『全共闘』(12)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その12」は原稿用紙換算25枚分、うち冒頭11枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその11枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(5.前衛芸術運動)


  ロシア・アヴァンギャルド

 一九一〇年代から二〇年代にかけての前衛芸術運動としては、〝ロシア・アヴァンギャルド〟の活況も知られている。いちいち具体的に紹介はしないが、例えばその代表格の一人である画家のマレーヴィチは、ダダが無意味な言葉(というより音)の羅列にすぎない〝詩〟の量産に励んだように、絵画が〝何か〟の表現・再現であることを否定して抽象絵画の理想型を論理的に追求した末に、カンバスいっぱいに大きく黒い正方形をただ描いた代表作「黒い正方形」を発表したり、なかなか愉快である。単に端折っただけで実際には欧米各国ともそうであったように、文学・絵画・演劇・音楽・映画・建築……と〝ロシア・アヴァンギャルド〟の世界もまた百花繚乱の趣がある。とくに演劇(スタニスラフスキー、メイエルホリドら)や映画(エイゼンシュタインら)といったジャンルでは、ロシアの芸術家たちこそが当時の世界の最先端を走っていたとさえ言える。
 にもかかわらず、「革命以前のロシアは、経済的・政治的には後進国だったとしても、文化的には旺盛な生産力を誇っていた。それが一挙に壊滅したんだ。/ロシア革命以後七十年というのは、どう見ても短い期間ではない。そのあいだに、世界の青年を熱狂させるような文化を、文学であれ音楽であれ絵画であれ、ソ連社会主義はなにひとつとして生みださなかった」、「大衆文化が駄目でも、前衛文化があるというわけではない。革命直後の数年間をのぞいて、(略)前衛文化はひたすら弾圧の対象だった」(笠井潔『ユートピアの冒険』)と言われるような状況となるのは、ひとえに〝スターリン主義〟の悪、というのが一般的なイメージだろう。
 たしかに笠井も述べているように「革命直後の数年間」つまりレーニンがまだ生きていた時代には、前衛芸術家たちも自由に活動していた。レーニンに前衛芸術への理解があったからではない。先に言及した『レーニン・ダダ』のドミニク・ノゲーズの奇説とは異なって、実際のレーニンは十九世紀的なロマン派芸術を好み、同時代の前衛芸術は嫌っていたようだ。革命直後の混乱期で他のもっと重要な問題に忙殺され、芸術なんぞの動向にかまっているヒマが単になかっただけだと思われる。
 とはいえ、前衛芸術に理解のないボルシェヴィズムが、あるいはスターリン主義が、それらを一方的に弾圧したのだというような単純な話ではない、との斬新な提起をおこなったのが、八一年にソ連から西ドイツに亡命した批評家ボリス・グロイスが、ソ連崩壊直前の八八年に書いた『全体芸術様式スターリン』である。
 スターリン時代のソ連で、ありうべき唯一の芸術様式として推奨された〝社会主義リアリズム〟とは、簡単に言えば、芸術家は、まだ社会主義革命以前の資本主義社会においては、資本主義の悪を、あるいはそれと闘う労働者たちの英雄的な姿を、高等教育を受けていない多くの労働者たちにも理解できるようリアリズムの手法で描き、革命に勝利した後は、もはや富を資本家どもに搾取されることなく、理想社会建設のために喜んで額に汗して働く労働者たちの姿を、あるいは共産主義のユートピアでの素晴らしい生活のありようを、やはり誰にも分かるようリアリズムの手法で描くべし(後者については例えば〝偉大なる首領様〟のもと幸せに暮らす人々が描かれた北朝鮮の絵画などを想起すればよかろう)、というものである。そして「これまでの理解では、(略)アヴァンギャルドは、スターリン文化すなわち社会主義リアリズムによって圧殺され」た(亀山郁夫・古賀義顕「『全体芸術様式スターリン』訳者あとがき」)と見るのが常識だったわけだが、グロイスは、いやそうではなくて、社会主義リアリズムはアヴァンギャルドの延長線上に登場してきたのだ、と主張しているのだ。
 シュルレアリスムの例を見れば分かるように、当時の前衛芸術運動の中には共産主義に親和的な潮流も存在したし、未来派が芸術の枠を飛び出してファシズム運動と一体化し、ダダが一瞬の栄華を経て衰退してしまうと、むしろ前衛芸術は共産主義運動と連動したものであるほうが普通とさえ言える状況となった。ロシア・アヴァンギャルドの諸潮流も例外ではなく、前衛芸術家たちは多くの場合、共産党の熱烈な支持者であり、献身的な党員であることさえ珍しくなかった。そして当然ながら彼らは、ボルシェヴィキが革命に勝利すると、新生ソ連の文化政策における指導者となっていくのである。革命の翌一八年二月には、教育人民委員(文部大臣あるいは文化庁長官)ルナチャルスキーが、教育人民委員会内に造型部門・演劇部門・文学部門・音楽部門を設けて、アヴァンギャルドの芸術家たちをそれらの長に任命している。
 しかし例によって、つまり先に見たブルトンの振る舞いを想起すれば容易に想像されるだろうように、それら親ボルシェヴィズム的な前衛芸術家たちの内部で熾烈な主導権争いが始まることになる。「ボリシェヴィキたちはもちろんアヴァンギャルドからの支持をそれなりに評価していたが、同時にまた、他の流派の代表者たちに容赦なく咬みつくアヴァンギャルドの芸術上での専制志向に当惑してもいた」(グロイス『全体芸術様式スターリン』以下同)というほどの状況だったらしい。
 芸術家たちは、しょせん芸術家ふぜいでしかないくせに、傲慢にも「本質的に自分たちがボリシェヴィキたちよりも知的に優れていることを疑わ」ず、むしろ自分たちが無知な指導者たちを指導しているつもりでいたようで、「政治と芸術には密接な関係があり、ブルジョワ的、伝統的、反革命的、模倣的な芸術と、共産主義をトータルな総合芸術作品(略)として建設的(構成的)に築きあげるプロレタリア的な新しい革命芸術というふたつの芸術傾向は原理的に対立するものだという考えを懸命に党に吹きこ」み、「アヴァンギャルドの反対者に対する弾圧に乗りだすよう国家権力に要請する」ことさえしたというのだ。
 「芸術左翼線線」だの「プロレタリア作家協会」だのといった芸術家団体が結成されては離合集散を繰り返し、一連の過程で主導権争いに敗北した側は失脚したり、やがて本格的な恐怖政治の〝スターリン時代〟が到来すると、詩人マヤコフスキーのように自殺に追い込まれたり、演劇人メイエルホリドのように処刑されたりするようにもなる。主導権争いに際しては、それぞれもっともらしいことを言い合ってはいるのだが、乱暴にまとめれば、要するにいくつもの派閥に分かれて互いに〝反革命〟呼ばわりし、その際に相手方の芸術の難解さは、多くの人々つまり革命国家ソ連の主人公たる労働者階級の人々の理解や共感を得ることをハナから放棄した、インテリ芸術家の自己満足にすぎないものとして非難されるのだった。こうした争いの果てに見出される〝理想的な芸術様式〟が、〝社会主義リアリズム〟以外の何でありえよう? ソ連における〝前衛芸術の圧殺〟は、他殺ではなく自殺、いわば前衛芸術家たち自身の〝革命的〟な振る舞いが招いた自業自得だというわけだが、ただし、ドミニク・ノゲーズの『レーニン・ダダ』ほどではないとしても、次のようなくだりに典型的なように、グロイスの『全体芸術様式スターリン』も一体どこまで本気で書いているのか、よく分からない本でもある。

