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COLORED.

 店の灯りを消すまで彼女の存在に気付かなかった。
 逃げるように立ち去った奇妙なシルエットは、学生服のように見えたけれど、もう終電車に近い時間だ。こんな場所を通りかかる理由がない。閉店後の美容院の前なんかを。
 練習を終えてアパートに戻るのはたいてい二十三時すぎ。冷蔵庫のありあわせで遅すぎる夕食をすませて零時。シャワーを浴びてベッドに沈むころには、時計を見る気力さえ残っていない。
 本当なら去年の秋にはこの酷いサイクルから抜け出せるはずだった。国家試験さえパスすれば、すぐにでもアシスタントからジュニアスタイリストに昇格させるよと店長も言ってくれていた。
「中川さん、技術はあるんだから。深呼吸して、いつもどおりやればいいのよ。ほら吸って、吐いて!」
 ……やかましわ。
 さすがに五度めの落第はまずかったようで、店長の態度が豹変した。ウチは年功序列の昭和なシステムだと笑っていたくせに、剃っても剃ってもヒゲの濃い後輩がスタイリストに昇格して、私は奴のサポート役に回された。閉店時間が近づくとヒゲ男は決まって声をかけてくる。
「中川さん、練習手伝いますよ。いつも手伝ってもらってるぶん」
 ……だから、うっさいねんて。
 他人がいると集中できないのが私の弱点だと、もうずいぶん前から気づいていた。国家試験の会場に監督がいなければきっと一発で合格していた。ビデオカメラでも置いておけばいいのに。それならぜったい緊張なんてしないのに。
 試験は嫌いだけど練習は好きだ。
 この店の建物は外周の三面がガラス張りになっている。街路から丸見えでお客さんが落ち着かないように思えるけれど、実際はその逆だった。
 昼のあいだは、外が明るくて中が暗い。店の前を通りすぎるくらいでは、誰がどんな髪型にしているかなんてわからない。
 日が暮れると、もちろん店内のほうが明るくて外からよく見える。それでも席に座ったお客さんは気にならない。ガラスを眺めたとき、そこに映るのは自分の姿だから。どーゆー原理でこーゆーことになるんだっけ?
 スタッフ全員が帰ったあとの店内で、晩飯がわりのプリンを三秒で飲んで、今夜も練習を始めます。
 タイマーを二十五分にセットした。実技試験の第二課題、オールウエーブセッティングに取り掛かる。ジェルまみれの指とコームとピンだけで、ややこしい構造をひねり出すことにひたすら集中していく。
 ところが三段めのスカルプチュアカールに取り掛かったあたりで、店の外に気配を感じた。入り口のガラスの向こうに、あの奇妙なシルエットが立っていた。黒い船の煙突が頭の上にずどん、と突き出ている。
 ノックの音がして、開いてますよと私が答えると、ドアを押し開けて黒いギターケースの先っちょが顔を出した。
「カラーと縮毛矯正をお願いできますか」
 何度か見かけたことのある女の子だと思った。たしか、母親が店長の十年来のお得意さんだったはず。
 もう営業時間外だし、予約もないし、そもそも私はアシスタントだから無理です。そう断ったのだけれど、
「アシスタントの人は閉店後にカットとかカラーのモデルを募集してるって聞いたんですけど」
「やけに詳しいやん」
「店長さんが話してたから」
「カラーだけならできなくもないけど」
「じゃあ、それでいいです」
「どんな感じの色味がいいとか、イメージある?」
「まっくろに」
 練習が終わるまで待てるか訊ねると、彼女は黙ってうなずいた。
 妙な数分間だった。見ず知らずの女の子に私のハサミと指をじーっと見つめられている。店長や試験監督にチェックされるときのプレッシャーとは違って、少し懐かしい感じさえあった。転校して初めてできた友達が自分の部屋に遊びに来た、あのときのような。
 いつもひとりで過ごしている部屋だから、ふたりで過ごすときのポジションがわからない。私が学習机の椅子に座ってしまうと、この子は床に座るしかなく、高低差が変な感じになると思って私も床に座ったら、ひざとひざがぶつかってしまった。スキンシップという言葉は和製英語だからガイジンには通じないんだよと、たしかその子に教わった気がする。スキン・シップ。そこから始まる新しい船出。
 ありがとうございました、と彼女は頭を下げて帰っていった。背負ったギターが保護者面をして一緒におじぎした。その晩は、ひさしぶりに深く眠ることができた。
「中川さん! いったいなに考えてるの?」
 せっかくの休みだったのに、店長の電話で叩き起こされる。あの子の母親が、店に怒鳴り込んできたらしい。
 親に相談もなしに勝手に未成年を黒染めするなんてどうかしている。人権問題です、いや国際問題だ、汚いカラスみたいな色にされて、それが普通の感覚だとしたら日本人は狂ってますよ?
