絓秀実氏との対談(2015年3月3日)・その5

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その4」から続いて、これで完結〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 日本を代表する知識人・絓秀実氏との対談である。2015年3月3日におこなわれ、紙版『人民の敵』第7号に掲載された。
 2020年4月現在、コロナ騒動の渦中で外山は〝不要不急の外出〟闘争を鋭意敢行中であり、読みにくいかもしれないが、今回は小見出しをつけたり一部太字化したりなどの編集をおこなう時間的余裕がない。
 不要不急の用件など何らないにも関わらず頻繁に街へ繰り出すには、もちろん資金も必要なんで、自粛病ウイルスに感染して引きこもり中の諸君は、せめて外山のnoteコンテンツをどんどん購入して支援してほしい。アンチファとやらの諸君も、ファシズム勢力の頭目・外山をコロナに感染させて死に追いやるチャンスなわけだから、どんどん購入すべきだろう。

 ( )内は紙版『人民の敵』掲載時にもともとあった註、[ ]内は今回入れた註である。他のコンテンツもそうだが、[ ]部分は料金設定(原稿用紙1枚分10円)に際して算入していない。
 第4部は原稿用紙換算32枚分、うち冒頭12枚分は無料でも読める。ただし料金設定はその12枚分も含む。

     ※     ※     ※

外山 早稲田では川口君事件以降、あるいは例外的な短い時期をいくつか挟みながらもっとずっと前から、ぼくなんかも噂には聞いてた〝党派による恐怖支配〟が完成してたんでしょうけど、例えば中川(文人)さんの『ポスト学生運動史』によれば、中核派が法政大でそういう体制を確立するのは、77年に中核派との内ゲバに敗北した法大全共闘が放逐されて以降だというんです。それから栗本慎一郎の『明大教授辞職始末』って本がありますよね。あれによると明治大学で解放派が恐怖支配を完成させたのは、実は80年代に入って間もない頃で、それ以前は明大はブント系の情況派の拠点だったって。教授人事とかの学内政治との絡みで、一部の教授が解放派と結託してブントを追い出し、解放派に学内秩序を維持させると同時に学内政治用の暴力装置としても活用する、ってことを計画的にやったんだ、と。漠然とイメージしていたのと違って、それら〝3大内ゲバ党派〟による拠点大学の恐怖支配って、まあ革マル派は別としても、確立されたのは意外と最近のことなんですね。

 そうなんですよ。学生運動シーン内部の展開というより、むしろ当局側による学内統治の事情でそうなってきた。明治の場合は、安保ブントの頃からずっといる篠田邦雄って活動家が生協の理事をやってたんです。

外山 西部邁の本(『六〇年安保』)にも出てくる人ですね。

 そう。で、篠田たちとの関係を切りたいと考えたんだよ。

外山 明大当局が。

 要は理事会での派閥抗争なんでしょうね。それに学生運動が利用された。よくある話ではあって、法政もそうだったと云われてるでしょ。中川さんも云ってるだろうけど、法政も理事会と中核派が結託してたわけで、それはおそらく民青を共通の敵として形成された関係だと思います。

外山 どうして大学当局って、そんな新左翼系のヤバそうな団体よりも民青の方を嫌うんですか?

 そりゃあ民青の方が大きいもん。新左翼全部を合わせたより共産党の方がはるかにデカいんだから。教員にだって共産党員がいるわけでしょ。

外山 そうか。教員にまで浸透してるのはたしかに共産党の方ですね。なるほど。……例えば革マル派って、早稲田だけじゃなく他の拠点校でも似たような恐怖支配をやってたんですか?

 国学院なんかのことはよく知らないけど、今でも拠点として残ってるぐらいだし、やっぱりそうなんじゃないですかね。さすがに学習院の革マルは当局とのパイプは持ってなかったと思うけど(笑)。70年代いっぱいぐらいで学習院からはほとんど革マルはいなくなりましたよ。

外山 あ、いや〝当局との結託〟ではなく〝恐怖支配〟の話で、例えば〝学習院全共闘〟はキャンパスに公然登場できなかったんですか?

