『全共闘』(2)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その2」は原稿用紙換算36枚分、うち冒頭16枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその16枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)


   3.二つの国際主義

 一九一四年七月に始まった第一次大戦は大雑把には独墺(+トルコ)vs英仏露(+少し遅れてイタリア)の戦争としておこなわれたが、一九一八年十一月の終戦に至る約八ヶ月前、ロシアが早々にドイツと講和条約を結んで戦線離脱している。一九一七年十一月七日に起きたロシア革命の結果である(当時のロシアで使われていたユリウス暦に基づいて「十月革命」と呼ばれることが多い)。政権を握ったレーニンの一派つまりボルシェヴィキは、開戦前から一貫して戦争反対の立場を表明しており、即時休戦を訴え続けることで支持を拡大した側面も大きかったので、いざ政権を握ったからには一刻も早く戦争をやめなければならなかったのだ。そもそも革命政権の樹立と同時に、ソビエト政府は「平和に関する布告」を発表し、「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和をすべての交戦国に提案していた。
 ちなみに「ソビエト」とは労働者・農民・兵士の代表から成る「評議会」の意味である。十月革命に先だってロシアではまず同じ一九一七年三月に革命が起き(これまたユリウス暦により「二月革命」と呼ばれる)、帝政が倒され、自由主義者(資本家階級の一派でもある)による革命政府が誕生したが、革命を現場で担った下層階級も社会主義者たちに指導されて各地にソビエトを誕生させ、自由主義政府と社会主義ソビエトとの〝二重権力〟状態がしばらく続いたのである。革命勃発の報を聞いて亡命先のスイスから帰国したレーニンは、「すべての権力をソビエトへ!」のスローガンのもと、自身の一派であるボルシェヴィキを指導して、十月革命によってついに自由主義政府を打倒し、権力はソビエトに一元化されたわけだ。
 社会主義者たちの公式によれば、歴史は、王や貴族が実権を握る封建制社会から、ブルジョアジー(資本家階級)が実権を握る資本制社会を経て、階級のない共産制社会へと移行することになっており、したがって社会主義者たちは封建制下においても資本制下においても反体制勢力である。ついに誕生した社会主義政権が「無賠償・無併合・民族自決」などという〝キレイゴト〟を前面に押し出して、すべての交戦国に〝即時休戦〟など提起してきたとなれば、すでにとうに各国にも厭戦気分が蔓延している状況でもあり、また社会主義になれば階級格差も消失して誰もが平等な理想社会が実現するという話もウソかマコトか付随しているのだから、各国政府は、足元でも社会主義勢力が急成長して革命を起こされてしまうのではないかと気が気でなくなる。そこで、もう一つの〝キレイゴト〟国家として存在感を示し、国際社会に重きをなすに至るのが、革命ロシアと同様の〝新興国〟アメリカである。
 アメリカはもともと第一次大戦前まで、〝ヨーロッパのことに口出ししない代わりにヨーロッパにもアメリカのことには口出しさせない〟という孤立主義を国是とした、まあ言えば〝引きこもり国家〟だった。しかし一九一三年に大統領に就任したウィルソンは、この〝伝統〟からの脱却を図る。ウィルソンは民主党の大統領で、現在ではむしろ〝世界最強国家〟であり続けようとするタカ派のイメージが強いだろう共和党のほうが、実は孤立主義的な〝引きこもり体質〟を(今でも)残しており、第二次大戦でもベトナム戦争ですらも開戦に踏み切るのは民主党政権時代なのだが、それはとりあえずまた別の話である。
