第12回「愛されなかったら、宇宙の子になればいい」
今回はまた箸休め的に、占星術の話を久しぶりに挟んでいきます。
人から嫌われるのを恐れない生き方がこの私にできるだなど、思いもよらない事でした。そしてそんな生き方がこれほど快適である事もです。
双極性障害という疾患で8年半ほど闘病していたことを明かすと、どうやって治したのか、どのように立ち直ったのかたまに聞かれることがあります。
これに答えることはやや難しいです。私は最後には自己判断で服薬もやめてしまったので、参考にしては危険かもしれませんし、勧めることはできません。「生活習慣を整えたら元気になった」などと答えることにしていますが、その理由は半分だけ本当です。「占星術を勉強したら心が健康体になったのだ」と急に言われたら、大体の人がとまどうだろうから、あまり言いたくないのです。
私の人生のすべてはホラリー占星術との出会いで一変し、いまでは自分自身がこれを専門に占断を行い、商売をしています。
生年月日と出生時間からホロスコープ・チャートを作成し、その人個人の性格や運命を鑑定するのはネイタル占星術といいます。ネイタルは「生誕の」という意味です。それに対して「その時間の」という意味のホラリー占星術はいわゆる卜占(ぼくせん)。どんな質問にも答えられます。生年月日ではなく「占術師が宇宙に質問した瞬間」の夜空の星の配置をホロスコープ・チャートに書き写すことで、答えを導いたり、未来予知ができます。
たとえば「私は今度の試験に受かりますか?」と宇宙に尋ねてチャートを算出します。このとき月がさそり座の位置にあったら、他によっぽどの吉兆が無い限り、あなたは必ず試験に落ちます。
えっ? でも、何故分かるの?!
ちっぽけな人間ひとりの頭のなかの問いに、宇宙が星の配置という大がかりすぎる暗号を使ってわざわざ回答するというのは、近代的理性の持ち主には全く理解しがたい話です。
しかし背筋が凍りつくほど、ホラリーはズバズバと的中します。そんなもの牽強付会だろう、チャートから都合よく答えを導き出しているだけだろうと私も思っていました。しかしアイマイで都合のよい我田引水を許さないために、ホラリーのリーディング方法はかなり厳密で機械的です。ホラリーの技術を知ってしまうと、それよりずっと人口に膾炙している近代ネイタル占星術は解釈の幅が広すぎるように思えるほどです。
なぜホラリー占星術が当たるのか、仮説は数あれど、誰も確かなことはいえません。ただ、仏教の梵我一如、つまり宇宙と個人は同一のものであるという思想などを用いることで説明はできます。
近代人は忙しく心にも余裕がないので、ゆっくりと自然の移り変わりを感じる機会も中々ありません。しかしたまに緑の中に出向き、大自然を観察していると、すべてが循環していて、無駄なものが何ひとつ無いことに驚かされます。そして人間も自然のうちということを我々は忘れがちです。
ある宇宙飛行士が宇宙空間から地球を眺めたとき、人間とは宇宙という巨大な身体のいわば細胞であり、生死はすなわち宇宙の新陳代謝なのだと悟ったのだそうです。つまり、宇宙とは統一体であると感じ取ったのです。
ホラリーは未来予知技術であると同時に、私たちが日頃どうにも実感できない、宇宙とのつながり、自分たちが宇宙の一部であるという事実を目に見える形で提示してくれるツールでもあります。
第4回で超自我の話(スーパーエゴ)をしました。親からの抑圧により、過度に規範を内面化した結果生まれる、内なる監視の目のことです。
私もかつて非常に超自我の強い人間で、常に親から監視されているような生き方をしてきました。そのせいでしょうか、ホラリーを学びはじめたときは、本当に恐ろしかったです。私のあらゆる疑問にあますことなく宇宙が答えてくれる。これではまるで監視されているみたいだ。一挙手、一投足。そう、まるで母が私の自慰行為をのぞき見て性的侵犯をしたように。
しかし宇宙規模の壮大な「監視の目」と付き合いだしてすぐ、私は安心していきました。
親からの愛は条件つきの愛でした。彼らは私が意に添う行動をしたときだけ過剰なほどに絶賛し、そうでない時はお察しのとおりです。
「サッちゃんにはガッカリした。せっかく挽回のチャンスだったのに」「ああ子育て失敗した」
かつての私の行動原理のすべては「愛されたい」「認められたい」「必要とされたい」でした。この条件つきの愛が、そうでないと私に存在価値は無いと思わせしめていました。心を病んで何も出来なくなり、社会のお荷物となったことで、ますます精神状態は悪化しました。
しかし宇宙にとって愛に条件はないのです。
先ほどの細胞の話でいうと、個々の細胞は自分の役割も、生まれては死んでいく意味も知りません。しかし人間の体の細胞約60兆個すべてが絶妙に構成・配置されることでひとつの肉体が成り立っており、無駄はありません。ちょうど自然界にも無駄なものがないように。人間と宇宙はフラクタルのような相似形です。
宇宙にとってはあらゆる人間、あらゆる元素が、ただ在るだけで自分自身の身体を構成する重要な細胞です。すべてはひとつであり、すべてがひとしくガッチリと歯車として噛み合い、彼という統一体を駆動させています。
病んだ私は何回も自殺企図がありました。愛されない私が生きていてもいい理由が分からなかったから。でも自殺は失敗し、私はいま生き延びてしまっている。なぜか。宇宙が私を必要としているからだ。
今回はあまりに壮大かつ雲をつかむようなスケールの話なので、ここまで読んで皆さん「はい、そうですか」でなかなか承服できなくても、当然の話です。
私すらずっと占いやオカルトなど非科学的なことが大嫌いな女でした。ミソジニーです。愛読書はと学会の「トンデモ本の世界」。目に見えない世界を否定しまくり、女が好き好んでハマる「占い」をすべて否定することで、名誉男性として人に褒めてほしかったのです。
ユング心理学ではこういう状態を「アニムス(内的男性)に取りつかれている」と表現します。 男性性への過剰適応であり、自分の内なる分身に手綱を握られ、支配されてしまっている病的な状態です。
愛を獲得しようともがけばもがくほど、社会との繋がりを失っていったように思えます。私はいつも、自分の住んでいるアパートが他の空間から切り離され、ぽっかりと空中に浮かんでいるように感じていました。
人間が情緒的安定感を持って生きるには、共同体に属し、そこにがっちりと根ざす必要があります。家族の愛に恵まれなかった人間はその時点で所属する共同体を一つ失っているわけですから、心が不安定になりやすいのも当然です。
だから私は、宇宙という巨大な共同体に属して生きればいいと言いたい。彼は裏切らず、当面は消滅も瓦解もしません。「誰に必要とされなくても、宇宙があなたを必要としている」と言いたい。親でなく宇宙の子として生きればいいと思います。
何かを信じるということは、それを選択した自分を信じるということです。成育歴により、自我の基盤を確立できなかった人が自尊感情を取り戻すには、大事なプロセスでもあります。
Credo quia abstudum(非合理ゆえに我信ず)。信じがたい事柄を信じることをこの手で選びとった経験による自尊心の回復と癒しが、私の病を治したのかもしません。
次回はまたいつもの自伝的エッセイに戻る予定です。
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