 69年11月まではね。もっとも学習院の革マルなんか、ママゴトみたいなものですから(笑)。最大動員で20人ぐらい。うち10人ぐらいはコアなメンバーだったのかな。そもそも大衆性がまったくないし、たまに頑張って〝大衆集会〟的な企画を仕掛けても30人は集まらない。それに対して全共闘の方は、ちっとも腰が定まってない奴らばっかりとはいえ、それでも数としては最大で百人近く集まるんだ。ずっと潜行してたんだけど、コアなメンバーが中央大学の代々木寮ってとこに集まって、〝11・1〟だったか、まあ日付で呼ぶほど歴史的に重要な事件でもないけどさ(笑)、とにかく代々木寮から出撃して、大衆部分と目白駅前で合流して、その時は合計60〜70人かな、キャンパスに入って本部前の広場で集会をやった。そうやっていきなり公然登場して、既成事実化させたのが最初だね。

外山 革マル本体も、学習院大学はそれほど拠点として重視してはいなかったんですか?

 いや、それなりに重視してはいたはずだよ。クロカン(註.黒田寛一。革マル派の最高指導者。06年死去)の妹が直接指導してたぐらいだもん。その亭主もこぶし書房(革マル派の出版社)で、今は二人で現代思潮新社(註.もともと新左翼系の老舗出版社だったが90年代に革マル派によって買収された)をやってますね。だけどそもそもああいう時代状況だし、学習院にも〝全共闘〟が登場すること自体は仕方がないと思ったんじゃないかな。自治会は革マルがガッチリ握ってるんだし、しばらく相手をしてやりゃいい、ぐらいの感じでしょう。

外山 自治会を脅かすほどのものではないってことで大目に見られた……。

 そうそう。全共闘は自治会選挙なんかには絶対に関与してこようとはしないだろうし、ってことだったんだろうと思います。

外山 とはいえそれなりの圧迫はされていたんですか?

 それはもう、連日ですよ(笑)。小競り合い、殴り合いぐらいのことは。

外山 その時期はもう、東大・安田講堂での革マルの〝敵前逃亡〟事件以後だし、学生運動全体の雰囲気として、革マル派と全共闘そのものが険悪な関係になってるんでしょうからね。

 そうです。だから登場するなり、連日の衝突。それでもまあ一定の〝拮抗関係〟にはなった。

外山 今後もいろんな人に聞き取りを続けていかなきゃと思ってるんですが、とくに70年代後半から80年代前半までの推移が〝謎〟なんですよ。80年代前半はまだ〝68年以来〟の新左翼ノンセクト学生運動がそれなりの存在感をもって持続してるわけでしょ。だけど70年代半ばまでの記録はたくさん残ってて、それらは公刊されてさえいるのに、80年を挟む前後10年ぐらいって、ブラックボックスみたいになってる。もちろん80年代後半以降の展開も世間的には何も知られてないでしょうけど、ぼく自身の直接・間接の経験として、それはある程度のことは分かりますから。問題は〝80年前後の数年間〟なんです。

 そこらへんはおれも分かんないなあ。

外山 うん。絓さんたちの世代にとっても、そこらへんの歴史が空白になってるんだと思うんですよ。

 その時期にちょうど中核vs四トロの問題(註.中核派と四トロ=第四インターとの内ゲバ、というより中核派による第四インターへの一方的襲撃)もありますよね。おれも事後的に知ったぐらいなんだけど、ノンセクトも含めた当時の学生運動状況全体の中で、あれはかなり重要な事件だったらしいでしょ。そのあたりも誰かにちゃんと跡づけてほしいですよ。あの時は中核派は四トロに追い抜かれるんじゃないかと危機感を持ったというんだから(笑)。

