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論語と算盤 要約⑥ 人格と修養

楽翁公の幼児

楽翁公は、子供の頃病弱だったので、廻りの人から甘やかされ、
賢い賢いと褒めらて育った。

しかし、どんなに教えられても覚えられず、9歳の時に、自分は記憶力も悪くバカなんだと気がついた。

 10歳になると、海外にまで聞こえるほどの人物になりたいと志した。
高い理想を抱くことで、多くの文字を模写するなど、勉学にいそしみ努力をした。
 
 12歳になると、著述を志したが、古書は難しくて読めなかったので、
通俗の書を参考にしたところ、
通俗の書籍は間違いが多いと聞いたので、それはやめにした。

 14歳になると、短気になってちょっとしたことに怒ったり、
世の中が嘆かわしと激したり、感情のコントロールが難しくなった。

 18歳になると、それらの感情が洗われたように、落ち着いてきた。
それは色々な人が真摯に意見を言ってくれたお蔭である。

 この楽翁公とは誰のことか?
それは、幕府老中 松平定信公の事である。

 渋沢は晩年、松平定信の伝記を編み、その徳業を顕彰した。
渋沢は、なぜ定信をかくも尊崇したのだろうか。

 第一国立銀行の経営に任じて間もなく、東京府知事大久保一翁氏から、幕府時代からの積立金として東京府が保管していた共有金の管理を委託された事に起因する。

 この共有金は養育院の費用となったばかりでなく、東京の道路・橋梁・墓地・瓦斯等の施設を始め、種々の公共的事業に用いられ、大いに助けられた。東京の礎を築いたのはこの資金であった。
 この共有金はどこから来たものなのか、その由来を調査したところ、天明・寛政年間に於ける幕府の老中松平越中守定信(楽翁公)の善政の余沢であることが明らかになった。

 宝暦8年(1758)12 月、田安徳川家の第3子として生まれた定信は、白河藩松平定邦の養子に入り、白河藩 の藩主となった。
東北地方の飢饉に直面するも、倹約・年貢減免・物資の輸送施策で見事に切り抜け、その功績を飼われて幕府、老中首座に就任する。
その時に行った政策の主要なものが、七分積金の制であった。
 
 地主の負担を軽減すると同時に、地代・店賃及び物価を下げる包括的な案を示し、節減額を提出させた。この削減額の七分(70%)にあたる 25,900 両を積金基金として、町屋敷地を担保とした低利の金融を行った。
安政大地震の際も、江戸町民の約 67%がこの基金に救われたという。

 定信が創始した七分積金制度は、都市政策として幕末まで機能し、明治政府のインフラ整備にまで恩恵を与えたのだ。
その事実に深く感銘し、その遺徳を澁澤は伝えている。

 その定信公も、子供の頃は普通の人物であった。学んだことを実行に移す、知行合一の精神は、時代を超えた我々にも恩恵をもたらしている。

 定信の出身 白河藩は、澁澤の故郷深谷とも近い。
晩年の澁澤は定信公の遺徳をたたえる気持ちもは、望郷の念からも強かったのではないかと思われる。

人格の標準は如何

 人間は万物の霊長である。
霊長というのは、霊(生物)の長(おさ)と言う意味だ。
つまり、この地球上の生きている命ある存在の、責任を背負う者である。

 つまり、我々一人一人が霊長である。我々一人一人が、全生物の命を預かっている存在であり、そこに優劣があってはならない。

 しかし現実社会を見ると、貧富の差、身分差は甚だしい。
その差は何の価値観をもって定めているのか。

その前に、人間はそもそも、本当に霊長なのかを考察してみよう。

 ヨーロッパのある国の王はそれを知りたくて、ある実験をした。
生まれたばかりの二人の嬰児を隔離し、
何の教育も与えず、人間の言語を少しも聞かせないように育てた所、2人とも言葉を発することが出来ず、禽獣(動物)のような不明瞭な音を発するのみだったという。