 一九一七年四月にドイツに宣戦布告し、第一次大戦の参戦国となったアメリカが、その圧倒的な経済力に支えられた戦力によって、あっというまに独墺側を劣勢に追い込んでしまうと、翌一九一八年一月、ウィルソン大統領は、そう遠くないうちに始まるだろう講和会議に向けて「十四ヶ条の平和原則」を発表した。言うまでもなく、先に発表された革命ロシアの「平和に関する布告」を意識し、対抗したものだ。「講和後の、国際連盟結成に結実する国際組織の結成、公海の自由航行や経済障壁の撤廃といった通商問題、軍備の縮小や秘密外交の禁止といった国際問題、そして中央ヨーロッパ各国の独立、民族自決などを盛り込んだその内容は、きわめて意欲的なものだったが、内容以前に講和会議の指針を討議に先だって発表するというやり方自体が、きわめて斬新かつアメリカ的なものだった」(福田和也『地ひらく』01年・文春文庫)。
 こうして、各国の個別利害をしゃにむに追求した挙句に未曾有の大戦を引き起こし、そのほぼ全域が焦土と化した〝古いヨーロッパ〟に代わって、その東西に、全人類共通の普遍的正義(と称するもの)を掲げて、したがって当然それを全人類に押しつけることを自らの神聖なる義務とすら考える、どちらもかなりハタ迷惑な類いの新興国家が大国として台頭してくることとなった。


  ロシア革命

 ここで新生国家ソ連(先に述べたとおり「ソビエト」とは「評議会」の意味であるから、「ソビエト社会主義共和国連邦」という国名には固有名詞が一つも入っておらず、つまりそれほどソ連は〝普遍的〟な存在なのである)の事実上の〝国教〟と言ってもよかろうマルクス・レーニン主義、さらには社会主義の思想・運動の歴史を簡単に振り返っておこう。
 フランス革命を典型とする、封建制打倒の革命を経て成立した資本制社会は、フランス革命に言う「自由・平等・(国民的)団結」を実現するはずのものだったが、どうも話が違うぞという不平・不満はそのかなり早い時期から噴出し始める。とくに「平等」が、ちっとも実現していないばかりか、資本制のメカニズム(以下、「資本主義」とする)が機能すればするほど経済的な格差は拡大する一方のように思われる。このため、資本主義の弊害を取り除くためのさまざまな思想的・運動的試行錯誤がおこなわれ、それらが一八三〇年代には「社会主義」と総称されるようになる。社会主義者たちの間では、自分たちの試行錯誤に「社会主義」の名前がつく以前から、土地・工場・資本などの生産手段が社会の共有財産ではなく誰かの私有財産となっているところに資本主義が引き起こすさまざまな問題の元凶がある、というのはほぼ共通認識となっていた。
 とはいえ、社会主義思想にも大小いろんな流派があった。十九世紀の半ばにその圏域に登場したマルクスが、十九世紀後半期に資本主義を克明に分析したが、それをマルクスの盟友であったエンゲルスが壮大な思想体系として整理し、その思想体系つまり「マルクス主義」が〝社会主義思想のチャンピオン〟のような地位を獲得するに至るのは、マルクスの死後の十九世紀末のことである。
 マルクスというよりもエンゲルスが作った「マルクス主義」の最大の魅力は、その〝歴史的必然〟の理論(というか御託宣)だったと言われる。唯物史観あるいは史的唯物論ともいう。資本主義がいずれ破局に至り、経済格差つまり階級もなく、したがって支配階級が被支配階級を抑圧するための道具にすぎない国家権力も消滅し、したがって誰もが完全に自由であり、もちろん平等でもある共産主義のユートピアが到来するのは〝必然〟であるとする理論である。資本主義から共産主義への移行の瞬間である社会主義革命は、いわば〝最後の審判〟のようなものであり、つまり〝黙示録的〟な傾向はエンゲルス作の「マルクス主義」の中にもともとあったとも言えようが、それをさらに全開にしたのがレーニンということになる。
