「暗闇のアイ」
夢を見た。
僕が夢か起床してるかを判断するのは簡単だ。何かの光景が見えたら夢で、何も見えなければ起きている。
うすらぼんやりとだけど、見た事もないヒトミと散歩をしている穏やかな光景を覚えている。
だけど、今見えているのは暗闇だ。起きている。
寝起きの頭を整理する。日の温かみは感じない。アラームは鳴っていない――いや、鳴り出した。時刻は午前六時。
アラームに合わせて左下方で鈴の音が鳴る。ヒトミが起きた。
「おはよう、ヒトミ。カム」
ベッドから降り、寄ってきたヒトミを撫でる。ぬくい手触りが心地良い。
盲導犬のヒトミとは、中学に上がった頃からの付き合いになる。寝食を共にし、体の一部も同然に日々を過ごしてきた。この、暗闇の世界でヒトミはこの上なく心強く、掛け替えのない存在だ。
だけど、お別れが近づいている。
ヒトミは来月で十歳。盲導犬の引退の歳だ。
「引退、か……」
顔を洗いながら、憂鬱な気分に苛まれる。このところ頻繁にこんな気分になる。
ヒトミが引退後、次の盲導犬を迎える事になっているが、そうそう割り切れるものではない。
ハーネス超しに支えてくれる歩みの頼もしさ。撫でた手から伝わるぬくもりの安らぎ。陽光を感じさせる優しい匂い。多感な時期に共にあり続けたそれらが失われると考えると、際限なく不安が押し寄せる。
これほどの不安は視力を失った時以来かもしれない。世界が崩壊していくのを待っているように、一日一日と日が経つのが、唯々怖くなる。
己の顔をはたく。いけない。気持ちを切り替えなければならない。どれだけ悲しくても、生きている以上は乗り越えなくてはならない。悲しんで、立ち止まってはヒトミに申し訳が立たない。
鈴の音が鳴る。絶妙のタイミングでヒトミが寄り添ってくれる。洗顔を終え、朝食に向かう。
また、一日が始まり、別れの日が近づく。
【続く】
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