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論語と算盤 要約⑨ 教育と情諠

孝は強うべきものあらず

孟武伯孝を問う、子曰く、父母はただ、其の疾を之れ憂ふ。

孟武伯が孝について孔子に尋ねた所、孔子はこのように言いました。
「子供が病気になった時、最も心を痛める存在が両親だ。親はそのことしか考えられなくなるものだ。」

子游孝を問う。子曰く、今の孝は是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養うあり。敬せざれば何を以って別たんや。

子游も孝について孔子に尋ねた所、孔子はこのように言いました。
「近頃は、生活の面倒をみることを孝というようだが、食べさせるだけなら家畜を飼うのと変わらない。敬うという気持ちがなければ家畜の飼育とどう違うのか。」(論語 為政)

 孔子は親孝行について、様々な言い方で述べている。

 孝行とは、親から子供に強制するものではない。強制すると、逆に親不孝な子供になってしまう。親は自分の考えひとつで、子供を孝行者にするし、親不幸な子にもする。

 自分の想い通りにならない子供が、親不孝かというと、それは大いなる間違いである。親の面倒を見るということだけなら、動物でも行っている。親の側にいて親の面倒をみなくても、それが親不孝な子であるとは必ずしも言えない。

 親孝行とは何か。

 23歳の時、父親は私の優秀さを認め、親の気持ちとしては自分の手元において、自分の想い通りにしたいのだが、お前は私より優秀なので、私の枠には収まらず、親に逆らって家を出て、挙句の果てには親不孝な子供になってしまうだろう。だから、お前を好きなようにさせることにしたと言ってくれた。そのお蔭で、私は親不孝者にならずに済んだのである。

 親孝行とは、親がさせてくれるものである。
子供が親孝行をするのではなく、親が子供に孝行をさせてくれるのだ。

 それを教訓と心得、私も自分の子供に接している。私と違ったところを評価し、それを好きに伸ばせばよいと思うのだが、父親と自分との関係とは逆で、どうも自分より能力的に劣っているように感じてしまう。

 しかし私と違うからと言って責めて、私と同じようにせよと言っても、お互い違う人間なのだから、お互いにとって無理な注文であり、子供を親不孝者にしてしまうだろう。

 孝行とは親がさせるものである。
私は子供たちが私の思った通りにならなくても、親不孝な子供だと思わないように心がけている。

現代教育の得失

 昔の人は志気もあり素晴らしかった。今の青年はだらしないというが、一概にそうばかりとは言えない。

 それは、ごく一部の偉い青年と、今を生きる一般の青年を比較しているだけのことで、今の青年の中でも偉い者もいれば、昔の青年にも偉くない者もいる。

 維新前は、身分制度が厳格で、教育制度も身分により著しく異なっていた。そのため、社会の上層部である、武士階級と上流市民は子供の頃から様々な漢学教育を受け、身体の鍛錬と共に武士的精神を鍛えられた。
その一方、一般市民は手習いに過ぎなかった。当時は教育格差が大きかったのだ。

 今の時代、身分に関係なく皆が同一の教育を受ける機会を与えられている。そのため、当然の事ながら、学問が不得手な子供もいる。それを、昔の少数の武士階級の者と比較するから、今の青年達が劣っているように感じるのではないか。

 維新前は少数で良いので偉い者を輩出するという天才教育だったが、今は多数の者を平均して啓発するという、常識的教育になっている。

 少数で偉い者になるべく、昔の青年達は良い教師を選ぶのに大変苦労していた。熊沢蕃山は中江藤樹の所に行ったが弟子入りが叶わず、3日間家の前で懇願し、ようやく許された。このように昔の人々は良い師匠を選び、学を治め、徳を磨いた。

 今の青年には、師匠を尊敬するという気風すらない。同時に教える方も師弟を愛しておらず、情宜ある(情愛と誠意ある)師弟関係がなくなってきているようだ。

 本来学問とは、良き師匠から知識を学ぶだけでなく、自己の品性を磨くための心の学問も学ばねばならないのだが、現在は知識を得るだけになっている。故に青年達は、ただ学問のために学問を学ぶので、目的も見いだせず漠然と学問をする結果、実社会に出ると、何をしたら良いのか分からなくなるのだ。

