『全共闘』(4)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その4」は原稿用紙換算27枚分、うち冒頭12枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその12枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(4.アナキズムとファシズム)


  フランスにおけるファシズムの誕生

 ファシズムにその名がついたのはイタリアにおいてであり、名づけ親は言うまでもなくファシズム運動の祖・ムソリーニだが、単にまだ名前がついていなかっただけで、実はファシズム発祥の地は、またしてもフランスである。
 右翼というのも元来はフランス革命に反対するブルボン王家復活派のことだった(左翼とはフランス革命推進派のことだった)。ナショナリズムは自由主義・民主主義と共にフランス革命を支えた思想的な三本柱の一つなのだから、したがって当初は左翼思想であり、右翼は反ナショナリストだった。左翼の主流はやがて〝労働者に祖国はない〟との認識に至り、ナショナリズムとは距離を置くようになるが、だからといってそれがすぐに右翼の専有物となるわけでもない。右翼思想は字義どおり〝反動〟的なものであり、そもそもフランス革命への反発から生まれたように、その内容面も左翼の動向への反発から事後的に形成されるもので、左翼が顧なくなった〝愛国心〟的なメンタリティは、もともと〝伝統と秩序〟を重んじていた右翼の心性との相性も良かったし、徐々に右翼側が自らのものとして取り込んでいきつつはあったが、それが決定的に進行するのも十九世紀末の、やはりフランスでのことである。〝愛国派〟と左翼勢力とが国論を二分して激突する大事件が勃発し、その過程で右翼の多くが愛国派の側にアイデンティファイしていく。「ドレフュス事件」である。
 その少し前にまず「ブーランジェ事件」というのがある。ブーランジェ将軍は、共和主義的な軍人であると同時に敵国ドイツに対するタカ派的な言動でも知られ、リベラル派からも愛国派からも絶大な人気があり、当時のフランスのマルクス主義政党の指導者でさえブーランジェと対立することは避けるほどだった。現役軍人なので議員になる資格を持っていなかったが、立候補すること自体は可能で、じっさい何度も立候補して、そのたびに得票では圧勝した。プロシア(ドイツ)との戦争での敗北(一八七一年)からナチス・ドイツによる北半占領(一九四〇年)まで続いた第三共和制は典型的な〝何事も決められない〟政治体制で、国民の多くは、人気が疎まれて政治から遠ざけられていたブーランジェ将軍によるクーデタを期待するようになっていた。
 一八八九年一月、クーデタを望む群衆がパリの街路を埋める。軍も警察もクーデタを容認するつもりで事態を放置し、観念してパリを脱出する閣僚もいたほどで、クーデタは成ったも同然だったが、肝心の将軍自身が尻込みしてしまって、大山鳴動して何とやら、結局不発に終わったというのが「ブーランジェ事件」だ。