 どうやら、人間と禽獣の差はほとんどなく、
徳を修め、知識を学び、世の中に有益なる貢献が出来るかどうかが、
人間か禽獣かの違いではないかと思われる。

 霊長とは、全生物に対して責任を持つ立場である。
つまり、『全生物のために世の中に貢献できるかどうか』が、人間と禽獣との唯一つの違いではないかと思う。

 それなのに、昔から人々は人間の価値を富貴(お金を持っているか、身分が高いか)で評価してきた。

 そうなると、歴代の覇王は価値が高く、孔子は価値が低い人間という事になる。日本でも、藤原時平と菅原道真を比べると、時平の方が身分も高く財産もあった。その視点からみると、時平の方が格上の人物という事になるが、今私たちが記憶し影響を受け続けているのは、道真公だ。

 人間の価値とは、世の中に有益なる貢献が出来るかどうか、その一点にあるのではないかと思う。

誤解されやすき元気


元気とは何か。



【至大至剛】『孟子』公孫丑上
其爲氣也、至大至剛以直、養而無害、則塞于天地之間、其爲氣也、配義與道。無是餒矣。是集義所生者、非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。

氣というものは、至大至剛、
この上もなく大きく、この上もなくつよく、しかも正しいもの。
正しい心を養って用いれば、天地の間に満ちている気を感じるだろう。
しかし、義と直が成分なので、義と直がないと萎えてしまう。
義に集るところに発生するものであり、義を装って生じるものではない。
故に、行動や心に、少しでもやましいところがあれば、萎えてしまう。

 気位が高いというのも元気である。
ここで言う気位とは、自負心、自分に対するプライドという意味である。福沢諭吉先生の仰る「独立自尊」の精神こそまさにそれである。

自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる

 ちょっと酒を飲んで元気になったとか、
昨日は元気だったけど、今日はダメだというのは、「元気」ではない。

程伊川の言葉
哲人見機誠之思志士厲行致之為
状況を捉え、誠な精神でやるべき事を明確にするのが哲理であり、その志に応じて実行することこそが、元気である。

 若者たちのエネルギーを違う方向に行かせぬようにすることが大切である。その指針として、道徳行動を指導することが大切なのだ。

二宮尊徳と西郷隆盛

 明治4年、大蔵官僚だった時代、西郷隆盛氏がわざわざ自分の宿舎に訪ねてこられた。

 参議という、非常に高い位についていた西郷氏が、一官僚の住まいに訪れるなど普通ではないことである。この事自体、西郷氏が非凡な人物であることがわかるだろう。

 訪問の内容は、廃藩置県に伴う行政の一元化問題であり、相馬藩がそれに対して異議を申し立て西郷氏に陳情した。

 相馬藩は、二宮尊徳先生に財政や産業指導を受けており、その改革が大きな成果を上げていた。尊徳先生の指導された「興国安民法」により、藩の財政は上手く機能していたので、そのような折角の良法を廃絶してしまうのは惜しいので、どうにか自分たちは「興国安民法」を存続させて欲しいというものであった。

興国安民法
《歳入額》の数値
過去180年の歳入統計を作成し、60年ずつ3期に分ける。
中央である第2期目 60年の平均歳入を平均値とし、平均歳入額とする。

《歳出額)
更に、同180年データを二分割し、収入の少ない方の90年の平均歳入額を標準にして藩の歳出額を決定する。

その平均値を基準として、増減を測りながら開墾などの投資に廻す。

 このように優れた法は継続すべきではないかと言うのは道理であるが、国家全体を考えねばならない時期であり、一藩のみを特別扱いし、国全体の根幹を揺るがせてはならないと私見を述べた所、西郷氏は何も言われず帰られた。

 わざわざ出向いたのだから、何が何でも意見を通す人たちが多い中、虚勢を張る事もなく、道理がわかれば素直に納得される、あのような人物こそ、実に尊敬できる人物である。

修養は理論ではない

 自分の身をどこまで修めたらよいかというと、これには際限がない。
学びは一生の姿勢である。

 注意すべきことは、空理空論に走らないように心がけることだ。
学問は理論ではなく、実際に行うことで始めて役に立つ
つまり、常に「実行できるか」という現実問題と結びつけて考えなければならないのだ。

行動と学理のバランスこそが重要だ。

理論と実際、
学問(研究)とビジネスは、密接な関係がなければ、国も興隆しない。

 ビジネスばかりでは強さはなく、
理論や学説だけでは経済的に成り立たず、
この両者がバランスよく密着することで、強さが生まれる。

 朱子はそれまで形骸化していた儒教を研究し、
学理として素晴らしいものを確立した。
しかしその時代の宋の国は政治が退廃し、兵力も衰弱していたので、
どんなに学問が発達しても、実利に役立てることが出来なかった。

