『全共闘』(8)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その8」は原稿用紙換算28枚分、うち冒頭12枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその12枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(4.アナキズムとファシズム)


  その他ヨーロッパのファシズム

 左翼から転向したヨーロッパの著名なファシズム指導者として、他にも例えばイギリスのオズワルド・モズレーがいる。イギリスはもともと左翼が弱く、共産党どころか社会党さえ大した勢力にはなれなかった。左派〝的〟な大政党といえば、〇〇年に事実上の結成がなされ、それまで保守党と自由党の二大政党制という構図になっていたイギリス議会に自由党の議席を奪う形で急速に進出し、二四年にはついに政権の座について、泡沫政党と化した自由党に代わって現在に至るまでイギリス二大政党制の一角を占める労働党ということになる。したがってイギリスを代表する有力なファシズム指導者となるモズレーも労働党の、しかも当然ながらその最左派の出身である。
 とはいえモズレーは、終戦の年である一八年に二十二歳で初めて下院議員に当選した時点では、保守党の所属だった。しかし二年後には、「保守党の、文字通り保守的な体質に嫌気がさし」て(長谷川公昭『世界ファシスト列伝』、以下同)、脱党してしばらく無所属の議員として活動した末に、二四年の選挙では労働党から立候補して当選を果たす。「労働党でのモーズリは、持ち前の弁舌と行動力とで、みるみるうちに出世し」、二九年には三十二歳にして入閣するまでに至る。モズレーは当時二五〇万人を超えていた失業者の対策を担当し、公共事業による救済や政府計画に基づく経済再建、さらには企業の国家管理まで提案して「世間の注目を集め、次期首相の呼び声さえかかるほどであった」が、世間はともかく肝心の労働党にはモズレーの提案は一顧だにされず、「保守党と変わるところのない労働党の体質に幻滅」して、「その名も〈ニュー・パーティ〉なる新党を結成した」。モズレーがファシズムに傾き始めるのはこの頃からだという。
 三一年の選挙で落選したモズレーは、身軽になったこともあって翌三二年にイタリア・ドイツに視察旅行に出かけ、ムソリーニと会見し、政権獲得前夜のナチス党幹部らとも意見交換した。三二年十月に「イギリス・ファシスト同盟」を結成すると、「ムッソリーニばりの協調組合国家の建設をめざして、早速、党活動を開始する。党員は、上は上流階級出身の退役軍人から、下は町のならず者ふうの若者に至るまで種々雑多で、党創設の翌年末の党費納入党員は五千人ほどであった」。党勢は三四年頃がピークで、この年のうちにモズレーがムソリーニよりもヒトラーに傾倒し、反ユダヤ主義を声高に叫ぶようになると凋落が始まった。やがて第二次大戦に突入すると、開戦直前までヒトラーとの融和を主張して戦争反対を唱えていたモズレーは危険人物の扱いとなり、四〇年五月に逮捕されて、イギリス・ファシスト同盟も解散を命じられてしまう。

 ファシストではないが、ファシズムと関係の深い戦間期の有力な社会主義者にベルギーのアンリ・ド・マンがいる。
 若い頃にはアナキストだったド・マンは、やがてベルギー労働党の党員となり、機関紙の特派員としてドイツに滞在、カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルク、トロツキーらとも交流があった(第二インター時代である)。
 少なくとも第一次大戦の末期には国内ではひとかどの存在であったらしく、ベルギー政府によって、戦争継続の要請のために革命ロシアへ、テーラー・システム(流れ作業による大量生産技術)の調査のためにアメリカへ派遣されている。そこでの見聞を踏まえてド・マンは二〇年に『戦争の教訓』を発表し、「ロシアで、わたしは、デモクラシーなき社会主義を見た。アメリカで、社会主義なきデモクラシーを見た。私の結論としては、選ばねばならないのなら、デモクラシーなき社会主義のもとでより社会主義なきデモクラシーのほうで生活するほうを好むだろう。それは、私が、社会主義者であるよりもデモクラットであるということを意味するのではない。それは、まったく単純に、社会主義なきデモクラシーは、いつでもデモクラシーだが、デモクラシーなき社会主義は、社会主義ですらないということを意味している」(桜井哲夫『社会主義の終焉』より孫引き)と書いて、ソ連型社会主義を批判した。
 二六年にはドイツで『社会主義の心理学のために』を刊行、そのフランス語版が翌二七年に『マルクス主義を超えて』の標題でベルギーで出版され、これによってド・マンはヨーロッパの社会主義者たちの間で広く知られるようになった。この本でド・マンは、マルクス主義が、労働者たちを闘争に駆り立てるのは個人の尊厳の問題や公正の問題だということを理解せず、経済問題に還元して改良主義を必然化することや、新しく登場してきた知識階層を位置づけ得ないことを批判して、「レーニン主義や、ルカーチらの狂信的なメシアニズム(プロレタリアート信仰)には、ついてゆけなかった青年たち」(桜井・前掲書)の間に大きな反響を巻き起こした。
 パリでは、もともとベルギーの生まれで、ベルギー労働党の若い活動家たちとも交流を持っていたレヴィ・ストロースが、いち早くド・マンに注目し、フランス社会党や共産党とは無関係に組織されていた社会主義研究の学生サークル仲間に広めたらしい。言うまでもなく、のち五〇年代に「構造主義」の旗手として世界的に知られることになる、文化人類学者のレヴィ・ストロースである。そのサークルがパリに招聘して講演会を開いたりしたので、ド・マンの影響力はますます広がった。
 三〇年代に入るとド・マンはベルギー労働党内で「『プラニスム(計画主義)』という、専門家知識人主導の、新中間層を取り込む新しい社会計画論、国家の構造改革論を提案し」(桜井・前掲書)、「フランス社会党内でも、この構想への賛成者は多く、『計画主義[ルビ、プラニスム]』は流行語にな」ったほどであるという(河野健二『ファシズムと社会主義』)。ファシズムに傾きかけていたドリュ・ラ・ロシェルもこれに大いに影響された様子であるばかりか、ド・マンの構想はムソリーニにさえ賞賛された。そのためもあって、逆にムソリーニ政権下で獄中生活を送っていたグラムシからは、ド・マンは批判を浴びることになる。
 見てきたとおり、ド・マンは、元祖のムソリーニを含む幾人かのファシストたちに肯定的に受容されただけで、自身べつにファシストでも何でもない。むしろ穏健ではあるが当時としてはかなり風変わりな社会主義思想の提唱者であったにすぎないのだが、第二次大戦が始まり、ベルギーがナチス・ドイツの占領下に置かれると、他の主だった政治家がイギリスに亡命してしまったためもあって、すでに労働党の党首となっていたド・マンが事実上の首相を務め、つまりナチスの傀儡の役を演じなければならない羽目に陥った。
 ほどなくナチスの占領軍当局によってパリに追放されてしまうので、ド・マンがその立場にあったのは数ヶ月のことにすぎなかったが、ムソリーニに高く評価されたことからも明らかなように、ド・マンの思想や政策はそもそもファシズムのそれと親和的でもあって、終戦後は対独協力者と見なされ、欠席裁判で有罪判決を受けてベルギーには戻れないまま、亡命先のスイスで五三年に、おそらくは自殺と思われる状況で〝事故死〟する。
 アメリカにいわゆるフランス現代思想(ポスト構造主義)を移入した中心人物として知られる文学理論家のポール・ド・マンは、このアンリ・ド・マンの甥である。その文学者のほうのド・マンも、八三年の死後の八八年、かつて占領下ベルギーの親ナチス系新聞に書いた数篇の反ユダヤ主義的な文章が発掘され、物議を醸したことがある。