外山 〝中核派vs第四インター〟というより、その背景になってる三里塚闘争の現地農民の分裂ですね、ノンセクトにも影響が及ぶのは。

 だけどよく云われるのはやっぱり法政、それから明治にも少しはノンセクトが残ってたのかな。

外山 いや、80年代末ぐらいになると〝法政・早稲田・明治〟とあとはまあ京大とかって話になっちゃうんですが、80年前後にはまだ全国各地、ごくフツーにノンセクト学生運動が存在したはずなんですよ。例えば福岡の西南学院大学も、昔は中核派の拠点校だったというんです。それが80年前後のどこかの時点で、当局ではなくノンセクトが中核派を追い出したって、ホントかウソか分からないんですけど、聞いたことがあるんですよ。もしホントだとしたら、その時点で西南大にもそれなりのノンセクト勢力があったということでしょ。もちろん80年前後なら、あったとしても不思議ではないし。で、一時期は〝ノンセクトの天下〟だったらしいんだけど、やがてノンセクトが衰退したところに解放派が入ってきて、〝ジャーナリズム研究会〟という本来はノンセクト系だったサークルを乗っ取って云々っていう、大まかな経緯はどうやらそういうことらしいんだけど、細かいイキサツはよく分からない。

 九州大学はずっとアオカイ(解放派)だったんでしょ?

外山 いや、それも元々は民青の拠点だったはずなんです。それがどうして〝解放派の拠点校〟になったのか、いつからなのか、そこらへんもよく分からないんですよ。

 だって九大は狭間(嘉明。解放派の最高幹部。01年死去)の出身校だし。

外山 らしいですね。だけど自治会はずっと民青だったとも聞いてて……。とにかく全然そこらへんの脈絡が分からない。たぶん解放派は自治会ではなく、いわゆる〝ダミー・サークル〟を拠点にしてて、そもそも自治会はどこかの時点で非公認化されたとも聞くし、全体的にもう、何がどうなってどう推移したのか、ぼくはちっとも把握できてないんです。

 地方のことは、おれもますます分からないね。

外山 〝革マル派の拠点校〟にしても、九州では鹿児島大学でしょ。

 そうだね。

外山 だけど仮にそれなりの〝恐怖支配〟がおこなわれてたとしても、首都圏ほどシビアなものではない気もするんですよね。他党派はともかく、ノンセクトの存在は一定は許容されてたんじゃないかと思う。90年頃に1度だけ、自称〝鹿児島大ノンセクト〟の人と遭遇したことがあるんです。当時は〝学生運動史〟にそれほど関心がなかったから、今なら根掘り葉掘り訊いてみたいことも何も訊かなかったんですが(笑)。

 早稲田でさえ、80年代にはそれなりにノンセクトが復活してるんです。それこそ酒井隆史とか……。

外山 花咲(政之輔)さんからちょっと聞いたところによると、80年代に入ってすぐくらいに、部落解放同盟系の〝反差別〟のサークルができて、それを突破口にノンセクトが復活できたという話だったと思います。革マル派もさすがに解放同盟ぐらい巨大な組織には、うかつに手を出せないじゃないですか。ノンセクトが一定復活した後に入学してきて、やがて学外で秋の嵐を結成する見津毅は、あんまり派手なことばかり繰り返すんで「革マルを刺激するな」って、早大ノンセクトの中でも浮いてたらしいんですが……。とにかく70年代後半から80年代前半にかけての約10年間は、資料も証言も少ないし、完全に運動史のブラックボックスと化してますよ。

 空白ですね。継承関係もそこで切れてるでしょう。

外山 とくに地方の情報が皆無に等しいんです。それは〝68年〟についてさえ、小熊英二の『1968』でも頑張ってある程度はフォローしようとしてる形跡があるけど、結果的にちゃんと拾えてるかは微妙ですよ。もともと地方大学の学生運動に関する情報は少ないんだけど、それが70年代後半以降となると、地方だろうが首都圏・関西圏だろうが、おしなべてほとんど何も分からない。

 そうなんだよな。小熊英二の本は、マイナーな全共闘もフォローしてるっていうのがウリらしいけど、映画『圧殺の森』で有名な高崎経済大学闘争にさえほとんど触れてない。むしろ中公新書で小林哲夫って人が書いた『高校紛争』(12年)って本があるでしょ。あれは全国各地の高校の〝校史〟とかを原資料にしてて、だいぶ見通しがいいよね。

外山 そうですね。ああいうものの〝大学版〟が、〝68年〟についてさえ存在しない。

ここから先は

8,111字

¥ 320

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?