『全共闘』(5)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その5」は原稿用紙換算18枚分、うち冒頭9枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその9枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(4.アナキズムとファシズム)


  イタリア・ファシズム

 さてそのイタリア・ファシズムである。それもまた、実は〝ナショナリストとアナキストの共闘〟あるいは「左右両翼の過激派の連合」として始まっており、しかもフランスの場合とは逆に、むしろ極左側がその連携を主導した。
 イタリア・ファシズムの指導者は言うまでもなくムソリーニであり、彼はそもそも社会党のしかも極左派を代表する指導者だった。極左派時代のムソリーニはマルクス主義を標榜していたが、その父はもともと、第一インター時代にバクーニン派の有力な活動家として知られたアナキストで、〝ベニート〟というファースト・ネームも、父が尊敬していたメキシコの〝独立の父〟ベニート・ファレスに由来している。父からの思想的な影響もあって社会主義者となったムソリーニは、やがて一九〇二年、十九歳の時に社会党の活動家として本格的な政治生活に入る(当時まだ〝共産党〟つまりレーニン派の政党は世界のどこにも存在しない)。
 〇九年に社会党の地方機関紙の編集長に抜擢され、その部数を飛躍的に拡大させ、またそれを通じてその地域での社会党の影響力も飛躍的に増大させた。〝喋るだけ〟のドイツの後輩・ヒトラーと違って、ムソリーニは演説のみならず文筆の才能も一流だったことが一因であるには相違ないが、党外の論客にも紙面を開放するという方針も部数拡大に寄与した。要するにアナキストたちにもどんどん書かせたのである。また、次節で述べる前衛芸術の一派「未来派」にもいち早く注目し、これを高く評価する論説を繰り返し書いた。
 そうしたことからも想像されるようにムソリーニは社会党内の極左派であり、議会での勢力拡大を第一義とする右派が党の主導権を握っていた事情もあって、ムソリーニは、直接行動路線を志向する左派にとっての〝期待の新星〟として頭角を現し、あれよというまに出世して、一二年には二十九歳にして中央機関紙『アヴァンティ(前進)』の編集長に抜擢される。ムソリーニの編集長在任中に『アヴァンティ』の発行部数は三万部から十万部に伸び、それは当時のイタリア最大の商業紙に次ぐ規模にまで成長させたことを意味した。
 ムソリーニの活躍もあって左派が主導権を奪い返し、一四年四月の党大会の頃には、党首をさしおいてムソリーニこそが社会党の実質的な指導者であるかのような状況だったという。のち二一年に社会党を割ってイタリア共産党を創設し、三七年にファシズム政権下で事実上の獄死を遂げるアントニオ・グラムシも、この頃は熱狂的なムソリーニ派の若手党員だった。
 そのムソリーニの失脚そして除名は同じ一四年の秋のことなのだから、事態の展開は急速だ。一四年の春から秋にかけての間に何があったかといえば、言うまでもなく七月の第一次大戦の勃発である。
 前節で述べたように、第一次大戦の勃発は、自国の参戦に賛成するか反対するかをめぐって、ヨーロッパ各国の社会主義者たちの間に深刻な亀裂をもたらした。大雑把には、どの国の社会主義政党においても、議会進出路線で社会民主主義的な右派が、愛国的な情熱に浮かされた大衆からの支持を失うことを恐れて参戦論に転じ、直接行動路線でマルクス主義的な左派が、〝労働者に祖国はない〟という社会主義の原則に忠実に反戦の立場を貫いたのであり、世界史の教科書などでもそのように説明される。が、極左派のはずのムソリーニも大戦勃発から二ヶ月あまりを経た十月に参戦派の立場を『アヴァンティ』紙上で表明し、ためにその二日後には編集長を解任、翌十一月には左派主導の社会党から追放されるに至るのである。これは一体どういうことか?
 実は参戦論を唱えたのは、イタリアに限らず、必ずしも右派の社会主義者たちだけではないのである。左派の社会主義者のかなりの部分も、愛国主義的あるいは大衆迎合的な右派のそれとは違う立場からの参戦論を唱えていた。それはつまり、皇帝や教会が今なお絶大な権力を持つ独墺側がもし勝利することになれば、ヨーロッパの自由や民主主義をめぐる状況は大きく後退してしまうではないか、つまり英仏側に立って参戦すべきだという主張である。とくに(独墺側と軍事同盟を結んでいたにも関わらず)政府が参戦を渋って中立を守ろうとしていたイタリアには、そう主張する左派の社会主義者は多かった(なお右派も、オーストリアとの間の領土問題から、独墺側ではなく英仏側での参戦を主張していた)。
 ところがムソリーニの参戦論はそれともまったく違う独特のものだった。それは要するにレーニンの「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」という立場と実質同じであると言ってよい。ロシアのレーニンは自国がすでに参戦している状況でそれを言ったわけだが、まだ中立国だったイタリアのムソリーニとしては、〝まず参戦しないことには「内乱に転化」できないじゃないか〟という立場からの参戦論を唱えたのである。

