【小説】正しさは要らない。優しい嘘を

僕が中学に入学した頃、とにかく野球部にだけは入りたくないと思っていて、卓球部に体験入部したけどグラウンド5周がキツくてやめた。僕の隣で、友人の大町が僕と同じく肩で息をしていたが、後日そいつは吹奏楽部に入るからお前もどう?と言ってきた。まんまとその誘いに乗った僕は、そのせいで就活もせずに音楽家を目指すことになり、対する大町は2019年夏に死ぬことになる。彼の葬式の日、高校の同級生と思しき人は誰もいなくて、会場にはただ中学時代の連中と、知らないスーツのおじさん達がわらわらと居ただけだった。

中学2年生の頃、初恋を経験した。同じ部活の可愛い同級生だ。楽器を練習する部屋が同じで、いつも見ていた。クラスの学級委員長で、優しかった。越してきたばかりの転校生なのに、みんなに好かれていた。僕に手の届く女の子ではなかったのだ。それにも関わらず、僕は中学2年生の夏頃には彼女と仲良くなっていた。大町のせいだ。大町が彼女を僕に引き寄せたのだ。彼には女友達がとても多くて、僕の友達はほとんど大町に分けて貰ったおこぼれに過ぎない。

僕は毎日のように大町と家路を歩いた。そこに彼女もついてきた。だんだん日が長くなってきて、僕らはいつも一緒だった。僕は、彼女に想いを伝えようなんて少しも思わなかった。ただ片思いのまま、彼女と一緒に帰る毎日がそれでも楽しすぎたので、何もする必要はなかった。正しさは要らない。ただ無垢なる喜びを。第2次性徴のまっただ中、僕らは青春を謳歌していたのだ。

僕が避けられていることに気づいたとき、季節は秋の匂いを漂わせていた。彼らが僕抜きで何をしているのか知らなかったが、不思議と不安な気持ちはしなかった。大町が浮かべるどこか悪戯な微笑みは、以前と少しも変わっていなかったからだ。けれど、嫌な予感が少しもしないと言えば嘘だった。何も気づかないと言えば嘘だった。一人きりで帰る日が増えた。最短距離を行く家路は随分と久しぶりだったが、あまりスムーズに歩けるので自分の足の早さに驚いた。

冬、僕と大町と彼女は駐車場の真ん中で輪になって座っていた。駄弁を交わし、寒さは紅潮する頬で誤魔化した。日没の速さは日毎に増していく。嫌な予感がしていた。僕はただ、大町や彼女とこうして駄弁を交わしているだけで良かったのだ。僕は身に余ることなど何も望んではいなかった。

僕「でも、それって随分と傲慢じゃないかね?(苦笑)」

彼女の言葉が聞き取れず、僕は地に臥せってああ、アスファルトってこんなに冷たいんだなと思った。信じられないような声で、彼女がまた好きだと繰り返す。今度はご丁寧に目的語つきだ。"She" "loves" "ME". 馬鹿な、その位の英文は分かるぞ。中学2年生を舐めるな。しかし僕には解らない。彼女が僕を好き? 心の底から願っていながら、何度もその妄想に耽っていながら、こんなにも驚いたのはどうしてだろうか。その時僕は、もはや今まで通りの日常(苦笑)が崩れ去ることは薄々と予感していながら、「彼女が僕を好きだ」という事実を恐れることができるほど大人ではなかった。心の底から嬉しかったのだ。心臓はバカみたいに鳴り響いていたし、全身の震えは寒さのせいではなかったし、はにかむ彼女の姿は普段より5割増で可愛く見えた。笑え! 僕はその日、家まで走って帰ったのだ。何の訳もなく走って帰ったのだ。

大町は僕に、彼女と付き合うように言った。いつもと同じ悪戯な微笑みで、僕と彼女だけを残して帰ろうともした。しかし、そんな大町も彼女のことが好きだったのだ。そのことを僕は、そこで初めて知った。大町は彼女に気持ちを伝え、彼女は大町に僕が好きだと伝えた。そして大町は彼女の恋路を応援することにしたのだという。彼女が僕を選んだ悔しさに唇噛みつつ、大町はせめて彼女の笑顔を見る道を選んだのだ。自分を振った女を幸せにする道を選んだのだ。いいか、僕の知らないところで話を進めるのはよしてくれ。僕がそんなに器用者に見えるのか? 大町。もはや聞くべくもないな。僕にはお前がそんなに器用者には見えないよ(笑)。だから死んだんだろう。

