『全共闘』(15)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その15」は原稿用紙換算25枚分、うち冒頭12枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその12枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 2.東大新人会)


 水曜会

 新人会を創設する東大生たちと星島二郎の間の世代に、麻生久がいる。
 星島の四歳下の一八九一年生まれで、したがって星島の親密な同志だった京大の古市春彦と同年ということになる。
 一九一七年の暮れ頃から形成される麻生らのグループは、「水曜会」とも「木曜会」とも呼ばれる。その年の春に東大を卒業し、すでに家庭を持っていた本郷の麻生の自宅に、毎週決まった曜日に同志たちが集まることが慣例化していて、それが水曜だったとも木曜だったとも言われて証言が一定しないからだが、どちらかと言えば「水曜会」のほうが定着している印象を受ける(ウィキペディアでは「木曜会」となっているから、単に私が参照している資料が古いのかもしれない)。中心メンバーの一人だった棚橋小虎の当時の日記の記述から、どうも「木曜会」のほうが正しいようなのだが、後述する〝日本最初の右翼学生団体〟も「木曜会」でややこしいので、本書ではこの左翼側の学生運動草創期のグループのほうを、たぶん間違いだろうと思いつつ「水曜会」としておく。
 麻生ら水曜会の面々も相当に早熟な学生たちである。水曜会の形成は前記のとおり一九一七年の末頃だが、そのルーツは一一年の一月まで、七年ほども遡ることができる。舞台となるのは三高、つまり現在の京大(の前期課程)だ。水曜会の主要メンバーは、まずは三高の同窓生たちなのである。いっそもっと遡ると、長野県の松本中(現・松本深志高)の「尚志社」なる学生自治団体にまで行き着く。
 一八八九年生まれの前記・棚橋小虎は、一九〇一年に松本中に進学し、この尚志社の活動にも参加していたらしい。棚橋は病気で進級が遅れ、卒業するのは〇六年だが、その後もいったん就職したり、また病気療養をしたりと曲折があって、三高に入学してくるのは一〇年秋のことである。つまり一八九一年生まれの麻生久より二歳上だが、三高では同級生になった。
 棚橋は入学後まもない一〇年十一月、尚志社の〝京都支社〟を結成することを企図し、まずは京都在住の尚志社出身者四名と、「由之舎」と名づけた家で共同生活を始めるが、ほどなくしてここに参加してくるのが、松本中とは何の関係もない山名義鶴らである。
 山名もまた一八九一年生まれで、麻生・棚橋の三高の同級生だ。山名は、代々は旗本であり維新に際して官軍側に協力した功績で立藩が認められた山名家の嫡男で、祖父と父の二代は兵庫・但馬村岡藩主だった。もっとも、廃藩置県後に貴族院議員も務めた父は破産してすでに没落していた(とはいえ山名義鶴自身ものち敗戦後に、新憲法体制となるまでのごく短期間だが、貴族院議員となる)。この山名が、演説の稽古のための団体として「縦横会」の結成を提起するのである。
 一一年一月に結成された縦横会は、「特に目的がある訳ではなく、自由に集って議論をたたかわし、お互の人生観を語りあう会であった。しかし縦横会に集った者は、現状に不満で、真面目に理想を求め、現状を打破したいという気持のみは一致していた」という(佐々木敏二「『新人会(前期)』の活動と思想」)。ここに、麻生久も参加してくるわけだ。参加者には他に、敗戦後に立命館大の総長となる末川博などもいた。
 一三年一月には、縦横会が中心となって三高で〝校長排斥運動〟を起こしている。一三年といえば例の〝桂太郎内閣打倒〟の第一次護憲運動が高揚した年であり、三高生の中からも、京都で起きた暴動に参加する者が出た。警察が寄宿舎に捜索をかけ、被疑者の学生を拘引したのだが、学校側が官憲の横暴に対して毅然とした態度をとらなかったとして、校長の責任を問う運動が始まったのである。やがて校長が〝校長問責生徒大会〟に出席して過失を認めるなど、それなりに誠実な対応をしたため運動は沈静化した。
 ちなみに麻生は、大分中(現・大分県立大分上野丘高校)四年の時、つまり現在なら高校一年生の時にも、「校長排斥を叫んでストライキを決行し、その首謀者として無期停学処分をうけ」ているらしい。計算すると〇七年か〇八年の出来事ということになる。〝自治会〟に参加していた棚橋といい、現在の感覚からすると異様に早熟な少年たちと思われようし、実際まあ多少は早熟と言えるとしても、むしろ現在の状況のほうが異様なのであって、かく言う私だって〝反管理教育〟運動に決起したのは高校一年の時だし、大正の御代であれ昭和の御代であれ〝学生運動〟というのは普通は思春期(の後半ぐらい)の勢いで始めるもので、とくに指導者クラスの活動家の場合、〝大学デビュー〟では遅咲きの部類と言える。
 ともかく三高「縦横会」での体験を共有した麻生、棚橋、山名らが揃って東大法学部に進学するのが一三年秋のことである。在学中はとくに徒党を組んで行動することもなかったが、それぞれに志を持続させてはいたようで、いずれもロシア文学に傾倒し、とりわけツルゲーネフの『処女地』に一様に感銘を受けたらしい。一八六〇年代から七〇年代にかけて、学生を中心とするロシアの都市部の青年知識人たちが、熱に浮かされたように大挙して農村に入り、農民たちに革命を呼びかけて回った「ナロードニキ」運動を題材とした小説である。一九一七年に入って卒業が近づいてくる頃、麻生ら縦横会出身者たちは再び頻繁に寄り集まるようになるのだが、ナロードニキのスローガンである「ヴ・ナロード!(人民の中へ!)」がすでに合言葉と化している状態だった。卒業間際の三月、ついに始まったロシアの革命が、ますます麻生らを興奮させたことは言うまでもない。麻生と棚橋は卒業後いったん就職し、没落したとはいえ名家の御曹司である山名は気ままな遊民生活に入るが、この興奮の延長で、この同じ一七年の末頃には麻生邸に週イチで集まる「水曜会」が形成されてくるのである。
