川口事件と現在 3.川口事件の影響

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2.内ゲバの背景から続く〉

 2022年1月に参加した樋田毅『彼は早稲田で死んだ』読書会のために、同書の主題である72年11月の早大・川口事件の背景や、事件が日本現代史に与えた甚大な影響について解説した文章である。

 1.内ゲバの歴史
 2.内ゲバの背景
 3.川口事件の影響

 「3」は原稿用紙換算19枚分、うち冒頭8枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその8枚分も含む。「2.内ゲバの背景」をやむを得ず10円ぶん割高に設定したので、この「3」は10円安くしておく。

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   3.川口事件の影響

 革マル派の側の圧勝という形で第3次早大闘争が終結した後、二度とそのような闘争を生起させないために、革マル派が早大において、川口事件以前にも増して恐怖支配体制をいっそう強化したことは云うまでもない。早大戦争にも参加したらしい「燻製クラウン」氏のミクシィ日記によれば、すでに川口事件以前の段階において、その支配の方法は以下のようなものだった。
 新1年生が早大に入学するとすぐ、各クラスに(むろん革マル派の活動家である)自治会執行部員がやって来て、クラス委員を選出するよう指示される。「誰か立候補する人はいますか?」と問われて手を挙げるのは、まずたいていの場合、すでに高校時代から革マル派の活動に参加している者である。まんまと選出されたクラス委員はその場で、「ではクラスの名簿を作りましょう」と提案する。つまり新1年生たちは、まだほとんど自分たちの置かれた状況を把握できないうちに、現住所はおろか〝緊急時の連絡先〟としての実家の所在地などまで、革マル派自治会に把握されてしまうわけだ。事情を知っていて嘘の申告をした者は(当然チェックはあるだろうし)、それはそれでさっそく〝要監視対象〟のリストに入れられることになる。
 クラス委員になるような学生たちは、云わば公然の革マル派活動家である。それとは別に、正体を隠した革マル派の秘密メンバーが、非政治的なものを含めた各サークルなど学内の要所要所に配置されている。聞かれていないと思って革マル派自治会への批判や不満を口にすれば、いつのまにか通報され、〝要監視対象〟化しているのだ。
 一線を越えたと革マル派に判断されれば、キャンパスで姿を見られるや半殺しの目に遭いかねないので、退学するか、教授に頼み込んでレポートだけで進級・卒業させてもらうなどするしかなくなる。しかし多くの場合は、とりあえず自治会室に呼び出されて脅しをかけられ、つまり革マル派自治会についてどうこう云うことがどれほど危険かを思い知らされて、単に沈黙させられる。
 政治向きのことに関心を持ちさえしなければ、早大においても素敵なキャンパスライフを満喫することは可能である。時には世の中の矛盾に憤って熱くなったりしてみたいものであろう若者としては、精神的に殺された上で〝生きさせ〟られているようなものだ。〝ムーゼルマン化〟と絓秀実は形容している。
 68年末の時点(解放派がキャンパスから放逐された時点)で、ノンセクトであろうと、革マル派以外の政治勢力が早大キャンパスに公然登場すること自体が許されなくなっていた。だからこそ69年の早大全共闘も最初から武装して、〝実力で〟登場する以外になかったのである。早大戦争に勝利し、〝結成以来最大の危機〟を乗り越えて以降の革マル派は、そうした危機の再発防止にますます力を入れ、警戒を厳しくする。
 それでもなお、74年以降の早大にもノンセクト・ラジカルの系譜は存在し続けた。部落解放同盟傘下の部落解放研や、保守系の大物政治家たちとのつながりが深い雄弁会などが、〝隠れ蓑〟として利用されたようだ。革マル派が何よりも重視する労働運動の世界で、対立しながらも力関係的には半ば従属下で劣位にあるという立場上、革マル派も社会党には公然と敵対しにくかったようで、早大のノンセクト活動家の多くは、革マル派から身を守るためにとりあえず社会党籍を手に入れることが習慣化した(部落解放同盟も社会党系の組織である)。