 リアリズム芸術の伝統的な基準からみれば、社会主義リアリズム絵画は必然的に「質の低い」「悪い」絵画ということになるのだが、目の肥えた者からみればその内容の豊かさは日本の能に劣るものではなく、スターリン時代の観賞者にとっては(略)真に美的な、恐怖の経験をはらむものだったのである。ソ連市民、とくに当時のソ連市民にとって社会主義リアリズム絵画とは、その一見ありふれた輝かしさと見た目のよさに反して、スフィンクスがエディプスに喚びおこしたのとおなじ聖なる恐怖を喚びおこすものだった。エディプス同様、ソ連市民には、謎に対してどのように答えれば「父殺し」すなわち「スターリン殺し」を意味することになるのかがわからず、彼はひとつ間違えれば破滅することになったのである。

 〝この絵をどう思うか?〟と問われて、国家公認の芸術観からする〝正解〟と決定的に矛盾するような感想をうっかり口にすれば、場合によっては反革命分子として収容所送りにもなりかねないのだから、スターリン体制下の国民にとっての社会主義リアリズム芸術ほど、〝真摯な芸術鑑賞〟を強いる芸術は他にないとグロイスは言うのである。
 だいぶ後の話ではあるが、〝ソ連芸術の不毛〟については、すでにスターリン時代も過去のものとなって、言論や表現も相対的にはいくぶん自由になったと言われるフルシチョフ時代の、〝アブストラクト(抽象)絵画批判〟のエピソードもよく引き合いに出される。
 六二年十一月、モスクワの広場で「モスクワ美術の三十年」展が開催された。展示されていたのはもちろん主に社会主義リアリズムの作品だが、スターリン時代に密かに描かれていた〝非公式芸術〟、つまり要はアヴァンギャルド系の作品が展示されている一角もあった。そこを訪れたソ連最高指導者のフルシチョフが、それらの絵を描いたという芸大教授と彼の指導する学生たちを〝ホモ〟呼ばわりし、作品についても「汚らわしい」、「絵が描けないのかね? 私の孫だってもっとうまく描けるぞ」、「まるでロバが尻尾で描いたような絵だ」などと酷評したという〝事件〟である。ただし、さんざんケナされただけで弾圧されたわけではない。
 フルシチョフは実際には「『ロバの尻尾』が描いたような絵だ」と云ったと思われる。革命以前の一九一二年から一三年にかけて活動し、一度だけ展覧会を開いたという短命な、当時の最左派の前衛芸術グループの名前で、例の「黒い正方形」をやがて描くマレーヴィチらも参加していたが、その方面でもはっきり言ってかなりマイナーな団体である。前衛芸術への〝理解〟はともかく、さすがにアメリカと五分に渡り合った大国の最高指導者ともなると、その教養も並大抵ではないのだと感心させられる。


  頽廃芸術展

 ナチス・ドイツが前衛芸術を弾圧したこともよく知られているが、こちらも代表的なエピソードを一つ挙げておくとすれば、三七年七月に開催された「頽廃芸術展」ということになろう。

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