 また、「学問をすれば、誰でも偉い人になれる」という一種の迷信のため、経済的状況を省みないで分不相応な学問をするので、後悔する者もいるだろう。故に、義務教育を卒したら、各家庭の経済状況に応じて専門教育を受け、実践的技術を修めるべきである。大学に行く場合は、如何なる専門学科に進むかという、確固たる目的を定めてから進むことが大切である。

 軽薄なる虚栄心のために学問を修めても、それは本人の人生が無駄になるだけでなく、国家の衰退を招く遠因にもなると思う。

偉人とその母

 女性教育など必要ないという人たちがいるが、果たしてそうだろうか。

 優秀な人材は、優秀な母親たちの教育により誕生する。
孟子、ワシントン、楠正行、中江藤樹も、賢夫人として有名な母親から生まれている。

  故に優秀な人材を輩出したければ、女性教育は国家にとっても必要不可欠である。

 明治までの女性教育は、中国思想の影響もあり、女性は貞節で従順で優美で忍耐強さを求められ、それを重視した教育で、学問、学理や知識を学ぶ機会は与えられてこなかった。

 貝原益軒の「女大学」は、当時の一流の書籍だが、そこでも女性への知的教育は言及せずに、もっぱら自我を慎むことばかりが要求されている。そのような歴史的影響は強く、明治に入り女子教育も進歩したとはいえ、未だ充分社会に認識されていない。

 未だに「腹は借り物」など、女性を侮蔑する言葉があるが、このように女性を蔑視してはならない。

 なぜかというと国に半数いる女性を活用しない限り、日本の国力は半分しかないという事ではないか。

 その半分の可能性を、旧来の侮蔑的観念から脱却せずに軽んじていれば、国家においても大いなる損失である。故に女子にも男子と同様の教育を与え、共に助け合う事により、国力は倍増する、これが私が述べる女性教育の論理的根源論である。

その罪果たしていずれにありや

 師弟関係が崩壊し、上下関係ではなく、友達のような関係になってしまっている。そのため師弟間の情誼(情愛と誠実、敬意ある関係)が崩れ、人間性が育たない。

 孔子には3000人もの弟子がいたという。
恐らく全員と情宜を交わしたわけではなく、その中の六芸に通ずるもの(しっかりとした初等教育を受けた者)72人が師匠との談話をすることで、師匠の人格に感化され、良い関係を築いていたようだ。

 数多の天下の諸侯の誘いを断り、備前候に仕え、藩主から師匠として崇められた熊沢蕃山も、師匠である中江藤樹に対しては子供のようであった。
これは師匠である中江藤樹の徳望がそうさせたのだろう。

 剛情で頭脳明晰であった新井白石も、師匠、木下順庵には服従していた。佐藤一斎・広瀬淡窓も、数多くの弟子たちを感化していた。

 なぜ今の学生たちは師匠を尊敬しないのか。

 これは師匠に問題があるのではないかと思っている。知識や学問だけでなく、徳望・人格など人間性が高くなければ、弟子たちから敬虔の念を抱かせることなどできない。

 特に時代の過渡期になると、知識だけを教える風潮が強まるが、それが社会に様々な弊害を惹き起こしている。いやしくも人に物事を教える立場にいる人は、自らの人格も省みる必要があるのではないか。

理論より実際

 教育問題では特に、中学・高校教育に問題がある。単に知識を教えるだけで、人格教育、徳育が行われていない。そのため、青年達が勇気と努力、自覚が欠如してしまうのだ。

 また、日本では実業教育、つまりビジネスに関する教育が進歩していない。軍人教育は規律命令が整然と厳格に行われているため、立派な人格の軍人を見ることはあるが、そのやり方を実業界にもって来るわけにはいかないのだ。