 第三の[イタリアにおける参戦論の、第一=右派および第二=一部左派とは異なる極左派の]動機は、革命と資本主義体制打倒の展望に直結している。戦争と、それにともなう混乱、激動こそ、現体制の転覆と革命の達成にとって、またとないチャンスだ。戦争という血と火の奔流のただなかで、人民大衆は目覚め、社会の本質を知り、武器をとって立ち上がるのだ。それを絶対中立の殻の中にこもって、このまたとないチャンスを見逃すなんて、冗談じゃない。今度の戦争は、リビア戦争[イタリア・トルコ戦争]のようなちゃちなもんじゃない、すべての人を巻き込み、歴史の流れを変えるかもしれぬ大事件だ。世界史のこの壮大なドラマの中で、イタリアの労働者人民だけが舞台に登らず、観客席で指をくわえていろというのか。ブルジョアジー同士の戦争だからおれたちの知ったことじゃない、などというイタリア社会党はどうかしているんだ。このままでは我々は時代の流れから取り残されてしまうぞ。こう考えるのは参戦論に急転向して社会党を除名されたベニート・ムッソリーニであり、サンディカリズム系労働組合運動の指導者フィリッポ・コルリドーニである。アナキストにも同調者は少なくない。
 (藤沢道郎『ファシズムの誕生』中央公論社・87年)

 実際、ムソリーニ除名の報に接したレーニンは、「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」と言って激怒したという(ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』00年・ちくま学芸文庫)。
 社会党を除名される直前、ムソリーニは日刊の個人新聞『ポポロ・ディタリア(イタリア人民)』を勝手に〝社会党機関紙〟と銘打って創刊した。これは除名後も〝社会主義的日刊紙〟と銘を変更して発行され続け、やがてファシスト党の機関紙となる。
 もちろん除名されてもなおムソリーニは意気軒昂であり、極左派の参戦運動を領導した。そもそも九月の段階でイタリアで最初の参戦要求デモを敢行したのは、次節で述べる「未来派」の芸術家たちであり、翌十月には、サンディカリストたちが左翼参戦派の連絡組織「国際行動参戦ファッショ」を創設していた。むしろムソリーニはこれらの動きに呼応して、参戦論に転じる決意をしたのである。
 ちなみに「ファッショ」とは〝束〟の意味で、〝◯◯の集い〟〝◯◯の会〟といったニュアンスで(〝束〟という原義を考えれば〝◯◯団〟というニュアンスだろうが)当時のイタリアでは時々使われていたもので、もともと政治的な用語などではない。そして、のちにこれに〝イズム〟を付けて「ファシズム」を標榜し始めたところに、ムソリーニの驚くべき政治的天才が発揮されていると言ってよい。普通は〝◯◯の会〟を繰り返し主催している者がその立場を改めて定義する場合、〝◯◯〟のほうにこそ〝イズム〟の語をプラスするはずだからである。ところがムソリーニはそうではなく、〝集い〟主義、〝会〟主義、〝団〟主義を標榜したわけで、これは驚いて立ち止まるべきところだろう。

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