1988年の反原発運動・全史(その12)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その11」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 単行本版『全共闘以後』の「第3章・第3節 反原発ニューウェーブと札幌ほっけの会」(原稿用紙換算42枚分)にあたる部分の〝オリジナル全長版〟(原稿用紙換算約290枚分)である。
 紙版『人民の敵』第3839号に掲載された。
 単行本版ですでに読んだという諸君も、あんなに面白い話だったのに、本当はもっと面白い話だったのかと衝撃を受けるはずだ。

 第12部は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭9枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその9枚分も含む。

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 さて、八月二十三日の〝七名逮捕〟の状況について情報センター冊子は、「若い男性ばかり狙いうちに7名を逮捕していった警察の弾圧は想像を絶するものだった。1人に十数名がおそいかかり、つかみ倒し、けりあげる。7名全員が衣服をボロボロに裂かれ、うち3名がそのまま病院にかつぎ込まれなくてはならなかった」とし、そして「ほとんど理由のない逮捕のため、完黙者を除き数日以内に釈放。完黙者も9月4日に釈放された」という。〝完黙者〟というのは、「ぼくはそれで結局23日間、留置場に入る」と大幅に間違えてはいるが(実際には十二泊十三日)、それだけ長く入っていたように感じてしまう宮沢だろう。
 そして宮沢が留置場生活を送っている二週間たらずの間に、ほっけの会は〝分裂〟してしまう。

 留置場に入ったわけだけど、これが何というか、ホッとしてね(笑)。それまで毎日、気を張って過ごしてたでしょ。留置場に入ったら、今何をすべきか、なんて方針をもう考えなくていい。考えても意味がない(笑)。だからすっかりくつろいでしまったよ(笑)。だけどぼくが入ってる間に、反原発運動での救援活動を担うグループが〝ほっけの会〟のメンバーを中心として形成され、さらにやっぱり同じ時期、その救援組織を母体に「STOP!泊原発情報センター」というのが、さっき云った第4インター系の活動家(〝Aさん〟)を中心に発足して、〝ほっけの会〟のメンバーのほとんどがそっちに移行していくんだ。ぼくが釈放された時には、当初〝ほっけの会〟に結集した3派のうち、もともとぼくらがやってたグループ(〝宮沢・猪俣フラクション〟)のメンバーが「STOP!泊原発情報センター」にも顔を出しながらぼくのところにも顔を出す、というような状況になってた。

 つまり、「ほっけの会」以前の〝三者共闘〟のうち二者から合流してきたメンバーは全員、情報センターに移行し、もともと〝宮沢・猪俣フラクション〟だったメンバーすら、情報センターと〝宮沢派〟の二股をかけている状態になっていた、というのである。
 情報センターは〝非暴力直接行動〟というコンセプトを前面に出して活動を開始する。
 鹿島も高校時代に〝緑の党〟などを知って憧れて以来、〝非暴力直接行動〟と念仏のように唱えてはいたらしい。ただし鹿島が言う場合、あくまでも後半の〝直接行動〟に重きがあって〝非暴力〟はほとんど〝枕詞として非暴力直接行動という七文字熟語の前半についてる三文字〟という程度のものにすぎないのだが、情報センターの場合には〝非暴力〟に〝直接行動〟と同等以上の重きを置いていて、そのことは「Aさん」と共に〝分裂劇〟において主導者の役割を果たしたらしい(「私は『ほっけの会』を離れて、北海道大学新聞会に所属していた学生たちやそれまで活動に関係していた人たちと一緒に『STOP!泊一〇日間行動情報センター』という新しいグループを組織した」)古賀徹の回想でも、後でまた少し引くように歴然としている。