 マルクス主義によれば、社会主義革命に至るまでの歴史は人類の「前史」にすぎない。生存ギリギリの水準で誰もが自由で平等だった原始共産制から離脱して、奴隷制→封建制→資本制と展開する階級社会の変遷は、社会総体の生産力の増大にともなう「歴史的必然」であるとされるが、「それは同時に(略)史的唯物論にとってはあれこれの権力者の交代の繰り返しであって、そのようなものとしての『歴史』は(略)同じことの反復にすぎないのだから、そこには無意味しか見出すことができない」(白井聡『「物質」の蜂起をめざして』作品社・10年)のである。資本制がやがて行き詰まり、再び今度は高い生産力を背景とした共産制社会へと帰着するのもまた「歴史的必然」で、人類史の〝本番〟はそこから初めてスタートするわけだが、人類史の前史と本編とを分かつ社会主義革命の瞬間は、「意味を欠いた『歴史』は燃え尽きて、意味を持った世界が『フォルム‐ゼロ』から(略)創造され」る、「不可逆的でするどい時間の断絶」(同)として把握される。
 しかし、「革命という言葉は、『いまここ』の世界がまったく違うものへと変容するということを含意するわけだが、同時に新世界は『いまここ』の世界からしか生まれようがない。つまり革命とは、断絶かつ連続であるほかないのであ」って、「レーニンの全思索は、革命というものが原理的に孕んでいるこの逆説を解くことに捧げられた」(白井聡『未完のレーニン』講談社選書メチエ・07年)という次第である。
 繰り返すように十九世紀は〝進歩〟の時代である。この場合の進歩は〝改良〟とほぼ同義であって、進歩の以前と以後に〝断絶〟のニュアンスはない。黙示録的なマルクス主義を創造したエンゲルスも、一八九五年の死去に至る晩年には、ほとんど穏健な漸進主義者に転じていた。一八六四年に創設された社会主義者の国際組織「インターナショナル」は、主にはマルクス派とアナキストのバクーニン派の対立が原因で十年足らずで事実上崩壊(正式の解散は七六年)、マルクス亡き後の一八八九年にエンゲルスの主導で、各国のマルクス主義政党の国際機関「第二インターナショナル」として再建される……というのはまあ、高校の世界史教科書にも書いてある話である。エンゲルスの死後まもなく、第二インターでは、「十九世紀的な『進歩と向上』の理念を、十九世紀後半の時代思潮だったフランス実証主義やイギリス経験主義と共有し」、「マルクス主義から社会革命という歴史の断絶意識を削除し、『現実に着地する』可能性を社会改良として前面に押しだしたベルンシュタインなど修正派の台頭」(笠井潔『例外社会』朝日新聞出版・09年)が起きる。ベルンシュタインらは第二インター内の主流で〝正統派マルクス主義者〟と見なされていたが、マルクス主義の重要な教義であった階級闘争、プロレタリア独裁、暴力革命などの諸概念を否定し、議会制民主主義の枠内での福祉政策の充実を求めるようになった。こうして第一次大戦勃発までの約二十年間、〝黙示録〟派はいったん少数派に転落する。

 大戦勃発に際して、各国の社会主義者たちは、自国の戦争には協力しようという参戦派と、あくまで戦争に反対する反戦派とに分裂した。マルクス&エンゲルスの『共産党宣言』が「万国の労働者よ、団結せよ!」と結ばれているように、マルクス主義的には、戦争などというものは資本家階級の利害で起きるもので、労働者階級がそれに付き合わされる謂れはないはずである。しかし現実はそう上手くはいかない。「大戦に際しては、[各国社会主義政党の]幹部が率先して労働者を売り渡したというより、熱狂した労働者を含む一般国民に引きずられて、戦争を支持した場合が多い。もちろん、率先して戦争参加を煽動した指導者もいたが、それは多数ではない。大部分は、宣戦布告までは、戦争を阻止することに努力した。ただいよいよ宣戦が布告されて、それが自国民の生か死かの戦争であることを知った時、自分らの発言のいかんが自国民の運命を左右することを考え、祖国擁護に立ち上がったのである」(関嘉彦『社会主義の歴史2』力富書房・87年)ということになった。