結局、僕は大町の説得にも関わらず彼女を振った。1週間の熟考の末に出した結論だ。両思いだろうと関係ない。彼女の柔らかな手に僕が触れられなくても、関係ない。中学生の僕はそんなもんだった。あまりにも弱く、臆病で、馬鹿な腰抜けだったのだ。今ある幸せより上の幸せなど求めてはいなかった。自分の殻にひびが入るのを恐れていた。僕は、誰よりも好きな彼女を振ったのだ。自分が傷つかないために振ったのだ。再び前までと同じ日々を過ごして、また日が長くなるまで駐車場で駄弁っていられればいいと思った。少しくらい寒くても、みんな一緒なら耐えられる気がした。

しかし、僕の返答を聞いた彼女はどこか憑き物が落ちたような顔でこう言った。「じゃあ、今からわたし爆弾発言するね」僕はこれまでの人生で、これほどまでに奇妙な予感を僕に与えた言葉を知らない。隣を見ると、困惑した顔の大町と一瞬目が合った。それから彼女はこう述べた。私転校するの。2週間後に東京の中学に行くの。お父さんの転勤のせいなの。私にはどうすることもできないの。どれも安い小説とかマンガの中では聞いたことのある台詞だが、現実に聞くのは初めてだし、そうなると何だか自分が馬鹿みたいに思えてくる。僕はこの台詞に衝撃を受ければいいの? あの俗っぽいアニメの主人公みたく? そうですか東京ですか。転校ですか。だからその前に告白ですか。たいそう青春で御座いますね。だが当時の僕はそんなこと思わない。ただ驚いた。感情はついてこなかった。中学2年生の童貞には容量オーバーだ。ここ数日こんなことばかりだ、と僕は自分の精神を心配した。

それからは、大町の計画で2週間たっぷり思い出を作った後、彼女は呆気なく東京へと消えていった。大町はと言うと、僕への劣等感と恨みをぶり返して自己嫌悪のうちに彼女と決裂した。対する彼女は、東京で柄の悪い男に付きまとわれて辟易しつつも、何処かその男に惹かれているようだった。え、僕はというと? そんなこと興味ないでしょ(笑)。興味ないよね。この通りです。大学生になりました。酒好きの音楽家になりました。

あの思い出以来、僕は自分の内に秘められた臆病な自尊心と尊大な羞恥心が急におぞましくなって、自己嫌悪に陥るのも構わずあの日の出来事を徹底的に分析し続けた。僕が彼女を振らなければ、大町が彼女と決裂することはなかった。大町のあまりに慎ましやかな願いをさえ叶えなかった僕を恨む必要もなかった。彼女も東京で変な男に振り回されることはなかったはずだ。全ては僕があの2択を間違えたせいなのだ。「はい」と答えさえすれば良かった。そのくらいの勇気は出せたはずだった。僕は徹底的に自分を恨み、どうすれば良かったのか、どうできたかを考えた。時間が経ち、僕は進学校へ進む傍ら大町は工業高校へ進学した。さらに時間が経ち、僕は名古屋大学へ進む傍ら大町は会社勤めのサラリーマンになった。さらに時間が経ち、僕が音楽家を目指す傍ら大町は死んだ。死因は今でも分からない。

彼の死をきっかけに、ほとんど7年振りに彼女と会うことになった。東京へ旅した折、時間を取って2人で喫茶店へ。積もる話もあるだろう。しかし無駄に緊張した。駅で彼女を待っている間、柄にもなくそわそわした。中学時代の思い出があまりに濃すぎて、浸透圧にやられていたのかも知れない。7年も経っていて、互いに顔が分かるのだろうか。化粧なんかもしてるだろうし、もはや声も覚えていない。しかし、駅の改札から出てきた人影を見て、不思議とすぐ分かった。一瞬で分かったのだ。月日は人に勝てない。時間は何も解決しはしない。

それから随分話し込み、昼に会ってから夕飯まで一緒に食べて、通しで8時間ほども話し続けた。我ながら驚いた。7年間かけて僕がゆっくりと別人になっていたのと同様、彼女も全くの別人になっていた。僕がもはやあの頃の軟弱なクラリネット奏者ではなかったのと同様、彼女ももはやぼんやりとした僕の理想の女の子ではなく、ちゃんとくっきりとした輪郭のある大人になっていた。それが嬉しかった。彼女はもう僕の亡霊ではない。過去に住まう甘美な理想ではない。ただ目の前に、こうしてくっきりと存在して僕と話している。良かった。未来の話ができる。感傷以外の、もっと希望のある話ができる。僕はとにかくそれが嬉しくて、もう彼女に恋する必要はないんだな、と思い一人溜息をついた。

帰り道、僕は一人でスーパーに寄ってビールを買い、それを飲んで酔ったまま近所のアパートの屋上に寝そべった。満月! 引力をも感じさせる白銀の月光!

嘘は要らない、ただ真実を!

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