 鹿島は八月二十七日の夜にいったん札幌を離れ、十月に予定されている試運転開始を前に最後の正念場、決戦の時が近づいていることを念頭に、札幌と連動してしばらく東京で動く。
 前述[「その11」]のとおり東京では〝泊原発〟はほとんど課題になっていなかったので、学生連絡会に働きかけて「とめろ泊原発・関東集会」を開催し、また試運転開始まで北電東京支社前で連日の抗議行動をおこなう学生有志のグループを作り、社会党本部に公開質問状を提出して責任を追及し、ほっけの会が札幌の通産局前で抗議行動をやるのに合わせて同日に通産省前での抗議行動を主導したりと、かなり精力的である。
 鹿島が再び札幌入りするのは九月二十三日の夜のことだ。後述する、試運転開始まで続けるという〝北電前テント村〟の闘争に参加するためだが、東京に滞在している一ヶ月たらずの間に、あの大事件が起きている。
 八八年九月十九日、昭和天皇の〝吐血・下血〟のニュースである。
 この日を起点に、翌八九年一月七日の死去、そして二月二十四日の葬儀「大喪の礼」まで約五ヶ月間に及ぶ〝自粛〟騒動が始まり、その戒厳状況下でやがて鹿島自身も参加する反天皇制グループ「秋の嵐」の諸闘争も展開されるが、鹿島は、天皇危篤の報に接して、何よりもまずこれから正念場を迎える泊原発闘争に及ぼす影響を心配したという。
 場合によっては、天皇が死去して国じゅうが喪に服している真っ只中で〝テント闘争〟を展開することになるのだ。すでに八月、日本刀を振りかざした右翼の乱入によって、知事室前ロビー占拠に引き続いた道庁前テントはたった三日で撤退を余儀なくされている。天皇が死んだとなれば、それどころではない凄惨な〝本気〟の襲撃がテント村にかけられる可能性も充分ある。
 鹿島は東京から札幌の宮沢に電話して、「Xデーが来たらどうするつもりですか?」と訊いた。宮沢は「Xデーが来てもやる。Xデーが来たからどうこう、って方針を変えることはない。反原発のテント闘争をやめることもしないし、それを反天皇の運動に切り替えることもしない。ただ我々がやるべきことを貫くだけで、それ自体が我々の〝Xデー〟に対する態度でもあると思ってる」と答えたという。鹿島はそれを聞いて、「一大決心をして、『よし、オレはもう右翼に斬られてもいい』って決心して(笑)、北海道に行く」ことにする。

 一方そのかん札幌では、原発現地での防災訓練の問題が焦点化していた。当初、泊原発の試運転開始は十月一日とされ、道庁はそれに先立って九月下旬に防災訓練をおこなう方針を明らかにしていた。反原発派はこの防災訓練の実施を阻止することで、試運転開始を延期させようとしたのだ。
 九月十九日には、訓練計画の詳細を決めるために予定されていた道防災会議幹事会の会議が、地区労の六十名による会場占拠によって開けず、流会となったりしている。ほっけの会もこの時は〝札幌現地化〟の方針をいったん棚上げし、他の反原発グループと共闘して、道庁が立案した訓練計画を承認する地元四町村の議会に押しかけて傍聴席からの野次などで妨害して回った。
 そうしたさまざまな抵抗によって、最終的には防災訓練は現地四町村で十月十五日に実施されることになり、試運転開始も十月十七日に延期されたのである。

 古賀徹は、「STOP!泊10日間行動情報センター」について、「札幌や北海道全域には無数のグループがあって、それぞれがお互いを知らないまま独立して活動してい」る状況が続いていたため、それらの活動情報を集約して共有し広く知らせること、およびそれらの活動の中で逮捕者が出た際の救援を目的に、八月二十日からの「原発トマリ記念日」に合わせて(その少し前に)結成したものであると『理性の暴力』に書いているが、これは当事者でありながらの記憶違いではなかろうか。そもそもそれではグループ名の中の「10日間」という文言の説明がつかないし、「日刊で」発行したという「情報センターニュース」の第二号の発行日が九月十八日となっていることとも符号しない。
 やはり宮沢の言うとおり、「トマリ記念日」行動のとくに三日目に生じた〝七人逮捕〟の事態に対応するための救援組織がまず立ち上げられ、「その救援組織を母体に」やがて「情報センター」が結成されたと考えるほうが辻褄が合う。
 九月後半にスタートしての〝十日間〟の行動とすれば、当初は十月一日に予定されていた試運転開始を視野に、最後の約十日間(あるいは試運転開始前日・当日あたりは反原発派総体が泊原発現地に結集するとして、その直前までの文字通り十日間)の諸グループ・諸運動の活動情報を集約して広く反原発派内で共有する、ということではなかったろうか(なお試運転開始後の十月三十日発行の「情報センターニュース」第二十一号の時点では、すでにグループ名から「10日間行動」の文言が削られ、発行ペースも週刊となっている模様)。

 北電前での〝テント村〟闘争は九月二十三日の夜から始まる。

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