 実業の士は、臨機応変に自分の頭で判断して動くことが求められており、軍隊のように一々上官の命令を待っているようでは、折角のチャンスを逸してしまう。チャンスを逃すまいと、ひたすら情報や知識を追いかけ、そちらの方ばかりに傾倒すると、

孟子の言っている「上下交々利を征れば国危ふからん。」(梁恵王上首章)な状態、つまり上の者も下の者もこぞって利益を貧ることだけに熱中する

 このような状態になれば、国家は亡びてしまうのだ。

 そうならないために、智育と徳育を平行しながらビジネス教育を行う必要があり、私は永年提唱しているのだ。

孝らしからぬ孝

 心学とは、神道・儒学・仏教の3つの宗教をベースとし、実践道徳を唱えたもので、江戸時代の中期、吉宗公の時代に石田梅岩が提唱、その門下生、手島堵庵・中沢道二により普及された哲学である。その心学の中沢道二の「道二翁道話」に、孝行修行という説話にはこのような話がある。

 近江の国に有名な親孝行者がいた。
信濃に親孝行で有名な者がいると聞き、「どうすれば最善の孝行を親に尽くすことが出来るのか、伺いたいものだ」と、信濃までわざわざ修行に出かけけていった。

 信濃についてみると、その家には一人の老婆が寂しげに座っていた。息子はもうすぐ帰ってくるから、別室で待っていると、しばらくしたら息子が薪を一杯背負って帰ってきた。
帰るなり、老婆に荷解きを手伝わせ、足を洗えだの、拭く物を持ってこいだの、挙句の果てには、疲れたから肩を揉めだのと老婆に勝手な注文ばかりをする。老婆は嬉々として息子の世話をみながら、奥に客人がいると伝え、来訪の趣旨を話し込んでいる内に、夕方になった。
それでは食事を一緒にということで、老婆に膳の用意を言いつけるのだが、今度は味が濃いだのご飯がどうだのと散々老婆の用意した食事に注文をつけるのだ。

 見かねた近江の孝行者が、あなたは孝行者で有名だと聞いていたのに、これはひどいではないかと意見したところ、信濃の孝行息子は次のように語ったのだ。

 親孝行とは全ての行動の基本であることに違いはないが、孝行を意識しての孝行とは真実の孝行ではない。疲れてかえって来た息子の面倒を見たいというのは親の情で、私はその親切を無駄にしないだけである。食事についても、息子が不満足ではないかと気を揉んでいるのがわかるため、敢えて小言を言ったのだ。母親が何を感じているか自然に感じ、自然のままにできるようにしているだけのことであり、その私の行為をみて、親孝行者という評判が立つのなら、それはまだまだ至らなかったのだろう。

 相手が何をしたいのか自然に理解し、お互いが無理なく自然にふるまうことが出来ることこそ、真実の孝行ではないかという話だった。

人物過剰の一大原因

 人材にも需要供給の原則はある。世の中、学校制度で多くの高学歴者を輩出するものだから、中流以上の人材の供給過剰現象が起きている。

 高学歴な学生は当然の事ながら、高尚な事業 ホワイトカラーに従事したいと願っているが、その分野の人材は数少なくてよいため、供給過剰気味になってしまう。一方、ブルーカラーワーカーは数多く必要なのだが、高度な教育を受けているものは嫌がるため、需要供給のバランスが崩れてしまうのだ。

 昔の寺小屋時代の場合、基礎教育といっても四書五経に八大家文など基本的古典教育がベースであり、その後、各々が得意とする分野に進んでいったので、十人十色の人材が輩出した。

 今のような学歴主義に陥ると、自分の才能や適性を考えず、みんなが行くからといって大学に行き、大学に行ったからには、他の人がやっている事位なら自分にもできるだろうと多寡をくくり、下の仕事に就こうとしないものだから、人手はいるのに人材不足という妙な現象が起きてしまっている。

 昔の教育は、100人中1名の秀才を出せばよく、残りの99人は普通の人であればよいという教育制度だった。しかし、現在のように全員に平等な教育を施した結果、中流以上の人物の供給過剰問題が生じたのではないだろうか。

要約 by 山脇史端

参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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