 そのごく初期から、麻生・山名と同年(一八九二年の早生まれ)で、やはり一七年に慶応大の理財科(経済学部)を卒業していた野坂参三が水曜会の常連に加わっている。数年後の一九二二年の結党に(すでに準幹部クラスで)参加し、そしてはるか後年の一九九二年に、三〇年代のモスクワで犯した悪事が発覚して百歳で除名されるまで、日本共産党の大幹部であり続ける人物である。
 野坂は慶大在学中の一三年十月に、友愛会の創立一周年の講演会に足を運んで感激したのを機にその会員となり、一六年五月には友愛会が発行する『社会改良』の編集長、同十月には機関誌『労働及産業』も実質的に野坂が編集するようになるなど、学生ながら労働運動の世界で経験を積み、卒業と同時に友愛会本部書記となっていた。
 一七年十一月下旬、つまりレーニンらのロシア革命の直後、友愛会本部で、青年労働者と東大・慶大・早大の学生たちによる「学生・労働者連合大演説会」なるものが開催され、超満員の盛況となる。閉会後の懇親会に参加した五十余名が、盛り上がった勢いで労働者と学生の合同グループを作ろうと意気投合し、十二月三日、改めて「労学会」が結成された。「ソヴィエト」の当時の訳語「労兵会」にあやかった命名は、野坂の発案という。会長は友愛会自体の会長である鈴木文治、副会長は早大教授の北沢新次郎で、野坂と、同年で早大出身の久留弘三が幹事となった。野坂が編集する『社会改良』誌がその機関誌的な役割を果たすのだが、翌一八年に入って、ここに麻生久も寄稿するようになり、結びつきが強まって、野坂も麻生邸での水曜会の常連と化していく、という展開である。もっとも、このあたりまでの水曜会は、「野坂を除き社会主義の理論を人前で発表できる者はなく、天下とりの気焔をあげていたというのが会合の性格であった」(中村勝範・酒井正文「新人会成立の背景」)というものらしい。「俄然(略)研究会らしさを呈するようになる」のは、麻生らよりも一年早く一六年に東大法学部を卒業していた岡上守道が、野坂に少し遅れて登場して以降である。
 岡上は十数ヶ国語を操るという語学の天才で、東大を出ると満鉄調査部に就職していた。
 満鉄とは、日露戦争に勝った日本がロシアから引き継いだ鉄道利権を改編して〇六年に作られた「南満州鉄道株式会社」の略称であり、沿線の鉱山やら工業施設はもちろん、商業地から移民・開拓から、とにかく満州の何から何までを結ぶネットワークの中心となる国策会社である。日本の満州駐留軍すなわち「関東軍」も、この沿線警備のため兵を置くことを中国政府に認めさせたのを始まりとする。ともかく、日本の満州経営の中心にあるのが満鉄であり、言ってみれば、会社というより満州の政府みたいなものである。日本の傀儡政府ではあろうが、そもそも満州のほうが日本それ自体の何倍も広大なのだから、政府の役割を果たすのも生半可なことではない。その方針策定のために設けられ、経済問題を主としつつも、国際情勢にも注意を払わなければならないし、治安問題も重要だし、とにかく満州をうまく経営するために必要なあらゆる領域を研究する機関が「満鉄調査部」ということになる。〝日本で最初のシンクタンク〟とも言われる。岡上が勤務していたのは、当時その中核を成す、都内にあった「東亜経済調査局」というところである。
 「東亜経済調査局は、文献資料の宝庫であり、その収集範囲も広く、文献情報もいち早く入手できる極めて恵まれた状態にあった。エルツバッハやウェンカァなどの古い無政府主義研究の古典書の類が、以前からあったのはもちろん、[諸外国の]社会民主党関係の文献、一九一七年の革命直前にベルンで出版されたレーニンの『国家と革命』でも、レーニン、トロツキーの共著『戦争と革命』でも、逸早く送り届けられていたという」(酒井正文「『過激派』考」)。世間一般では、「ボリシェヴィキによるロシア革命の情報は、新聞、雑誌等によって、勃発以来若干の日本人が伝えるもののほかは、主として連合諸国の電報を通して、混乱収まり切らぬ革命状況の変化に応じて報じられていたが、〝過激派〟[ボルシェヴィキのこと]の失脚説、レーニンの死亡説等々大小取り混ぜた虚報、誤報の類も少なくなかった」(同)という状況である。
 そもそもレーニンなど、日本では社会主義者の間ですらほとんど知られていなかったはずだ。第一次大戦の勃発に際して〝戦争反対〟の立場を貫いたレーニン派なんてものは、第二インターナショナルの少数派として排斥された、つまりマイナーな存在なのである。立花隆もこの当時について、「社会主義者といっても、漠然とした社会主義の信奉者が多く、マルクス主義の何たるかをよく知っている人は少なかったし、ましてやボルシェヴィズムなどについては、ほとんど知る人もいなかった。なにしろ、ロシア革命の新聞報道で、〝ボルシェヴィキ氏政権掌握か?〟などと報じられても、誰も不思議に思わなかった時代である」(『日本共産党の研究』)と書いている。もとより〝語学の天才〟であり、しかもロシア語を得意とする岡上が、いかにズバ抜けて〝有利〟な環境に身をおいていたかが想像されよう。

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