外山恒一&藤村修の時事放談2015.11.26「しばき隊“闇のキャンディーズ”事件を語る」(その4)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その3」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2015年11月26日におこなわれ、紙版『人民の敵』第15号に掲載された対談である。

 対談時点ですでに「しばき隊」は「クラック」と改称しており、対談中では正確に「クラック」の語が主に用いられているが、一般には「しばき隊」の名称のほうが浸透しているから、まず「もくじ」などでおおよその内容を把握したい人の存在を念頭に、小見出しなど本文以外の部分には「しばき隊」の語を用いた。

 第4部は原稿用紙換算17枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読めます。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその5枚分も含みます。

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 野間易通は社会主義リアリズムでも掲げてろ

藤村 オレはサブカルの歴史とかに詳しくないからよく分からないんだけど、野間さんの今の立場からすれば、“サブカル”ではなく“サブカルチャー”そのものを批判すべきなんじゃないの? 彼はもはや政治主義者でしょ? 共産党と同じじゃん(笑)。サブカルチャーって要するに、そういう党派的な政治主義に対する抵抗として登場したわけだよね? だったら野間さんは“サブカルチャー”の立場から“サブカル”を批判するんじゃなくて、やっぱり“サブカルチャー”そのものを批判すべきだよ。

外山 いや、おそらくそういう“反政治的”な“サブカルチャー”は日本特有なんだ。野間さんが云う“サブカルチャー”は諸外国のそれと同様、旧来の“カウンターカルチャー”と渾然一体のもので、ぼくの野間批判はそこらへんの定義の曖昧さを突いたものだけどさ。
 野間さんは、日本では“サブカルチャー”は“カウンターカルチャー”とも“サブカル”とも違う独立した領域を成してるんだということが分かってない。実質的に“カウンターカルチャー”の意味で“サブカルチャー”と云ってて、仮に外山恒一を批判するなら“カウンターカルチャー”の立場から外山を“サブカルチャー”呼ばわりすべきなのに、概念をちゃんと整理できてないから“サブカルチャー”の立場から外山を“サブカル”呼ばわりする。それで逆に外山恒一から「オレがむしろ“サブカルチャー”で、歴史的脈絡を見失って概念を混乱させてしまうおまえのような奴こそ典型的な“サブカル”だ」とか云われてしまうわけだね(笑)。

藤村 例えば大島渚の映画なんかは、欧米的な文脈で云うと“サブカルチャー”になるんじゃない?

外山 “カウンターカルチャー”であり、“サブカルチャー”でしょう。日本以外では両者の境界が曖昧というか、“サブカルチャー”の一部として“カウンターカルチャー”も含まれてるような感じじゃないかな。

藤村 日本で大島渚を“サブカルチャー”の範疇に入れると話が混乱するよね?

外山 うん。あれは日本的文脈では“サブカルチャー”ではなく“カウンターカルチャー”。70年代初頭の、頭脳警察やら三上寛やら、あるいはアングラ演劇みたいなものまで含めて“カウンターカルチャー”でしょう。“サブカルチャー”は、70年代後半から顕在化してくる、YMOとか「ヘンタイよいこ新聞」とか野田秀樹とか村上春樹とかだね。“反政治”的なラジカリズム文化で、それらがラジカリズムを失うと“サブカル”になっちゃう。

藤村 要は“サブカルチャー”って、“反共産党”じゃん。

外山 それは日本的な意味での狭義の“カウンターカルチャー”も含めて、そう。

藤村 うん、大島渚もそうだもんね。『日本の夜と霧』なんか、テーマからして“反共産党”(笑)。

外山 だからもしかすると諸外国でもそこは同じかもしれない。現代的な“カウンターカルチャー”の源流であるビート文学とかから始まって、やがてビートルズだのアンディ・ウォーホルだのアメリカン・ニューシネマだの、パンクやテクノまで、全体として新左翼運動に並走した文化運動だから。

藤村 でしょ? だったら“反・新左翼”である野間さんは、“カウンターカルチャー”であれ“サブカルチャー”であれ、批判しなきゃいけないはずだよ。野間さんは“相対主義批判”をやるけど、“カウンターカルチャー”を含めて“サブカルチャー”には多かれ少なかれ相対主義的な視点が絶対に入るもん。

外山 野間は社会主義リアリズムでも掲げてろ、と(笑)。

藤村 そうなっちゃうよね(笑)。

外山 共産党に対応する文化運動だと、やっぱり社会主義リアリズムだもんなあ。あるいは“うたごえ運動”とか(笑)。


 必要なのは“相対主義を経由した相対主義批判”

藤村 野間さんが完全に共産党だとはオレも云わないけど、少なくとも野間さんは今のところ共産党に対して何ら違和感がないみたいじゃん。それはもちろん、ぶっちゃけて云っちゃえば、野間さんの政治経験が貧弱だからだとは思うけどさ。でもそれも、野間さんを含めた今のカウンター勢、クラックやシールズが共産党以上に共産党的だからそうなっちゃってるとも云える。振る舞いや感覚が非常に党派的で、“敵”と見たらひたすら叩くっていう。

外山 先祖返りしてるよ。たぶん野間さん自身、共産党を批判して登場した新左翼諸党派を批判して登場した全共闘を批判して登場したサブカルチャーの、さらに末裔だと思うけど、いつのまにか共産党以前ぐらいにまで後退してる。

藤村 今求められてるのはやっぱり、外山君も最近云ってるような“スターリン批判を経由したスターリニズム”であり……。

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