吾輩は窓際三等兵である(書評 『息が詰まるようなこの場所で』外山薫 著)

吾輩は猫である。そう、これは『吾輩は猫である』だ。二章目まで読んだ時になんとなく直感した。夏目漱石ファンから、いや、多くの文学ファンから「こんなの文学じゃない」なんて言われてしまいそうな、タワマン文学出身の著者が手がけた作品である。しかし、私の第一印象はこれだった。読み終わった今でもそんなに外れた感想ではないと思っている。

窓際三等兵という猫の目を通して、タワマン、お受験というテーマを軸に、世間ではそれなりに裕福であったりエリートと呼ばれるような人々が抱える、それぞれの地獄を順番に覗いていく。あくまで「覗いていく」という感覚。それは私自身が彼らと似たような地獄を経験していないことが原因かもしれないが。

この「覗いていく」という感覚、彼が徹底した観察者であり、取材したものを他者に伝えるメディア関係者だった、そのバックグラウンドに由来しているのだと思う。彼のイタズラっぽく物事をデフォルメする芸風と他人に入り込みすぎない距離感がさらに拍車をかけている。

まだ読んでいない方のために詳細は割愛するが、第一章の主人公、平田さやかの見え方が章が進むに連れてどこか滑稽になっていくところなど、私はとても「窓際三等兵っぽい」と感じた。そして、そんなふうに登場人物に完全に寄り添うことなく、ときには風刺の色も交えて突き放して描写していくところに、『吾輩は猫である』っぽさを感じるのである。

麻布競馬場氏の『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』。また他の著作を引き合いに出してしまうあたり、自分の表現力の乏しさを感じずにはいられない。だが、タワマン文学と評される両者の作品を比べたくなってしまう人間は私だけではないはずだ。

彼もまた人並外れた観察者であり、一方で自身は人の気持ちがよくわからないといった旨の発言をしていたように記憶している。しかしながら、「3年4組のみんなへ」をはじめて読んだ時、主人公の挫折と諦めの経験、教え子たちに向けて言葉を紡ぐ姿に感情移入せずにはいられなかった。

自分語りや独白を中心とすることで読者に一体感をもたらす麻布競馬場氏のスタイル、言葉というノミを使って読者と一緒に人物像を削り出していく窓際三等兵氏のスタイル、その違いが私と主人公たちとの距離に違いをもたらしているのだろう。

窓際三等兵といっしょにタワマン住民を冷やかしに行く、でもそこには現実でも多くの人が直面するであろう日常における苛立ち、不安、不満があり、それは彼らの人生、過去とつながっていく。そして読者は主人公たちを理解する。決して痛快なストーリーではないのに最後まで心地よい距離感で読めた。まるで著者本人の人となりが表れているようだ。

あ、ごめんなさい。外山薫さんでしたっけ?


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