余は如何にして東京都知事候補となりし乎(その1)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2009年(つまり都知事選の翌々年)に書いた〝都知事選回想記〟の前半部で、都知事選出馬を決意するまで、を振り返っている。本篇とも云うべき後半部、つまり都知事選そのものに関する回想記は結局、現在に至るまで書いていない。
 もともとサイト「外山恒一と我々団」(当時は「ファシズムへの誘惑」)で無料公開していたが、2011年6月、中川文人氏が当時やっていた電子書籍の版元「わけあり堂」のコンテンツの1つとして有料化された。冒頭部に〝都知事選から4年〟的な記述があり、2011年に書かれたかのような体裁になっているのはこれに合わせた字句の修正で、実際には前記のとおり、都知事選翌々年の09年のうちに書かれている(正確には、08年から09年にかけて断続的に書き進められた)。
 その後、中川氏が「わけあり堂」をやめて、読むことができなくなってしまったので、2015年3月に紙版『人民の敵』第6号に全文掲載した。

 第1部は原稿用紙換算22枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその6枚分も含む。

     ※     ※     ※

  第一章 選挙戦の基本構想は獄中で生まれた


    1.いまどき政治犯として二年投獄され……


   都知事選で一躍ネットアイドルに

 一連の選挙戦を振り返れ、と。
 そうですね。あれだけの騒動になったんですから、どこか大手の出版社から回想記を書いてくれっていう依頼は当然あるものと思って、ずっと待ってたんですけど、とうとうどこからもありませんでした。
 本来なら選挙が終わって半年以内ぐらいには出すべきものだったのでしょうが、そんなわけで思惑が外れ、ずるずるともう四年近い日々が流れて、つまり任期一期分の時間が過ぎて、もう〝次〟の選挙が近づいています。私はもう出ませんけどね。
 でまあ、回想記を出すとしたらこれが最後のタイミングだろうと思い、あの選挙戦でもずいぶん協力していただいた中川文人さんが、最近電子書籍のウェブ出版社を立ち上げたということもあって、じゃあそこから出すかと。

 さて、二〇〇七年三月から四月にかけての統一地方選、私はその前半戦も後半戦もひたすら戦い続けるというとても珍しいというか、まあハタ目にはおそらく意味不明なことをやったわけです。前半戦では東京都知事選に、後半戦では熊本市議選に立候補してね。
 それでとくに前半の都知事選で、知事選には政見放送というものがありますから、私はこれを最大限に活用して、まあほとんどネットの世界のみではあった気がしますが、ブームを巻き起こした。一時期はもうなんか〝ネットアイドル〟みたいな感じでね(笑)。今はもう〝落ち目のアイドル〟というか、それも通り越してすでに〝あの人は今?〟状態でもあるのかもしれませんが。


   八〇年代以来の歴戦の革命家

 もっとも私は過去に、今回のも含めて三回ほど、脚光を浴びかけては忘れ去られてきた人間ですからね。それ自体は別にいつものことで、慣れてます。ああ、知らない人のために一応注釈しておくと、最初が十八歳の時、八九年ですね。『ぼくの高校退学宣言』という本を書いて、当時盛り上がっていた反管理教育運動の新しい指導者として脚光を浴びかけた。次が二二歳の時。コラムニストの中森明夫さんが当時『週刊SPA!』に連載していた、サブカルチャー界の次代を担う若者を発掘する雑誌内雑誌「中森文化新聞」で強力にプッシュされて、やはり脚光を浴びかけた。だから今回が三回目ですね。
 でまあ、こないだの選挙戦を振り返れと云われても、今の話から分かるように、私は昨日今日活動を始めたいわばポッと出ではなくて、十代後半からですからもうかれこれ二十年以上の活動歴を持つ歴戦の革命家なわけです。都知事選に出よう、と思い立つまでにはそれなりの経緯というものがある。
 といってその二十年の歴史を逐一語っていったら本題に入る前にとんでもない分量が必要になってくるんで、思い切ってハショります。興味のある人は私の過去の著作なりサイトなりを参照してもらう、と。ちなみに初期の活動については『注目すべき人物』という本が、ひとつひとつの活動について詳細には書いてないけれどもざっとごく最近までの経緯を知るには『最低ですかーっ!』という本がそれぞれオススメです。


   法廷侮辱で塀の中へ

 ではどこから話を始めるか。
 やっぱり二〇〇二年から二〇〇四年にかけての獄中体験、現在の私の活動の出発点はどうしてもそこになりますね。
 都知事選の政見放送でも、「いまどき政治犯として二年投獄され」というフレーズがウケていたようですが、そもそも私がなぜ投獄されるに至ったか、どう政治犯なのか、これを説明するのがまた面倒なんですね。さっき云った『最低ですかーっ!』という本、もしくはサイトにそれについても詳しく書いてはいるんですが。
 ここはもうごく簡単にいきましょう。
 政見放送にもあったように、私は長いこと、異端的極左活動家として生きてきたわけです。異端ですから、主流の左翼活動家からはもう、蛇蝎のごとく嫌われていました。これは大袈裟ではなく本当に。まあ、主には福岡の狭いシーンでの話ですけれども。で、その福岡の左翼活動家どもが一致団結して、私の政治生命を最終的に断つために、私がプライベートで起こしたどーでもいい痴話喧嘩を、とんでもない悪質な女性差別事件に仕立てあげ、反権力の左翼のくせに警察を唆して介入させたわけです。
 差別者と規定されたらもう左翼シーンにはこっちにつく人間は一人もいなくなりますから、私は窮余の策として裁判闘争を徹底的にパフォーマンス化することで、前衛芸術シーンを味方につけようとしたんですね。それ自体は一定成功したんですが、法廷をパフォーマンスの場にされてしまった裁判官どもが怒り狂って、そもそもの事件がどの程度のものだったかってことを無視して、実刑判決を出してきたんです。さらにこのパフォーマンス路線の一環として開設していた公判レポートのサイトに、名誉毀損罪にあたる記述があるとして、刑が追加されました。それで結局、獄中に丸々二年いることになったんです。
 要は事実上、単に裁判官を怒らせたという法廷侮辱の罪で投獄されていたようなものですね。そもそもどういう事件の裁判だったかということが裁判官にすらどうでもよくなってしまった(笑)。だから政治犯であるというのは嘘じゃないわけです。

ここから先は

6,756字

¥ 220

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?