『ブードゥーラウンジ』への道(〝福岡音楽シーンの重鎮〟ボギー氏インタビュー 2020.02.07)その1

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 〝福岡音楽シーンの重鎮〟ボギー氏へのロング・インタビューである。2020年2月7日におこなわれた。
 ボギー氏の長年の活動の成果として、福岡の音楽シーンの現在がどれだけトンデモないことになっているのかについては、2020年1月に刊行されたばかりの鹿子裕文氏のレポート『ブードゥーラウンジ』(ナナロク社)に活写されている。同書はどちらかと云えば、〝現在〟に焦点を当て、それと直接関係する範囲で〝過去〟のボギー氏の活動史にも多くの言及がある。当インタビューでは、〝現在〟については『ブードゥーラウンジ』を読めば分かるのだから、そこに書かれた以前の諸々、つまりボギー氏が音楽に目覚め、路上デビューし、またステージにも立ち、90年代初頭の福岡のオルタナ系ロックのシーンの中から、ボギー氏が単に演じ手としてのみならず、さまざまなイベントの仕掛人として登場してくる過程に焦点を当てた。
 鹿子氏の本と併せて読むことをオススメする。
 
 第1部は原稿用紙26枚分、うち冒頭10枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその10枚分も含む。

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 中学生時代すでに超売れっ子マンガ家

外山 インタビューを思い立ったはいいけど、『ブードゥーラウンジ』を読んでみると、すでに大体のことは書いてありますね(笑)。

ボギー あ、オレの歴史のことが……。

外山 ええ。

ボギー かなり初期の話から書かれてます。

外山 それによると……って、改めてインタビューする意味があるのかという話ですが(笑)、もともと小笹の界隈(現在のボギー氏や、ボギー氏の弟で第7回外山賞受賞歌手でもあるオクムラユウスケ氏や、『ブードゥーラウンジ』の著者・鹿子裕文氏が固まって住んでいるエリア。福岡市中央区)の出身ではないようですね。

ボギー うん、実家は東区です。でも生まれたのは、育った辺りともまた違って、西戸崎(やはり福岡市東区)なんですよ、海の中道(ほぼ陸続きの志賀島に延びる砂州)の。
 あのへんって昔、米軍の基地があって、米兵が住んでたアメリカ式の建物が海沿いにたくさんあったんです。ウチの一家が最初に住んでたのも、そういうアメリカ式の借家で、お風呂もああいう、バスタブに泡を入れてブワーッとやるような感じの、何というか、すべり台っぽい形状の浴槽で、その横にトイレが、つまり一体型で同じ空間にあったりする。
 そういう家に住んでたんですけど、シロアリがものすごかった(笑)。あと湿気も。夏なんか寝てると天井からポタポタ落ちてくるぐらいシロアリがいたし、梅雨の時期は廊下の板張りにキノコが生えてて……あの家はヤバかったですね。そこからやがて、今も実家があるところに移った。

外山 77年生まれぐらいでしたっけ?

ボギー いや、74年です。

外山 で、小・中・高と東区なんですか?

ボギー そうですね。短大を卒業する時に実家を出ました。

外山 音楽的な方面にはいつ頃から……。

ボギー 自分で音楽を始めた時期ですか?

外山 うん。やっぱり中学とか高校とかから?

ボギー いや、全然。もともと絵が好きだったんですよ。音楽はまったくやってなくて、もちろん聴くのは好きでしたけど、絵ばっかり描いとって、小学校の頃からマンガ家を目指してました。小学校の卒業文集なんかを見ても、当時はもうマンガ一筋で、〝マンガ家になる〟、〝マンガ一直線!〟みたいなことを書いてるし、友達もみんな、オレは将来は絶対にマンガ家になると思ってたようです。
 小学校5、6年の頃は、休み時間もずっとマンガを描いてて、中学になると連載を6本ぐらい抱えてましたからね、もちろん〝勝手に〟(笑)。つまり6本ぐらい並行して描き進めてるわけですよ。昼休みになるとヤンキーたちがそれを読みにくる。「続きば見せてー」って。で、オレが描きよる周りをヤンキーがズラーッと取り囲んで、1ページ描き上がるごとに次々と回し読みして喜んでて……。

外山 すでに〝大人気マンガ家〟だったわけだ(笑)。

ボギー うん、超売れっ子の(笑)。


 〝報酬〟のエロ本をめぐって……

ボギー それでその報酬というかギャラというか、ヤンキーたちがどこかから万引きしてきたようなエロ本を全部オレにくれて、結果としてあらゆる種類のエロ本がオレんちに集まってたんで、エロには困らなかった。それでオレの部屋の机の一番下の、一番でっかい引き出しには常にエロ本がぎっしりとパンパンに詰まってて……。

外山 しかしあんまり大量にあっても置き場所に困るでしょう。

ボギー そうなんです。だから時々……もちろん〝いいやつ〟はずっととってありますけど、もう見飽きたやつとか、そもそもあんまり好みじゃないやつとかは、上着の懐の中に隠して抱えて、お母さんに「ちょっとランニングしてくる」とか云って夕方ぐらいに家を出て、走って近くの竹薮に行く。そこに投げ捨てるんですよ。
 投げ込むと、ちょうど竹薮の中から鳥が飛び立つ時のような感じで、バサバサバサ……って音がして、で、やがて地面にドサッと落ちる。そんな感じで竹薮にどんどんエロ本を投げ込んでました。

外山 そういえばその話は、こないだ飲み会でも聞いたなあ。子供の頃、学校の裏山なんかでたまに、なぜかエロ本が何冊も捨ててある場所を発見して、そういうところが〝自分だけの秘密の場所〟になったりするのは、ぼくだけじゃなくて結構いろんな人からも聞く話で、しかしあれは一体何だったんだろう、子供たちをやがて顧客として育て上げていくためのエロ本屋の陰謀だったんじゃないか、という話になりがちなんだけど、実はボギーさんが犯人だった(笑)。きっとボギーさんみたいな人が各校区に1人ずつぐらいいたんだな。

ボギー 一方でオレの部屋の引き出しの中にもエロ本はいっぱい詰まってるわけじゃないですか。それをこっそり読んだのが性の目覚めだというのが、弟のオクムラユウスケ(笑)。

外山 それももはや界隈では〝有名な話〟になりつつありますが(笑)、いくつぐらいの頃のことなの?