あとで見るように事情はもう少し複雑なのだが、大枠としては、要はポピュリズムに屈したわけである。国家というもの自体が階級支配の道具であり、そもそも「労働者に祖国はない」と考える原則的マルクス主義者たちにとって、それが〝裏切り〟と映ったこともまた当然だろう。互いに敵国となった英仏陣営と独墺陣営の(多くはそれぞれの国会に議席も持つ)社会主義政党の代表者たちが同席するわけにはいかなくなり、第二インターも崩壊した(正確には後継組織が現在も存続しており、イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党など時に政権を担う大政党を含む穏健社会主義政党によって構成されている)。
 少数の頑固な反戦派の代表格の一人が、ロシア社会民主労働党ボルシェヴィキ派の首領レーニンだった。ロシア社民党は一八九八年に〝ロシア・マルクス主義の父〟プレハーノフらによって創設されていたが、一九〇三年にプレハーノフ派とレーニン派に分裂した。レーニン派のほうが少数派だったが、レーニンは、分裂に至る過程で一瞬、機関紙編集局の構成で多数派となったことを理由に自派を「ボルシェヴィキ」(多数派)と称し、プレハーノフ派を「メンシェヴィキ」(少数派)と呼んだ。つまりボルシェヴィキとはレーニン派の意味である。しかしボルシェヴィキと違って自称ではなく他称の〝悪口〟である「メンシェヴィキ」のほうも用語として定着し、現在の高校世界史教科書すらそれを踏襲しているのは、いかがなものかと思う。メンシェヴィキ呼ばわりされた側は実際には何と自称していたのか、長年の疑問だったが、れっきとした多数派だったのだし、おそらく単に「ロシア社会民主労働党」を名乗り続けたのだろう。
 それはさておき、この分裂の主要な原因は、組織論をめぐる対立である。主流派が大衆に開かれた党を目指したのに対して、レーニンは、意志堅固な少数精鋭の〝革命家〟の党として純化する方針を提示し、猛烈な反対に遭った。第二インターの有力な理論家たちも、ロシア社民党の分裂を憂慮して、レーニンのエリート主義を非難した。レーニンは屈せず、命令とあらばどのような〝悪〟にも手を染めることを躊躇しない(例えばスターリンは列車強盗や売春宿経営など非合法手段による資金獲得を担当した)、絶対的忠誠者による〝鉄の団結〟の一枚岩の党の建設を、以後、着々と進めていく。
 プレハーノフ派が参戦派に転じたこともあって、戦争が長引き、厭戦気分が拡大するにつれてレーニン派=ボルシェヴィキは支持を伸ばした。大衆路線のプレハーノフ派と違って、レーニンがポピュリズムに屈する形で参戦派に転じるなどということはそもそもあり得ない。大衆は目先の利害しか問題にしえず、例えば「給料を上げろ!」といった要求は放っておいても掲げるけれども、階級支配を最終的に終わらせるためには資本主義そのものを打倒する必要があるといった認識には到達しないので、そうした〝正しい理論〟は、革命家の組織が大衆の自然発生的な運動の外から〝注入〟しなければならないというレーニンの「外部注入論」も、第二インターの各国社会主義者たちを憤慨させたが、逆に言えば、このような独特の運動論を持つレーニン派が、一時的な愛国の情熱に浮かされる大衆の動向なんぞに左右されることもまたないのだった。
 しかもレーニンが主張したのは単なる反戦論ではなく、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」のスローガンで知られる途方もないものである。大規模な戦争によって生じる混乱こそは革命のチャンスであり、しかも混乱は戦争に勝つより負けた場合のほうが大きいのだから、各国の労働者階級は自国が負ける方向で力を尽くすべきだとする「革命的祖国敗北主義」を掲げさえしたのが、レーニンという稀代の革命家なのである。

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