  アメリカのファシズム

 最後に〝アメリカのファシスト〟にも目を向けておこう。
 標題どおり戦間期の世界中のファシストを紹介した長谷川公昭『世界ファシスト列伝』には、何人かアメリカの〝ファシスト〟たちも登場するが、どうも単なる(ちょっとエキセントリックなだけの)保守派、反ユダヤ主義者、あるいは半ばナチスの工作員のようなドイツ系アメリカ人といった者ばかりである。他にそのものずばり三宅昭良『アメリカン・ファシズム』という本があって、ここで〝アメリカ版ファシスト〟の最有力候補として白羽の矢を立てられているヒューイ・ロングという人物は、『世界ファシスト列伝』には登場しないが、たしかに当人がファシストを自称していなかっただけで、本書がここまで描いてきた〝ファシスト〟のイメージに、かなりのところ合致する。
 そのことは、三二年四月四日にアメリカ上院でロングがおこなった演説について触れた、以下のくだりを読めば明らかだろう。

 民主党と共和党は癒着している。人びとが飢えと貧困に苦しんでいるというのに、かれらは経済弱者を救う法案をつぶそうと考え、議会の秩序ばかり気にしている。アメリカの夢、「生命、自由、幸福の追求」というあの独立宣言にもられた夢は、いま戦争以上の危機に直面している。この国では、愛する妻と子どもたちを飢餓からまもるためには、犯罪に手を染めるしかない。そんな人々で街はあふれているではないか。何が自由だ、何が幸福だ!
 このような事態をまねいた原因は、ひとえに富の集中にある。わが国の富の五九パーセントを一パーセントの人間が握っている。わずか十二人の産業貴族がこの国を支配しているのだ。だとすればアメリカの夢を救う方法は、一つしかない。彼らに厳しい累進所得税と相続税をかけ、富の再分配を図ることである。
 諸君はこれを資本主義の破壊と考えるだろうか。その考えは間違っている。これは資本主義を救う方法なのである。財政のバランスなどに気をとられて議会がこの危機を放置していれば、国庫のことなど心配する必要のない事態にいたるだろう。すなわちヨーロッパを震撼させた共産主義革命がこの国を襲い、資本主義をほんとうに破壊してしまうにちがいない。そのような脅威からアメリカの夢を救うには、富の再分配をおいてほかにないのである。
 以上のような主張を、ロングは新聞の切り抜きと統計資料、ジョン・デューイやハーヴァード大の経済学者の言説などをちりばめて裏づけた、というより粉飾した。メロン、モルガン、ロックフェラーなどを名指しで攻撃し、一般民衆のための連合を上院議員たちに訴えたのだった。演説の調子はまるで預言者のようであり、その調子にふさわしく、ロングは聖書からの引用でこのスピーチを終えたのであった。
 (『アメリカン・ファシズム』、以下しばらく同)

 当時のアメリカは(というより世界は)二九年十月に始まった大恐慌からまったく立ち直れておらず、むしろ引き続きその真っ最中である。「街に失業者があふれ、畑で農作物が腐り、工場はいつも閉鎖あるいは半閉鎖に追い込まれ、銀行が次々に倒産するという」状況にある。「ニュー・ディール政策」でこれを打開するフランクリン・ルーズベルトが大統領選に当選するのは、このロングの演説がおこなわれた約半年後のことなのだ。
 本格的(かつ有力)な左翼政党の不在、保守派とリベラル派の二大政党制、といった同じような政治風土を持つイギリスに登場したモズレーの例に似て、ロングも民主党の左派もしくは異端派である。

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