『全共闘』(14)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その14」は原稿用紙換算27枚分、うち冒頭10枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその10枚分も含む。

     ※          ※          ※

(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 1.大正デモクラシー)


 大正アナキズム

 〝日本版・一九世紀〟たる大正時代の基調を成すのは、繰り返すようにいわゆる〝大正デモクラシー〟なわけだが、あくまでその枠内における最左派として、大杉栄を代表格とする大正アナキズムがある。
 大杉栄は日本アナキズム史上最大の、というより日本革命運動史上最大のヒーローである。その魅力を伝えることに、当人はアナキストでも何でもない新人類世代(80年前後生まれ世代)の批評家・浅羽通明が別冊宝島141『巨人列伝』に寄せた(実は)大杉批判の一文「大正アナキズムの一枚看板・大杉のいけいけ人生は、いつだって大見得ストップモーション!」以上に成功したものはあるまい。数多ある浅羽の著作にも未収録の文章だし、かなり長いが、その冒頭部分を引用する。

 「私が大杉栄であります!」
 司会に紹介されて演壇に立ち、こう大見[得]を切る。
 開口一番、即、大向こうから一声がかかる。
 「本物ですか?」
 「イヤ、まったく本物です。近頃ニセ者の大杉が所々を徘徊するが、けれども、僕は本物であーる!」
 待ってましたとばかりに波のように広がる興奮が演壇まで伝わってくる。満場を圧する嵐の喝采。しばし静まる気配も見せない、うなるようなどよめきの渦。
 時は一千九百二十二年二月十六日、処は八幡市友楽座。八幡製鉄所大同盟罷業二周年記念演説会の一コマである。大日本帝国の基幹産業の中枢において、二万三千人の職工人夫が一斉に業務を抛ち、大溶鉱炉の火を滅し、五百本の煙突の黒煙を途絶えしめた歴史的大ストライキから二年。暴動寸前の労働者の決起に驚愕した製鉄所側が、警察、憲兵隊、右翼暴力団を動員し、幹部の根こそぎ逮捕と労働者への脅迫によって、ストライキを圧殺したものの、ほとんどが二十代の製鉄労働者たちの血の気は二年ののちもなお収まらない。自らの威力を恃む彼らの前に、その集合的反逆心の高揚を投影するシンボルとして突如現れた伝説のスーパースター(パンパン)。それが大杉栄だった。
 あるいは一九二〇年十二月十日夜半。警察の裏をかいて非公開のうちに創設された知識人、ジャーナリスト、労働運動家ら各派の社会主義者の大同団結組織、日本社会主義同盟。その成立報告講演会の会場、神田青年会館へ押しかけた労働者、学生の聴衆約百五十人。主催者側のほとんどは検束され、会場周辺を固めた多数の警官と聴衆があわや衝突乱闘に及ぶとき。外套を上に羽織ったドテラ姿、白い大きな毛布を頭にひっかけて面貌を隠し、手にはぶっといステッキ、下は下駄ばきという出立ちで会場に入ろうとする偉丈夫(パンパン)。阻止しようとする警官を前にさっと毛布を取りのけて堂々両腕を組むや「おれは大杉だァ」と階段の上で絶叫! たちまち湧き起こる「大杉だ!」「大杉だ!」という群集のどよめき。検束せんと、たちまち殺到する警官たちに身動きとれぬまでに固められたが、連行されてゆく間、「おれは大杉だぁ!」の絶叫は止まらなかった。
 お次は、一九二三年五月一日午後三時、花のパリー郊外サンドニ労働会館のメーデー集会。穏やかに続けられる講演にいくぶん退屈しながらも何も起こそうとしない八百人余の労働者のおとなしさに業をにやしたエトランゼ大杉(パンパン)。さっそく飛び入り演説を申し入れるやいなや、演壇に飛び上がり、「日本のメーデーは歴史こそ浅いが屋内で行儀よくやりはしない、街頭で警官隊と激突する示威行動である!」と大はったりをかまし、終わって退出したとたんに逮捕。残された会場の労働者たちは興奮、大挙して警察へ押しかけ、名も知らぬ東洋の同志釈放を求めて数百人が警官と大乱闘という騒ぎ。
 一事が万事、こんな具合なのである。彼はいつだってキマりすぎていた。スクリーン全体が沸騰するような一場のクライマックスにかかるストップモーション。大杉栄の生涯は、たたみかけるような見せ場見せ場の連続だ。
 (略)
 明治十八(一八八五)年、軍人の父と勝ち気で美しい母の暴れんぼうの長男に生まれた栄。陸軍幼年学校で三年で退校。原因は学友との決闘。外国語学校仏語科入学のため上京。社会主義運動へ接近。外語卒業後、就職活動中の一九〇六年、電車賃上げ反対デモに参加して逮捕。就職はおしゃか。大杉は完全に社会主義にハマり、人生をみごと棒に振る。このデモは、日本社会党が開催したものだったが、千数百人の市民が指導部の穏健方針を逸脱して暴走。鉄道会社や変電所、市役所への投石、電車線路を占拠とエスカレートし、つるはしを構えた土工たちの合流もあって、結局日比谷、外濠で電車六、七台が焼き討ちにあった。この事件での活躍とその結果の入獄により大杉のいけいけ人生は本格的にいよいよ幕を開けたのである。
 二十代を通して違法出版と示威行動で繰り返す入獄。獄中ではエスペラント、伊、独、露、西語をマスター。社会学、経済学、自然科学、文学ほか膨大な書物を読破。獄中にあったため、おりしもフレームアップされた大逆事件の犠牲となることを免れる。出獄後、文芸思想雑誌『近代思想』創刊。二年継続ののち、廃刊。より扇動的な革命ジャーナリズム(へ転出を図る)も弾圧により挫折。八方塞がりのなか、自由恋愛スキャンダルの主役となり、葉山日陰茶屋で恋に破れた神近市子に刺される。四角関係は破綻。伊藤野枝と新生活。
 翌年、ロシア革命勃発。国内でも労働争議頻発。たちまちジャーナリズムの寵児となった大杉は、アナキズム思想の紹介、労使協調路線粉砕、民本主義批判に筆鋒を振るうと同時に、アナキズム労働運動支援に奔走。一九二〇年、極東社会主義者会議出席のため上海へ密航、世界革命総本山、第三インターナショナルの代紋しょったロシアのチェレン相手に日本革命運動の自立性を堂々主張。帰国後、ボルシェビキ派との連帯による革命的労働運動を模索するも決裂。ボルシェビキ批判を展開。一九二三年、国際アナキスト大会出席のためフランスへ密航。大会は延期のまま、三カ月ほど在仏。七月、先述のメーデー事件で強制送還。九月十六日、大震災後の混乱のなか、伊藤野枝、甥の橘宗一とともに東京憲兵隊により連行、惨殺。事件は甘粕正彦憲兵大尉による絞殺として処理され、真相は五十年間闇に葬られる。死後、同志たちによる報復テロ未遂事件が続発。
 ざっと見ても、この生涯、まるでホールドアップと逃亡のエクスタシーが絶え間なく連続するデスペレートな強盗道行の果て、銃弾の雨のなかに散ったボニーとクライドみたい。とても明日がありそうな人生ではない。