 空理空論化してしまった朱子学を活用したのが家康公だ。
家康公は、政治の安定策という実利と結び付けて活用した。

 戦国動乱が収まらぬ中、日本を統一、京都から離れた江戸に幕府を開いた家康は、徳川家を神格化、カリスマ性を与える必要があった。
その時に用いたものが朱子学で、家康の遺訓とされた言葉(神君遺訓)のほとんどが、論語からの引用だ。
300年もの安定政権を確立できたのも、家康が家康を神格化した成果に他ならず、それには学理と実利の調和、バランス力があったのだ。

 しかし時代を経るに従い、学理を弄ぶようになると、求心力が失われていき幕府は崩壊した。

 世界史をみても、学理と実利の調和がポイントだということはよくわかる。いくらビジネス的に成功しても、精神的支柱にならない限り、継続した成功は得られない。それこそが修養の目的であり、故に修養に終わりはない。

平生の心掛けが大切

 世の中は思った通りにはいかないものだ。
それは何故なのか。
自分の気持ちが変化するからだ。

「必ずこうしよう!」と思っても、途中から違う方に行ったり、
他人の言葉に動揺して、断念したり、
時代や環境のせいにしたり、
意志が弱いと目的がずれるので、思った通りに行かなくなる。

つまり、「思った通りに生きること」に大切なことは、
意志の鍛錬、精神鍛錬である。

鍛錬に大切なことは、自省熟考だ。

 目指していたことが、環境や状況に応じながらも変化せず、継続出来れば最初に考えていた到達点に至る。
それにはまず、慌てず、冷静に、慎重に、熟考し、
「本来自分は何を目指しているのか」と、自問自答、
考える癖をつけることができれば、
いつでも本心の住処に戻ることが出来る。

 私の場合、明治4年に大蔵省を辞した時、実業界こそが天職だと思った。そして、何が起きても政界には戻らないと決心した。
政治と実業は絡み合っている。その両方を巧みに行き来すれば、すこぶる面白い事も出来ただろうし、そうすべきだとアドバイスする人も沢山いた。
しかし私は最初から実業界に身を投じようと決したので、政治とは手を切り、誰に何といわれようが、どのような誘いがこようが、初志貫徹、断ってきた。

 実際にやってみると、思ったようにいかないこともあり、政治と組んだ方が遥かに容易く出来る事もあった。もし私の意志が薄弱で、政界に復帰していたら、どうなっていたかは分からないが、最初の志が挫折したことだけは間違いない。

 最初の志が挫折したら、その後の事はどうでも良くなり、方向性が分からなくなり、右往左往してしまい、人生が崩壊していただろう。

 臨機応変な対応は必要だが、
大綱において自分の意志に反することは、
些細なことでも断固撥ね付ける強い意志がない限り、
初志を貫くことなどできはしない。

小さな蟻の穴が、大きな土手を崩壊するように、
些細な妥協が総崩れすることになるのだから。

すべからくその原因を究むべし

乃木大将の殉死に際して、賛否両論あるが、
彼が清廉潔白・忠誠無二の高潔な人物だからこそ、
その一死が世間に様々な感情を湧き立たせている。

何よりも注視すべきは、亡くなるまでの行動、考え方の全てが偉大だったという事だろう。
そのお立場になるまでの勤勉さ、学識は勿論のこと、
人間力、忍耐力を修養するに、
普通の人が想像できないレベルの苦労鍛錬
があったに違いない。

東照公の修養

家康公ほど、神道仏教儒教などを調査され、そこに注目した政治家はいない。特に儒教を好まれ、論語・中庸を熱心に学ばれた。

神君遺訓という家康公の言葉のほとんどが、そこからの出典である。驚くべきことは、家康公の時代はまだ動乱期であり、仁義道徳など軽視されていた時代の最中に、その必要性に注目し、独自に研究されたことだ。

仏教も、様々な僧侶と親交を持ち、中でも南光坊天海師は顧問となり、隠居されてからの、ある年など、90日間に60回、70回の法談をされたという記録もある。終生修養を行われたようだ。

