反共ファシストによるマルクス主義入門・その8

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その7」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第8部は原稿用紙20枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   11.近代の序曲(承前)

 さらに重要なのは、プロテスタントの教義とくにカルヴァン派のそれが資本主義の発展の精神的基盤となることである。社会学という学問領域を確立した1人であるマックス・ウェーバー(1864〜1920年)がそのことを論じた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年)はことに有名である。説明だけは上手いゴミ野郎・青木裕司の説明を引こう。

 まずは予定説。人間の運命は全能の神によって予め定められているというものですが、これでは「予定」という言葉の単なる言い換えでしかないですけどね。そして、暴利を貪らない程度の禁欲的労働の結果としての蓄財を肯定した、ということ。
 (中略)
 「いいですか、皆さん。人間とは全能の神の前では、ほとんど無に等しいんですよ。その無である人間は何をやっても一緒なんですよ。努力したからといって天国に行けるわけではない。とにかく、神が一切を決定しているのであって、その前では人間は右往左往するのみなんですよ」と人間を突き放してしまう。
 「ただし」、とカルヴァンは言うんですね。「ただし、皆さんが天国へ行けるか行けないかについて、神はときどきサインを送ってくれる」、と言うんだ。「どこを見ればいいんですか」、「それは、財布の中なんだよ。おまえさんが禁欲的に、人を蹴落とすようなことをするのではなくて、普通にちゃんとまじめに労働をやってお金をためるとする。そのお金がたまっていくごとに、あんたは天国への階段を踏みしめて行ってることになるんだよ。だから、ある意味ではあんたの職業というのは、神様があんたを天国に引き上げるためにやらせてらっしゃる仕事なんだ」
 ここから生まれた言葉があります。英語のcallingという言葉ですね。これは職業という意味なんだけれども、「天職」という訳がある。だれがcallするかというと神様だよ。何と言ってcallするかというと、「仕事せえ」と言う。その仕事を全うしてお金がたまった。それは天国へ行ける階段なんだよ。これが予定説なんだ。
 (中略)
 このように蓄財を肯定することで新興の商工業者がカルヴァニズムを受容し、これが「近代資本主義の精神」になってゆくのです。近代資本主義の発展するところ、常にカルヴァン主義在りなんです。逆に言うと、カルヴァン主義が普及していないところに近代資本主義は発展してないんだ。
 (『世界史講義の実況中継』

 カルヴァン主義者たちが早々に実権を握ったのが、1581年にスペインからの独立を宣言し、1609年に事実上の独立を果たし、1648年のウェストファリア条約で独立を最終的に国際承認されたオランダであり、1642年にピューリタン(=カルヴァン派のこと)による革命が起きたイギリスで、いずれも近代資本主義の最先進国となる。

 もう1つ、「宗教改革」と「ルネサンス」の両方にまたがって重要なのが“国語”の問題である。

 「帝国」の特徴は、たとえば、文字の優位ということにおいてあらわれています。そこでは、ラテン語や漢字やアラビア文字が唯一の文字(言語)であり、それによってあらわされる意味は超越的で普遍的(カソリック)です。それに対して、近代において俗語(ヴァナキュラー)で書こうとする運動が起こってきます。たとえば、ルターは聖書をドイツ語に翻訳しました。この場合、先にドイツ語があったのではなく、この翻訳が規範となってのちにドイツ語、のみならずドイツ民族が形成されたのです。
 ルターの宗教改革(プロテスタンティズム)は、この俗語化と密接につながっています。彼は、信仰を、教会制度を通してでなく、自己の内面的に直接的な問題としました。それは、いわば、内的な言語(音声言語)を、文字(ラテン語)に優越させることです。それは、超越的な意味を解体することです。その結果、信仰は個人的なものになり、且つ地域によって違ったものになっていきます。
 (柄谷行人「帝国とネーション」90年
 /『〈戦前〉の思考』文芸春秋・94年・講談社学術文庫)
 ヨーロッパで最初に俗語で書こうとしたのは、ダンテです。彼は、イタリアのある地方の方言で書いています。
 (中略)
 イタリアにつづいて、フランス、イギリス、スペインなどで俗語で書こうという試みがなされてます。近代のネーションは、そういう俗語で書くこと、俗語での書き言葉を作りだすという過程と並行して生まれています。
 たとえば、ダンテの『神曲』、あるいはデカルトの書物や、ルターの聖書の翻訳とかは、今でもイタリア語・フランス語・ドイツ語で読めますが、それは言葉があまり変わらなかったからではなくて、実は、それらの作品が各国語を形成したからです。
 (柄谷「文字論」92年/『〈戦前〉の思考』)

 時代は下るがこのあたりの事情は日本でも同じで、

 日本では、一八世紀後半に、本居宣長に代表される国学者が、漢字を斥け、仮名で書かれた古代の文学や歴史に「日本人」の本来性を見ようとしていました。それが日本のナショナリズムの萌芽です。しかし、彼らは、自分たちがふだん使っている俗語にはなんの関心ももっていなかったのです。したがって、日本の言文一致運動は、明治二〇年頃に起こったというべきです。しかも、それは小説家によってはじめられました。二葉亭四迷の『浮雲』がその最初の作品だということになっています。
 (柄谷「韓国と日本の文学」93年/『〈戦前〉の思考』)

 日本でも、二葉亭四迷、さらには夏目漱石や森鴎外によって追求し完成された“言文一致”の文体が、今に続く近代日本語そのものを創出し、群雄割拠の幕藩体制から近代的統一国家への転換を支えるのだが、このように「ルネサンス」にせよ「言文一致運動」にせよ、単に文化領域・芸術領域の枠に収まらない歴史的意義を持っている。

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