『全共闘』(13)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その13」は原稿用紙換算25枚分、うち冒頭13枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその13枚分も含む。

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第1部 全共闘以前

 第2章 草創期の左翼学生運動


   1.大正デモクラシー


 〝大正的言説〟の欺瞞

 第一次大戦の衝撃から生じた左右のラジカルなニヒリズムの思想や運動によって、やがて粉砕され、あるいは乗り越えられるとしても、「あんな戦争はもうこりごりだ」との深い実感に基づくリベラルな平和主義のムードは、当然ながら一時は欧米各国に広がった。言い出しっぺのアメリカが参加しないという間の抜けた形ではありつつ、まがりなりにも「国際平和機構」としての国際連盟は終戦の翌々一九二〇年に設立されたし、二一年から二二年にかけては、ワシントンで史上初の軍縮会議が開かれて、軍備を制限する条約が結ばれ、主権国家の当然の権利としてそれまでは(列強諸国間で)認め合われてきた戦争それ自体を禁止するパリ不戦条約も、二八年に締結された。大戦に〝不真面目に参加〟して漁夫の利だけ得て肥え太った日本は、米英仏伊と並ぶ(敗戦国のドイツや、革命で〝別の世界〟に行ってしまったロシアは含まれていない)〝五大国〟の一つに数えられるまでになり、むろんこれらの国際機関や条約にも参加した。
 敗戦国ドイツは、当時最も進歩的・開明的な憲法を戴く「ワイマール体制」の共和制国家となり、ローザ・ルクセンブルクら極左勢力の武装蜂起を鎮圧しつつ、穏健な(つまり大戦勃発に際して参戦派に転じてローザやレーニンに〝裏切り〟を糾弾された)社会主義政党である社会民主党が政権を担った。
 こうした平和ムード、リベラル・ムードは、〝不真面目な参戦国〟たる日本にもすぐさま波及した。また、第一次大戦の渦中で生じたロシア革命の衝撃は、日本の反体制派にも〝社会主義〟とやらに対する熱狂的関心をいよいよ呼び起こしもした。つまり第一次大戦それ自体からは大した影響は受けなかったとしても、第一次大戦の結果として激変した世界情勢とは、もちろん日本も無縁ではいられないわけだ。〝世界の終わり〟を予感させるような〝大量死〟の経験は、のちに見るように、日本では欧米諸国に少し遅れて二三年の関東大震災によって代替されたと言われ、実際それ以降、日本にも左右のラジカルなニヒリズムの運動が登場してくるが、ひとまずは、欧米諸国のそれから左右のラジカリズムを差し引いた、つまり大量死の経験の国民的な共有を欠いているぶん〝ヌルい日本版〟として、第一次大戦の〝戦後思潮〟たる「大正デモクラシー」の時代が本格的に到来するのである。
 もちろんそうした世界的動向との同期という側面とは別に、日本国内の固有の文脈も存在する。そもそも大正デモクラシーの起点は、普通は大戦勃発の前年、一九一三年(大正二年)の、「日本の政治史上はじめて、在野の政治運動が内閣を倒すにいたったいわゆる大正政変」(立花隆『天皇と東大』)、つまり「憲政擁護」を掲げての桂太郎内閣打倒運動に置かれるし、さらにはもっとかなり以前、一九〇五年(明治三八年)九月の日露戦争終結と同時に起きた日本近代史上最初の大規模な都市暴動「日比谷焼き討ち事件」を大正デモクラシーの端緒とする見方もべつにそう珍しいものではない。
 ただいずれにせよ、リベラル派の学者や批評家が大正デモクラシーを高く評価するのは当然としても、ラジカル派からの評価はおしなべて低い。
 通説に従って「大正政変」を大正デモクラシーの起点と考えるとして、その直前、一九一〇年から一一年にかけては「大逆事件」が日本社会を騒然とさせている。幸徳秋水ら主にアナキズム系の社会主義者たちが一網打尽的に一斉検挙され、幸徳を含む十二名が死刑に処せられた事件である(死刑判決は二十四名に対して出たが、半数は特赦で無期懲役に減軽)。明治天皇暗殺を計画したとされたわけだが、実際に謀議に参加していたのは管野スガら四人だけで、しかも実現可能性など皆無の幼稚な計画(というより夢想)にすぎず、幸徳ら他の面々はそんな計画など知りもしなかったか、あるいは薄々知っていても関与してはいなかった。それでも死刑で、要は拡大しつつあった社会主義運動への先制攻撃的な予防弾圧である。
 日本政府は世界中から非難を浴びたが、国内の社会主義者たちを震え上がらせるには充分だった。以後しばらく、社会主義運動の「冬の時代」と呼ばれる。
 大逆事件は、社会主義者たちのみならず、文学者を含む日本の進歩的知識人・言論人に計り知れない衝撃を与え、結局のところ、沈黙させた。
 同じく大正政変の直前の時期に、「韓国併合」もおこなわれている。一九一〇年のことである。
 「こうして朝鮮人を日本帝国に組み入れたところに成立しているにもかかわらず、大正期の言説はまったくそれがないかのように存在している。大正的ヒューマニズムのいかがわしさは、第一にそこにある」と柄谷行人は述べている(「一九七〇年=昭和四十五年」/『終焉をめぐって』)。さまざまな〝理想〟が語られたが、「西洋人も日本人も同じ『人類』であるという論理は、朝鮮人も日本人も同じ『人類』の一員であるがゆえに、同一国家に属していてもかまわないということにしかなっていない」というのである。
 ちなみに前記〝日本近代史上最初の大規模な都市暴動〟も、戦争に勝ったのになぜロシアから領土のひとつも分捕れないのだ、という〝帝国主義的〟な苛立ちから起きている。
 対外的な問題だけでなく、国内の問題についても大正期の言説はいかがわしい。〝大正デモクラシー〟のムードを牽引するのが、吉野作造が唱えた「民本主義」だが、言うまでもなくこれは「デモクラシー」の訳語である。しかし「民主主義」と言ってしまうと、天皇主権を否定することになりかねないので、言葉のアヤでごまかしたわけだ(もっとも吉野自身、熱烈な天皇信奉者でもあった)。
 とくに大逆事件以後は、〝天皇〟は絶対的なタブーとなる。吉野が「民本主義」を唱えたのも、もちろん大逆事件以後のことである。
 韓国併合にしろ大逆事件にしろ、そうした本当に重要な問題は見ないことにして脇に置いて、あるいは目をそむけている自覚があればまだいいほうで、ことによると単に視野に入らないまま(むろん大逆事件は当初こそ強く意識されていただろうが、「民本主義」をはじめ〝天皇〟問題をうまく回避するレトリックが浸透していくにつれて、例えばそのような苦しまぎれの訳語を生み出さなければならなかった脈絡は忘れ去られたに違いない)、「人類」だの「世界」だの「民本主義」だの「普選要求」だの、理想主義的で普遍主義的な言葉や理念が騒々しく飛び交っているのが俗に〝大正デモクラシー〟と呼ばれる時代なのである。