ボギー 大人になってからユウスケに告白されたんですよね。いつ頃なんだろうなあ。オレがヤンキーからエロ本をいっぱいもらってたのは中学生の時だから、たぶんユウスケは小学校の高学年か、中1とかだったんでしょうけど……2つ違いなんですよ。オレが中3の時にユウスケは中1。もちろんオレも気づくんです、ユウスケがこっそり見てるらしいことには。引き出しを開けてみるとエロ本の……。

外山 順番が?

ボギー いや、順番は変わってない。そこらへんは向こうも気をつけてる(笑)。だけど明らかに、例えばちょっと角度がズレてたりするんですよ。それでオレのほうも、オレがいない時に誰かがこっそり引き出しを開けたかどうか分かるように……。

外山 〝ワナ〟を仕掛けるんだ(笑)。

ボギー そうそう。エロ本の一番上にちょっと、消しゴムか何かを置いといたりしたら、やっぱりその消しゴムの位置がズレてたりするわけです。「あっ、ズレとる!」。それで次は、一番上にメッセージを添えてね、「勝手に見るな、このドスケベが!」って。

外山 その話も昨年だったかの飲み会で、ユウスケさん側からの視点で聞きましたよ(笑)。


 遠藤賢司ショックで音楽に転向

外山 ……マンガ家志望は小学生から、いつまで?

ボギー 中学校に入るといよいよ本格化するわけでしょ。道具もGペンとか羽根ボウキとか、ちゃんとしたスクリーン・トーンを買ったり、イッパシのものも揃えたりしました。で、中3の時に初めて『マガジン』と『サンデー』に応募したんです。両方とも、努力賞とか〝佳作〟みたいな形で一応は表彰されたんですけど、審査員の選評で、「年齢のわりに絵はものすごく達者だが、ストーリーが稚拙」ってふうに書かれて、ガーン!と。それで1回そこで、挫折。だってそれまでは〝学校一の売れっ子マンガ家〟だったし……。

外山 たくさんの熱狂的なファンに囲まれてたのに(笑)。

ボギー たしかに今から思えばストーリーはムチャクチャ稚拙なんです。オレが当時すごく影響をうけてたのは〝ちばてつや〟で、とくに「おれは鉄兵」が大好きだったんです。で、鉄兵みたいな元気なキャラの奴が……一方で「カムイ伝」にも超ハマってたんで、〝忍者マンガ〟の設定で、さらに「三丁目の夕日」の西岸良平っているじゃないですか、絵柄のタッチはそんな感じで……。

外山 コンセプトがバラバラなわけだ(笑)。

ボギー つまり絵柄は「三丁目の夕日」で、キャラクターは〝鉄兵〟で、ストーリーは〝抜け忍〟の話で、「猛者[もさ]」ってタイトルなんですよ(笑)。ちょうど「ドラゴン・ボール」が流行ってる時代だし、ストーリーが〝古い!〟と云われればまったくそのとおりで、たしかにオレはマンガも古いものが好きだったんですよね……。
 で、その後も一応、マンガは描き続けるんですけど、情熱は何となく冷めてしまってる感じで、それでも引き続き絵を描くこと自体は好きだったから、やがてマンガよりむしろイラストとか絵本とかに興味の重心が移っていったのが高校に入ったあたりからです。それでそもそもデザインの学科に進んだんですけどね。
 でも、そういう学科にいよいよ通い始めた途端に、〝絵〟に対する情熱自体が冷めていくのを自分でも感じたんですよ。学校で朝から晩まで絵を描いてるような毎日じゃないですか。周りの同級性たちも全員、絵が好きな人たちばっかり。で、デザインの専門の先生とかから、いろんな知識を教えてもらって、デッサンをやったりするわけですけど、そういうのが、すげえつまんなくてね。
 自分が好きなように、空想のおもむくままに絵を描いてた頃はすげえ楽しかったのに、〝学校の勉強〟として描かされるようになってから、まったく楽しくなくなってしまって、短大も一応は九州造形短大っていうデザインの学校に行くんですけど、短大に入る時点ではすでに完全に熱は冷めてて、それでもべつに絵が下手なわけではなかったんで、単に就職先としてデザインとかの仕事に就くために入った感じです。だけどそれも、時代が超〝就職氷河期〟で……。

外山 もうそういう時期か。

ボギー 景気の問題よりむしろ、そもそも第2次ベビー・ブームのど真ん中の世代ですから、人数がムチャクチャ多いんです。だからデザイン関係の就職先もないし、ちょうどそういうタイミングで将来の展望がまったくなくなってた時に、テレビで遠藤賢司の「夜汽車のブルース」って曲を知ったんですよ。〝中津川フォーク・ジャンボリー〟(69〜70年)の映像ですね。

外山 あ、年をとってからの遠藤賢司じゃなくて、70年代当時の……。

ボギー そうそう、70年とか71年とかなのかな。その映像の中の遠藤賢司に衝撃を受けて、録画してたからそれを何回も繰り返し見て、まもなく楽器屋さんにギターを買いに走る。

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