「急な夜中にそんなこと頼まれて、変だと思わなかった?」
「いえ」
「アレルギーが出る恐れもあるし」
「それは本人に確認してます」
「そうだとしても、最近よくニュースになってるでしょ、学校の頭髪指導の問題」
「はぁ」
「聞いたことない?」
「なんとなく」
 生まれつき髪の色が明るかったり、まるでパーマをかけたような癖がついている子どもたちは、生活指導の教師たちに疑いの目を向けられる。嘘をつくな、お前、染めてるだろ!
 その先の選択肢はふたつ。黒く染めて普通になること。あるいは「けっして非行の端緒として毛染めを行なったのではなくオギャアとこの世に生を受けたときからの地毛なのです」と証明すること。幼少時の写真を提出したり、美容室で確認のうえ書類を作成したり。
 しかし今、そんな理不尽に異を唱える人が増えてきているのだと店長は(熱っぽく)語った。
「子どもたちの気持ちを踏みにじって、傷つけて、そのうえ個性的な色をした健康的な髪をわざわざ薬剤で痛めつけるなんて、おかしいでしょ。そう思わない?」
 私がなにをどう思うかはカンケーないと思います、お客さんの要望に百二十%の技術とセンスで応えるのが美容師の仕事なので。
 という屁理屈はぎりぎり呑み込んだ。いまクビになるわけにはいかない、せめて合格するまでは。
 次の晩からひとりで残って練習することを禁じられた。つまり、練習したければヒゲ男に付き合ってもらうしかないということ。
「えー。オレそんなヒマじゃないんすけど」
 提示額五千円のところを二千円まで粘って交渉成立。月水金ベースの週三で手を売った。
 アドバイスもサポートも口出しも要らないと宣言すると、奴はヘッドホンをしたままタブレットを抱えて奥へ消えた。ときおり煙草を吸いに出てきて正面の扉から出たり、入ったりするから気が散る。その三ターンめ、外から戻ってきたヒゲ男が「なんか、来てますよ」と告げた。
 なんかって言うなよ。
 そういう私も、まだ彼女の名前を知らなかった。
「メアリーです」
「中川です」
 なにしに来たん、と言いそうになってまたまた呑み込む。どうも喧嘩腰になっていけない。
 黙っていると、彼女もなにかを呑み込んだように見えた。小さな息を深く吸うと、その音が静かな店内では思いのほか響くことに彼女自身が驚いて、今度はゆっくり吐く。その音まで聞こえてる。
「ジュース飲む?」
「はい」
 この晩は私のカット練習を見るだけで帰っていった。
 次の次の晩もまたやってきたので、もしかして昨日も来たのかと訊ねたら、図星だった。月水金ルールを説明すると、急に表情が曇る。
「それは私のせいですか。毎晩練習できなくなったのは」
「せやな」
「ごめんなさい」
「こちらこそ」
 その翌週の水曜日、今度はタコ焼きの包みを持って現われた。お詫びのつもり? いいえ差し入れです。関西人だからタコ焼きってどういうセンス? 熱いうちにどうぞ。
 しかしこのとき、包みがふたつあるのに気付かなかった私も迂闊だったと、次の次の金曜に知ることになる。
「もうすぐ国家試験なんですよね」
「なんで知ってんの」
 いつのまに余計なことを話したのかヒゲ野郎。そういえば最近、奴が煙草を吸うタイミングで彼女も外に出ていく。いったい何が楽しくてあんなにケラケラ笑っているのか、ガラスごしにはまったく聞き取れない。このままじゃ、また怒鳴り込まれるぞ。
「中川さんの弱点って、プレッシャーに弱いことじゃないすか」
 金曜日。ヒゲ男が失礼なテイストで話しはじめた。
「ケンカ売ってんの?」
「いや、事実として。それでね、俺ら考えたんですよ」
「月水金以外にも特訓しましょう。外で」
 メアリーが続ける。
「もっとひとめにつくところで」
 駅前のロータリーの一角にギターケースを広げ、地べたに座ると、彼女は私の知らない歌を弾きはじめた。知ってます? レディー・ガガの「ヘアー」って曲なんすよ。訊ねてもいないのにヒゲ男が耳打ちしてきた。
「さぁ中川さんも準備しましょ」
 メアリーの隣でモデルウイッグ相手に公開練習すればきっと度胸がつきますよと、奴らはケラケラ笑いながら提案してきたのだった。完全におちょくってる。速攻で拒否したのに、ママにチクりますよと脅迫され、こんなところまで連れて来られてしまった。
『美容師めざして修行中です! カンパお願いします!(練習用のマネキンを買うため)』
 街灯に照らされて、ふたりが勝手に描いた看板は遠くからでもよく目立っていた。弦を叩くテンポがしだいに激しくなる。歌詞の意味はまったくわからないけれど、なにかを訴えようとしている感じ。それだけは伝わってきた。
 歌声に気づいた通行人がひとり、またひとりと足を止める。まずい。さっさと始めて、さっさと終わったほうがマシかもしれない。
 諦めた私は大きく息を吸って、吐き出した。シザーベルトを巻いて隣に立つと、メアリーは歌いながらチラッとこっちを見上げた。あ、と思う。黒いつむじの奥から新しい色が顔をのぞかせていた。

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