部はやはり気に成り、自転車で島内巡回中に、その釣り宿を訪ね、それとなく宿泊客のことを尋ねた。この先、台風が通過するまで客は一人も無い、と宿の亭主は嘆いた。
 そのまま、吉津祥子の家に向かい、暫く、物陰に隠れて眺めていたが、庭には誰もいないし、物干しにも洗濯物は掛かっていない。
 もう昼日中、雨戸は閉め切ったままで、暫く見ていたが、出入口にひとの影は現れなかった。
昨夜は「キツネ」は偶々、定休日で休んでいた。その為、度部はカウンターの端に座って吉津祥子の様子を窺うことも、客の誰かがあの男のことを訊ねてくれるのを待つことも出来なかった。

 吉津祥子は、或る時、客に訊かれて、別れた亭主のことを、戦時中も色街でそこそこに女を泣かした船場の大きな問屋のぼんだった、らしいが、父親の事業を継いですぐに失敗し、以後借金に塗れ、腑抜けてただの飲んだくれのどガイショ無し、やねんと罵っているのを聞いたことがある。
 そのどガイショ無しの、別れた亭主が、わざわざ大阪から訪ねて来るなど尋常のことである筈はない。余程の事情がない限り、大阪から汽車に揺られて東京に着き、船の出航を待って丸二日も船に揺られ、こんな海の涯にまで、それにジープの窓からちらっと見えたが、男の足元はそこそこに危うそうな程に老いてみえた。

 度部は、巡回中、遠回りしてでも物陰から吉津祥子の家を覗き見する。しかし、昼日中に成っても、雨戸を閉め切ったままだったことは以来一度もない。
 もしや、と度部は妄想する。
無事、なんだろうか、何かあったんではないか、と、心配になる。復縁をしつこく求める元亭主と揉めて、互いに罵り合い、掴み合いになり、元亭主が包丁持ち出してきて…
 いや、そんな物騒な話ではなく、度部が妄想するのは、元亭主の気持ちを知って、二人はヨリを戻し、元の夫婦となって、縺れ合う…
 で、なければ、こんな昼日中になって、雨戸を閉めたままにする女ではない…しかし、男の歳を考えれば、そんなに、一晩も、そのあくる日迄続くとも思えない。
 いや、待てよ、勝手に俺が、あの男を元亭主と決めつけているだけで、実際は、果たして、度部は何も知らない、元亭主なのか、それとも実の父親、かも知れない、歳の感じではそうとも見える。
 いや、もしかして、大阪の金貸しかも知れない、金貸しなら、取立の為なら、例え地の果て海の涯、日本国中、何処までも追っかけよう。
 あの男が、吉津祥子の何であれ、今も吉津祥子の、雨戸閉め切った家にいることだけははっきりしている。