 大衆社会の到来

 大正時代はまた、日本社会にも「大衆」が登場した時代であるとも言われる。
 大衆とは要するに〝何者でもない人々〟のことだ。資本主義が発達すると、多くの人々が前近代的な〝身分〟から解放され、武士でも農民でもない、つまり何者でもなくなっていく。一八九四〜九五年の日清戦争に勝利して清朝から分捕った多額の賠償金で八幡製鉄所を建てるなど、世紀の変わる前後に工業社会化が急速に進み(ちなみに加藤直樹『謀叛の児』なども言うように、建国以来というより国家以前の歴史が始まって以来、圧倒的先進国・中国を常に範として仰いできた日本人が、増長して中国人を見下すようになるのも、大方には日本が負けると見られていた日清戦争での予想外の勝利以後であるらしい)、前記のとおり日露戦争の直後には初めて〝何者でもないただの人〟の群れ=〝群衆〟による大規模な都市暴動が起きるほど、大衆社会化も進行していた。
 しかし、いよいよ「大衆」が前面に登場してくるのは第一次大戦後のことである。戦争それ自体はほとんど対岸の火事のようにやり過ごしたとはいえ、だからこそ全力で戦争をやっている、当時の同盟国であるイギリスなどからの大量の軍需物資の注文に応えたりすることで、日本経済はひたすら潤ったのである。「成金」という言葉が生まれたのも、この時期だったりする。
 大戦後、農民人口は全人口の半数以下となり、日本は農業国から準工業国へと変わった。