 この竜頭蛇尾の結末に至る数年間の、クーデタ待望の国民的熱狂の渦中で、プレ・ファシスト的な極右の指導者として台頭するのが作家モーリス・バレスである。フランスの石原慎太郎のような人だと思えばよい。石原と同様、若くして文壇デビューを果たして一躍脚光を浴び、やはり石原と同様、その時点では(反抗的な若者であることは確かだったが)政治的には右翼とも左翼ともつかなかった。『自我礼拝』というタイトルから想像がつくように、そのデビュー作は要するに実存主義的な色が濃厚で、ただ文学の枠内に留まることを潔しとせず、のちに言う〝アンガージュマン(参加)〟の文学、〝行動する作家〟の元祖にして、また当時の若い世代のある種の傾向を象徴する存在となり、ほどなく政界に進出して長年にわたって国会議員を務め、先述のとおり次第に極右勢力の代表者の一人と目されるようになるという、まったく一から十まで石原慎太郎である。
 バレスの〝政治参加〟も、ブーランジェ将軍の熱烈な支持者としての活動から始まった。「ブーランジェ将軍事件との関わりからバレスが(略)受け継いだのは、ブーランジェの陣営に参集した左右両翼の過激派の連合であった。ブーランジェのもとでは、将軍への熱狂がイデオロギーの相違を問わず双方を共同させていたが、バレスはいわば国家民族主義の過激派であるデルレードやロシュフォール、反ユダヤ主義の教祖E・ドリュモン、ジョーレスやミルランのような社会主義者、L・エルやゲードのようなマルクス主義者、そして若きモーラス[後述]のような人物が共同できるような政治の潮流をつくりだすことを夢みた」といい、実際にバレス自身の選挙集会も、「社会主義者や労働組合員、ナショナリストが集まって騒然となるのが常であり、ときには警官隊と衝突し、また近くでおこなわれているボナパルティスト[ナポレオン派]や王党派[ブルボン王家派]、急進派[第三共和制の議会での最大勢力だった「急進社会党」のことで、名称に反して急進的でも社会主義政党ですらもなかった]の集会を襲撃して気勢をあげることも稀ではなかった」という(福田和也『奇妙な廃墟』)。
 「左右両翼の過激派の連合」という、まさしくファシズム的とも言えるバレスの政治的野望(ブーランジェの場合には結果的に実現していたにすぎない状況を、バレスは意識的に追求したわけだ)を打ち砕いたのが、先に触れたドレフュス事件である。
 一八九四年、ドレフュスという軍人がドイツのスパイであると疑われ、軍法会議で有罪となって、南米の北東海岸にあるフランス領ギアナの〝悪魔島〟への終身流刑に処された。陸軍情報部が入手したスパイによる通信文の筆跡とドレフュスのそれとが〝似ている〟という以外には状況証拠すらなく、ドレフュス自身も一貫して無実を訴えていた。完全なる冤罪事件で、ドレフュスがスパイとされたのは、単に彼がユダヤ人であるからにすぎなかった。当時、反ユダヤ主義はヨーロッパ各国の左右双方に蔓延しており、愛国的な傾向を強めていた右翼にとっては、独自の国家を持たないユダヤ人はいつ祖国を裏切るともしれない潜在的な売国奴であったし、左翼にとっては憎むべき国際金融資本の象徴だった。
 事件自体が秘密裡に処理されようとしたが、ほどなくまず右翼系の反ユダヤ主義の新聞が、反ユダヤ主義を煽るためにスクープして、まんまと反ユダヤ主義の世論が沸騰してフランスは騒然となった。しかしそれもドレフュスを乗せた船が悪魔島に向けて出発するまでのことで、事件はすぐに過去の話題として風化した。ドレフュスの無実を信じた者は、当初はドレフュス本人とその兄の他に、軍法会議の過程で疑問を抱いた軍人が一人いただけだった。とくに兄の尽力によって、やがてごく少数の知識人たちがドレフュスの再審無罪を勝ち取るために動き始める。例の、のちにアナルコ・サンディカリズムの理論的大成者となるソレルらである。ちなみにソレルが議会主義への疑問を急速に深めていくのは、このドレフュス事件への関わりを通してのことだった。