誤解されたる修養説を駁(ばく)す

 修養とは、天真爛漫さを損なうから宜しくないとか、人を卑屈にするのではないかという、修養無用論の意見がある。

 修養とは、身を修め、徳を養うこと、人間性を高めるものであり、それが生まれ持っての天真爛漫な性格を矯正するものではない。

 また、修養は人を卑屈にするという説も、孝悌忠心、仁義礼徳が人を卑屈なものにするという事になるが、それにも異を唱える。
 孝悌忠心、仁義礼徳を習慣づけることで、自らの人間性が高まる。
そうすると、物事の善悪が明瞭になり、迷わず正しい判断が出来るようになる。つまり、人を卑屈にするものではなく、人の智慧を養うために必要なことである。
 今日の教育があまりにも知識や情報を得ることを主眼とし、精神を錬磨することを軽視しがちであるため、このような誤解された意見が生まれるのかもしれない。

修養は、青年のみならず、老人になっても青年期と同じ錬磨をすることで、精神も智識も肉体も行動も向上させることが出来るという、もっと広い意味で捉えた方が良いだろう。

権威ある人格養成法

今我々に最も大切なことは、人格修養ではなにか。

 明治維新以前までは社会に道徳倫理があったが、
西洋文化の輸入と共に、儒教は古臭いものとされて退けられた。
かといってキリスト教が今日の道徳規範になっている訳でもなく、
明治時代に新道徳が成立された訳でもないため、現在の日本は思想がない状況である。

 故に、多くの人がどうすれば良いのか判断が出来ず、青年の人格教育も行われていない。

 世界のどこの国も宗教があり、道徳規律があるのに対し、我が国だけが宙ぶらりんの状態で、こころの持っていき場がない状態である。
そのため、極端に利己主義に走ったり、下手な気を廻したり、国家や社会のためというより、自分の利益しか考えられない人たちがあまりにも多い。

 豊かになること、富を蓄えることは、勿論悪いことではないが、自分さえ良ければ良いという考え方は、人格修養が欠如しているからではないか。

 そのため、私は青年達に人格修養を行って欲しい。

どのように修養するか、仏教もキリスト教も良いだろう。
私自身は、青年期に儒教の教育を受けているため、この孔孟の教えが大いなる権威の人格養成法だと思っている。

 孝悌忠心を学び人間としての信頼力をつけた上に、学術理論を習得することで、相手の立場になって考えられる判別力が身につき、永続した成功を手にすることが出来るのだ。

「目標を達成するためには手段選ばず」という言葉があるが、私はそうは思わない。高尚なる人格をもって正義正道 正々堂々と築いた富や地位は、多くの人に支持される継続した成功となる。それこそが正統な成功だと言えるのではないか。

商業に故郷なし

明治36年、カルフォルニア州では、日本人移民労働者に対する排斥運動がおこり、学童隔離政策が行われた。アメリカ人の反日感情を改善するために在米日本人会が設立された。

その後、日米国交親善に努め、誤解を解くよう、日本に視察に来てくれないかと訴え、実現した。
その際、私は日米関係の沿革を詳述し、アメリカに渡った移民たちが欧米の習慣に慣れないため同化しない、マナーが悪いなどという欠点に対しては勉めて直させるようにして、アメリカ人に嫌われない人間にすることを心がけるが、人種とか宗教の違いから日本人を嫌うというのは、文明国民アメリカ人として、なすべきことではないかと意見した。

 そもそも日本を世界に紹介してくれたのはアメリカ人であり、日本人はそれに感謝して、今日まで国交親善に勉めている。そのアメリカ人が人種的偏見や宗教差別から日本を蔑視し差別をするというのは、文明国民として正義に反することでないかと理路整然と話したら、彼らは深く納得して喜んでくれた。

君子は慎みて以て禍を避け、篤くして以ておおわれず、恭しくして以ては恥に遠ざかる。(礼記)

教養人たるものは、慎重に言葉や行動を選んで災難を避け、誠意を尽くした態度をすることで、よそ者扱いされることがなくなり、相手に敬意を払うことで侮辱されることがないという方法を知っている。

山脇史端

参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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