 軍需産業や造船業は、農業から多くの労働者を吸収し、青年たちを農村から都会へと引きだした。
 大戦中に、多くの現金収入を得た労働者たちは、消費に精を出した。(略)労働者たちもまた、それぞれが成金となって、洋服や靴を買い、大衆食堂で食事をし、ビールを飲み、小説を読み、そして活動写真や浅草オペラの客席をうめたのである。
 都会にでて、消費を覚えた労働者たちは、娯楽とともに自らの権利にもめざめた。
 大戦景気が一服し、深刻な不況が訪れると、彼らは団結して経営者と闘った。大正八年[一九一九年]には神戸川崎造船所で、八時間労働と、本給の賃上げを要求していたサボタージュが、労働者たちの投票を経てストライキへと移行した。
 翌九年[一九二〇年]には、官営八幡製鉄所でもストライキが発生し、溶鉱炉が停止した。この年、上野公園で、最初のメーデーが開かれている。
 労働争議や労働者たちのデモンストレーションは、普通選挙を要求する大衆運動の波とあいまって、警察当局が強い規制を設けたにもかかわらず、各地で頻発した。そのうねりは、給与生活者の賃上げ運動や、小作争議などともつらなって、既成の価値観や社会構造を大きくゆるがしたのである。
 富山県魚津の主婦たちが、米の値段が急騰していることの不満を話しあった井戸端会議からはじまった騒動は、日本全国津々浦々に広がり、わずか一月あまりの間に一道三府三十八県で五百カ所以上の暴動が起き、米屋や資産家の邸宅、商社などが襲撃されたのである。
 米騒動に代表される群衆の反乱は、大戦下で起きた日本社会の変化のあり方を、きわめて率直にあらわしている。
 短期間に激しい経済成長を体験した日本人は、旧来の農村を基盤とした社会から突然とき放たれてしまった。しかも、新しい居場所がどこにあるのか、誰にも分からなかったのである。
 とき放たれた人々は、大衆として街頭にあふれだし、消費や歓楽を謳歌しただけでなく、旧来の規範やめざわりな事物を破壊したのである。
 もしも大正デモクラシーというような現象があったとすれば、それは吉野作造や美濃部達吉らの民主主義に関する議論や憲法論などではない。あるいは、選挙などの民主的要求や労働者の権利の主張ではない。
 (福田和也『地ひらく』)

 引用文中にもあるとおり、第一次大戦後の日本では、単に普通選挙要求などの〝民本主義〟的な運動だけでなく、ストライキなどの労働争議も頻発した。当然、それと結びつこうとする社会主義者たちの運動も本格化する。


 〝壮士〟たちの明治社会主義

 先に、大逆事件によって社会主義運動は「冬の時代」に入ったと述べたが、そのように言うからにはそれ以前にはそれなりの盛り上がりの時期があったということでもある。ただしそれはもちろん大衆的な運動ではない。大衆社会が成立する以前なのだから当たり前だが、その担い手は、要するにいわゆる〝壮士〟たちだ。
 〝壮士〟というのは結局、武士である。もちろん武士という身分は明治のはじめに廃止されてもう存在しないわけだが、メンタリティは完全に武士のままで、儒教的な倫理を内面化し、我がこととして〝天下国家〟を論じ、民を苦しめる悪政に〝悲憤慷慨〟し、大いなる志を抱いて〝国事に奔走〟する。幕末には〝志士〟と呼ばれたのが、明治に入って呼び名が変わっただけだとも言える。そもそも、明治政府をやっているのも元は〝志士〟だった連中なのだから、明治のうちは体制側も反体制側もいわば同類で、壮士たちは当然、政府の高官たちと対等なつもりで反体制運動をやっている。国家機構なんてものは、自分たちや、せいぜい〝友達の友達〟ぐらいの連中が欧米列強のそれを見よう見まねでデッチ上げたものにすぎず、ボロもあるし、いくらでも改良の余地があるものだと実感として分かっていて、何ら遠く手の届かないところにある堅牢堅固な要塞のごときものだとは思ってもいない(当然、ヨーロッパの君主制をモデルに作られ、伝統的なそれとはかけ離れた〝天皇〟の制度的ありようも、そうである)。
 大逆事件で処刑された幸徳秋水は、社会主義運動がまだそういった〝壮士〟たちによって担われていた時代に活躍した、代表的な社会主義者の一人だろう。

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