 ドレフュス事件に際してペギーは、既存の社会主義諸政党の腐敗をも鋭く批判し、新たな「革命的」知識人概念を対置してみせた。ペギーは「自立」的な、若くラディカルな社会主義者であった(後に、神秘主義者、愛国的カソリックに転向)。フランスの正統的な社会主義諸政党は、ドレフュス事件をブルジョワ勢力内の抗争と見て、当初は積極的な介入を避けていたが、局面の進展にともなって、事件を議会内における自派の優位のために利用しようと図った。これに対してペギーやソレルは、既成社会主義政党の議会主義的腐敗を弾劾した。ソレルは、それを「ドレフュス革命」と呼び、ペギーは雑誌「半月手帖(カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ)」を、ほとんど独力で刊行した。ソレルはペギーの年長の友人であり「半月手帖」の常連寄稿者でもあった。
 (絓秀実『吉本隆明の時代』

 ドレフュスの逮捕から一年以上を経た一八九六年のうちに、陸軍情報部は、問題のスパイ事件の真犯人を特定し、ドレフュスの無実を確信するに至ったが、軍の威信を守るためにそのことは秘密にされた。ところが翌九七年、義憤に燃える一人の将校が周囲に真相を語り始めるに及んで、〝ドレフュス事件〟に再び火がついた。今度は反ユダヤ主義の沸騰ではなく、再審によるドレフュスの無罪を求める世論の盛り上がりである。一方でそれに対抗して、頑なにドレフュスの無実を認めようとしない反ユダヤ主義者たちも活発に動き始めて、フランスの国論は〝ドレフュス派〟と〝反ドレフュス派〟に真っ二つとなる(文豪ゾラの有名なドレフュス擁護の論説「私は弾劾する」もこの過程で書かれたものだが、早くからドレフュスのために動いていたソレルは、ゾラの軽薄な〝政治参加〟に対して冷淡な評価をしている)。そして「左右両翼の過激派の連合」という「バレスの夢はドレイフュス大尉の再審をめぐるフランス国内を二分した深刻な論争と対立のなかで雲散霧消してしまうことになる」(福田・前掲書、以下しばらく同)のである。

 このような国内の分裂状態において、バレスがみずから担っていると考えていた革命運動の媒介者の役割、つまり極右と左翼をつなぐ実践的な絆としてのバレスの立場は、一瞬のうちに消滅してしまった。ドレイフュスの再審を要求して陸軍の不正を糾弾することで一致した左翼と、きたる対独復讐戦を戦う陸軍を守り、ユダヤ人を売国奴として告発する右翼のあいだには和解不可能な対立が生じ、特に陸軍がドレイフュス大尉に不利な証拠を捏造したことが捜査の過程で判明してからは、議会のリベラル派はもちろん穏健な保守派までがドレイフュス支持にまわり、陸軍を支持し一貫してドレイフュス大尉を糾弾する姿勢をとりつづけた右翼諸派は追いつめられ、その態度はことさらに強硬でかたくななものとなったために、左右の政治的対立は市民の深刻な対立を背景として、一触即発の内乱前夜を思わせるような険悪なものになってしまった。

 あろうことかバレス自身は反ドレフュス派の急先鋒の一人として論陣を張り続けていた。反ユダヤ主義と金融資本批判とを最初に結びつけたドリュモンの社会主義的な反ユダヤ主義の強い影響下にあったためでもあるが、それ以上に、「民族の無意識」に依拠しようとするバレス独特の反近代主義・反理性主義に由来する必然的な選択だったと福田は分析している。バレスはもちろん、ドレフュスが無実であることをいずれかの時点で確信したはずだが、「バレスはゾラに対する批判として、かれらの要求する『真実』なるものは、抽象的で観念的なものにすぎず、国家とその根底である民族の無意識とはなんの関係もないものであり、無意識の領域においては客観的事実などは存在しない」などと「強引な非‐理性的発言」まであえてしたというのである。このバレスのおそらくは〝苦渋の選択〟は当然にも、革新的な文学者としてバレスを熱烈に支持していた若者たちの多くを離反させ、その政治的凋落を招いた。
 以後もバレスは一九二三年に死去するまで、左右の反体制派の結節点としての役割はもはや担い得ないとしても極右勢力の重鎮としての地位は保ち続け、また国政選挙にも当選し続け、さらには文学者としても〝巨匠〟の扱いを受け続け、死去に際しては国葬にさえ付されたが、「ドレイフュス事件は、国内の政治的対立をあおると同時に、政治活動の内部において世代交替をもたらした。左翼のなかでも、ゲードやミルランのような古くからの闘士がシャルル・ペギーから痛烈な批判を受けたように、右翼陣営でも、(略)モーラスやレオン・ドーデの世代が台頭してきたのである」。そしてここに名前の挙がったモーラスやドーデが牽引するのが、いよいよ〝左右の過激派の連合〟たるファシズム誕生の右翼側の基盤となる「アクション・フランセーズ」の運動なのである。

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