【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】現代的観点におけるパターナリズムと共通善に関する「超克の超克」

田代剛士

起稿:2023年10月15日

 私は本稿でパターナリズムを問題にする。課題意識としては、社会的父権主義の有効性と社会内存在という位相における個人の不満感との兼ね合いである。
 さて、このような事柄というのは個別具体的な事象から考えるべき問題であるから、そのような方針をとる。まず、ここに一人の病識のない精神病患者がいるとしよう。そうした場合、その個人のためにもほとんどの他人のためにも、当然に処置として治療を施すのが望ましい。しかしその場合、当人の病識の欠落から治療の開始は同意の不在や介入を含意する。この場合、近代的常識に則れば、当人以外からの介入であれば誰であれその事態はパターナリズムと形容される。この介入に対しては、こんにちにおいては公共の福祉という功利主義的思想が保証を与えている。功利主義が問題にする最大の関心事は幸福である。これは一つの思想系として成立している。しかし、精神病者といえどもその症状の発現形態は圧倒的に多様にして個性的であるという事実を見落としてはならない。私は精神病者として閉鎖病棟に強制入院に処された経験があり、それ以前から精神病や国際秩序に関するパターナリズムの有効性の議論は検討し続けてきたが、いざ自分が処置される側に回ると、事態はそう単純には割り切れなくなるのである。しかし問題はここからである。そもそも、ニュートラルに解放された自由人という幻像を問題にしなければならない。それが幻像であることは、例えばいつどの時点に本来的自己があるのかを定位することが困難であることから考えるとわかりやすいのだが、そうすると病識を<病識>として拡大解釈したほうが妥当となる。問題はここで社会論となる。というのは、思い起こしてみてほしいが、例えばインターネット上などで<病識>の欠落した政治的言論に遭遇したことはないだろうか。恐らく彼らにとっては、まさにあなたの方が<病識>の欠落した無知なる者であろうと思う。しかし早まらないでいただきたいのは、私はなにもこうした陳腐な現代思想もどきを展開するためにこうした言論を進めているのではないということである。問題は、それでもなおより善き社会を目指すためにはいかなることが望まれるかということである。そこで私の戦略としては、現在日本でとられている体制の検討をしたのちに、それをどう改組するのが最適解なのかを探る。
 ある社会の特定の局面を切り抜く際、ただ形式上の言語で現れているものだけを抜き取ってくることはたんなる惰性である。そうではなく、現実に実際上どのようであるかを明確にしなければならない。「社会」というのは無対象表象のような概念であるから、あくまでも活用はしても、社会が先在して問題があるのではなく、むしろ問題があって後にその問題に応じた「社会」が生起すると考えた方がいい。或いは軽口の提言だが、もはや社会の全体論が問題にならなくなっているこんにちにあっては、「社会」という言葉そのものを捨てた方がいい局面に来ているのかもしれない。
 アクチュアリティや課題意識の起源とはなんだろうか。恐らく事は卑近である。必要な要素としては、未来という時間意識がまず挙げられようが、それとともに快苦が挙げられよう。そして、肝心なのは、未来における快苦に対してはたらきかけの余地があるという自由の観念である。ところで「自由」と言うとドイツ語のFreiheitや英語のliberalの訳語としての近代的自由が云々という想起がなされやすいが、ここで私が言う自由は、そのように言葉が与えられる以前のもっとプリミティブな観念である。そうした観念であれば原始の狩猟民でさえ持っているというようなものである。未来観念についても付言しておかなければならないが、一般に直線的時間観念や歴史観念がキリスト教やアウグスティヌス、ニュートンやドイツ古典哲学などの西欧近代と絡めて語られることが多いが、ここでも構図は自由観念同様、そのような時間観念がなくとも成立している「未来」のことを言っている。というのは、いかに「円環的」時間観念などと言おうともやはり既にして成立している計画的思考というものがあるということである。
 さて、こんにち「正しい」「善なる」社会思想や「本来的」あり方を志向する夢想家はほとんど根絶されたと信じているが、だからこそ近代の相対主義的超克のその先に、すなわち超克の超克を構想しなければならないのである。というのは、たんなる相対主義的近代超克は脱中心化的な相対化、ディシプリンの空疎な解体であったがために、実はたんなる思弁に留まってしまったから、かえってそれらを建設的に超克することがそれらの仕事を活かすことになるということである。
 そこで、問題意識を明確にすると、どうしても私的領域に還元しえない公共的課題をいかに処理するか、ということである。或いは公共的課題は「見つける」ものではなく「創り出す」べきものかもしれないとさえ思うが、この「課題の創出」は一般に「社会派」と呼ばれる人々が得意とする作業である。或いは、私は常備軍を全廃した世界のパワーバランスはろくなものにならないと思っている。超克の超克に必要な感度は、この「ろくなものにならない」というような「思いきめ」である。だからこそ前提となっている現代思想では政治が<政治>として拡大解釈されるのであるが、私には一種の非政治的な甘えもある。それは、正直に告白するが私は比較的素朴な科学主義者であり、括弧付きではあれ性善説寄りであるという点である。だから、私は科学技術の振興と共通善の仮構を重視している。但し、共通善の仮構と言えども、なにもフランス革命のように根本から体系的変革を志向するものではなく、そもそもそのような仕組みはあまりうまくいかない。むしろ感度としては、現在のコモンセンスの組み替えを通じた共通善への変革に近い。したがって今後は共通善の構築が要請されるが、それに関しては、性急さを排した倫理的考察を待たれたい。付言しておくと、ここにおいて、共通善を仮構していく主体としての父権性が要請されてくるということは言えると思うので、権威や専門家集団を蔑ろにしない仕組みが望まれるところである。

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