 引用文中にもあるように、第三インターつまり(ほぼイコール)ソ連は、すでに大量に存在する日本人社会主義者たちの中から、まず大杉に接触している。一九二〇年の夏頃のことらしい。言うまでもなく、「第三インターナショナル日本支部」として「日本共産党」を結成させるためである。
 正確には、来日したコミンテルンの工作員が接触を図ったのは大杉だけではなく、山川均や堺利彦といった、大杉と違ってアナキズム系ではない、実際のち日本共産党の創設メンバーとなるような、マルクスびいきの面々にも接触が図られている。しかし、「えたいの知れない第三国人[朝鮮人共産主義者]がやってきて、ただ遠回しに上海へ行ってみないかというような誘いをかけられても、うっかり乗れないわけで、それでなかなか連絡がつかなかったわけです」(『山川均自伝』)ということになる。「[工作員は]堺さんのところへも無論行ったでしょうが、堺さんもいいかげんに聞いていたので、大杉のところへ行ったのです。彼はかなりの冒険主義だから、それならおれが行ってやるというわけで」、大杉がコミンテルンが主催する上海での「極東社会主義者会議」に出席し、「第三インターナショナルの代紋しょったロシアのチェレン相手に日本革命運動の自立性を」云々、という脈絡である。
 ちなみにこの時、大杉はちゃっかりとコミンテルンから二千円(現在の八百万円ほどか)の活動資金を受け取って帰国している。もちろんコミンテルン側としては、本当はそれで「日本共産党」を作ってほしいわけだが、大杉がそんなことをするわけがない。二千円は共産主義運動ではなくアナキズム運動(主に大杉主宰の雑誌『労働運動』の発行)のためにすっかり費消されてしまう。とはいえ、浅羽の文章中にも「ボルシェビキ派との連帯による革命的労働運動を模索」とあるように、「アナボル連携」(アナキストとボルシェヴィキの連携)を掲げての『労働運動』誌であり、大杉としてはそれで充分コミンテルンへの義理は果たしたことになるのだろう。そしてコミンテルン側としても、アナキストの大杉になどハナから過大な期待をしてもいない。「コミンテルンの最初のやり方は、誰でもいい、一番初めに会った人に金をやって何かやらせる。そのうちに適当な人をつかめば前の人はすててのりかえる、こういうやり方ですね」(『山川均自伝』)ということでしかないのだ。
 「アナボル連携」は上手くいかず、大杉はむしろ反ボルシェヴィキのスタンスを固めていく。また、当時は「普選要求運動」全盛の時代だが、大杉は普通選挙反対の論陣を張ったりもする。いずれもアナキストなのだから当然ではある。大杉を称揚し続ける現代の自称アナキストたちの多くが親共産党であり〝選挙に行こう!〟派であるのは、まっこと嘆かわしい限りと言うほかない。

ここから先は

7,008字

¥ 270

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?