 とはいえそれも気休め程度の安全措置でしかなく、おおよそ70年代いっぱい、早大のノンセクト活動家たちは、授業と授業の間に教室を移動しなければならないような際、革マル派に呼び止められるのを避けるために常に駆け足を心がけていたという。
 80年前後、各地の大学への〝原理研の浸透〟が問題化する。そもそも統一協会は〝霊感商法〟問題でマスコミの糾弾を浴びていたから、左翼でも何でもない一般の学生たちも原理研には強い嫌悪感を抱いていた。
 早大でも、革マル派を警戒して息をひそめていた少数のノンセクト活動家たちとはまったく無関係な一般学生の間から、原理研追放運動が自然発生的に登場した。むろん彼らも革マル派自治会の怖さを日常的に感じさせられていたはずだが、べつに三里塚や山谷や狭山の問題(中核派や解放派が熱心に取り組んでいたため、早大ノンセクト活動家らが〝スリーS〟と呼んでタブー視していたテーマ)をどうこう云うわけでもなし、マスコミも盛大に叩いている統一協会・原理研を批判することが革マル派自治会を刺激するとは、単に考えもしなかったのだろう。じっさい革マル派も、この動きは放置せざるを得なかったようだ。
 つまりまずは、〝68年〟以来の伝統的な新左翼ノンセクトとはほぼ切れた形で、云わば〝ノンセクト・リベラル〟的な新潮流が80年代初頭の早大に現れる。そのような雰囲気の中で、早大生らを中核メンバーとする初期ピースボートの運動も登場してくるのである。
 『全共闘以後』でも述べたように、ピースボートを含む、80年代初頭に若者たちが担ったいくつかの〝ノンセクト・リベラル〟グループは、本来ならポストモダンの思想運動やサブカルチャー的な文化運動と時代的な質を共有する〝軽薄短小〟な政治運動だった。しかしその登場・展開のサイクルが5年ズレたために両者は互いに結びつかず、むしろ敵視し合って、以後ある意味では現在なお続く、日本における政治運動と思想・文化運動の断絶を生んだ。その〝5年のズレ〟も、結局は〝内ゲバの常態化〟を最大の(というより唯一の)原因として、政治運動の新潮流の登場が遅れた結果である。この80年代初頭においてさえ、それらピースボートなどの運動(他に中高生に管理教育への反乱を呼びかけた青生舎や、反核を掲げるロック・コンサートを運営したACFなど)は諸党派の恐怖支配のない〝学外〟で生起したのだ。
 ともあれ原理研追放運動のプチ高揚を機に、革マル派による早大の恐怖支配体制に多少のほころびが生まれ、これを突破口に、あるいはこれに便乗するようにして、80年代半ばにようやく早大でも新左翼系ノンセクトの公然登場が可能になる。もちろん革マル派の顔色を窺いながらの活動であることは以後もずっと余儀なくされ(90年代前半にそれを担った複数の活動家の証言によれば、何か〝問題〟のある言動を見とがめられて革マル派自治会室にいったん呼び出されるや、実際に暴力はふるわれないまでも、これ見よがしにバットや鉄パイプの置かれた室内で数時間、十数時間にわたって延々と恫喝され、バイトがあろうが授業やテストがあろうが、革マル派の側がもういいと云うまで解放されないのだ)、それは結局、2010年前後にこの系譜(革マル派側ではなくノンセクト側の系譜)が完全に途絶えてしまうまで変わらなかった。
 94年に奥島孝康が総長に就任して以降、早大当局はようやく革マル派の追放に力を入れ始めるが、自治会の非公認化などには成功したものの、現在もなお早大は革マル派の最大拠点校であり続けている(排除攻勢の余波で、単に早大ノンセクトが完全壊滅させられただけである)。
 他方、早大戦争に敗れた中核派・解放派の側は、むしろ革マル派の〝強さ〟に見習って、自派の方針をより内ゲバ戦に向いたものへと転換させた。解放派の〝ローザ主義〟が名ばかりのものと化していくのもその過程においてである。そして両派はそれぞれの拠点校で、早大方式を真似た恐怖支配体制の構築にも着手する。これがつまり、川口事件と早大戦争が生んだもう一つの重大な結果と云えよう。

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