1988年の反原発運動・全史(その1)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 単行本版『全共闘以後』の「第3章・第3節 反原発ニューウェーブと札幌ほっけの会」(原稿用紙換算42枚分)にあたる部分の〝オリジナル全長版〟(原稿用紙換算約290枚分)である。
 紙版『人民の敵』第3839号に掲載された。
 単行本版ですでに読んだという諸君も、あんなに面白い話だったのに、本当はもっと面白い話だったのかと衝撃を受けるはずだ。

 第1部は原稿用紙換算16枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその7枚分も含む。

     ※          ※          ※

 八六年四月二十六日、チェルノブイリ原発事故が発生する。のちに定められた国際基準で最悪の〝レベル七〟に比定される、史上初の〝過酷事故〟である。
 国家の最高指導者にさえ必要な情報が届かないソ連の官僚主義・秘密主義の弊害を痛感したゴルバチョフは、〝グラズノスチ〟(情報公開)を自身が提唱するペレストロイカ(改革)政策の重要な一環と位置づけ、言論・思想・集会・出版・報道などの制限の大幅な緩和へと舵を切った。それが結局は東欧革命、冷戦終結、ソ連崩壊へと連鎖的につながっていくのだから、〝チェルノブイリ〟は世界情勢を激変させた巨大事故と言ってよい。
 しかし騒動は当初、静かに始まった。何しろソ連が(自国の最高権力者にさえ情報が届かなかったというのだから、まして国外になどなおさら)情報を出さないのだ。
 事故の翌日、まず北欧一帯で大気中に通常の数倍の放射能が検出され、〝ソ連で原発事故か?〟の憶測が広がる。騒がれてからようやく、ソ連は事故が起きたことを認め、開き直って西側に技術的援助を求めてきたため、当初の予想をはるかに超えた最悪の事態、つまりメルトダウンにまで至った可能性が濃厚であることが明らかになる。
 日本での報道第一報はさらに翌々二十九日になってからだが、もともと日本では原発に対する危機感が当時それほど広く共有されておらず、五月三日になって、地球を半周してきた放射能が日本にまで到達し検出されても、〝怖い、怖い〟と人々が外出を控えるなどの動揺が拡がったのはその後ほんの短い期間だけで、別段たいした騒ぎにはならなかった。
 そもそも当時の日本で〝反原発〟の立場を鮮明にしているのは新左翼ノンセクト勢力の一部(および分母がもっと少ない新右翼の一部)のみで、共産党はもちろん、社会党や新左翼諸党派も、例えば現地住民の合意なしに国や電力会社が強引に原発を作る計画を進めることに反対はしても、〝原発そのもの〟に反対しているわけではなかったのである。
 左翼思想はもとより進歩主義であり、民主政治や人権保障制度のみならず科学や技術の進歩についても素朴に肯定する傾きがあって、だから例えば八二、三年に西欧から波及し、東京や大阪で数十万人規模の集会が実現するなど日本でもそれなりの高揚を見せた反核運動においても、〝反核〟とは〝反核兵器〟のことでしかなく、一部ノンセクトが〝反原発〟を言い出して〝団結を乱す〟ことが警戒されるような状況だった。本書にこれから頻繁に登場することになる鹿島拾市(加藤直樹)は、八六年春から夏にかけてピースボートの活動に関わるが、その年のピースボートは〝反核〟を前面に掲げていたにも関わらず、そしてまさにチェルノブイリの事故が起きた直後だというのに、鹿島以外のピースボート・スタッフは誰も〝原発〟にはそれほど関心を持っていなかったと証言している。
 原発、というより原子炉は、もともと原爆の材料であるプルトニウムの製造装置として第二次大戦中にアメリカが開発したものである。ところが戦時中ならいくら税金をつぎ込んで兵器の研究や開発をやってもいいけれども、戦争が終わってしまうとそうはいかない。なにしろそれらは利益を生まない。軍事費というのは、万一に備えるために必要な経費ではあるが、もし何事もなければ結果的にはカネをドブに捨てているのと一緒である。そんな〝無駄遣い〟は、平時には世論が納得しない。
 そこでアメリカが考えついたのが、原子炉を動かせばどうせものすごい熱が出るのだから、それで湯を沸かしてタービンを回し、発電に使うことができるのではないか、ということだ。こうして〝原発〟が生まれた。つまりもともとは原爆製造が主目的で、発電は〝ついで〟なのである。もちろんアメリカはそういう言い方をせず、これは〝原子力の平和利用〟なのだと宣伝した。
 アメリカ以外の国々も次々と核武装を独自に実現することを恐れたアメリカは、いっそのこと最初からアメリカの監視下でさまざまな縛りを設けた上で、〝発電〟に用途を限って西側同盟国に核技術の提供をおこなう方針を固める(ついでに技術提供料も得られて儲かる)。これに乗って日本では正力松太郎や中曽根康弘が原発導入の旗振り役を務めるのだが、おそらく少なくとも中曽根は、本音では将来の日本の核武装を念頭に置いていたはずである。
 言うまでもなく正力や中曽根も〝原子力の平和利用〟をことさらに言いつのり、進歩主義の左翼やリベラル派もこぞって原発を歓迎した。原子力はかつてたしかに〝夢のエネルギー〟で、そんな素晴らしいものに反対することなど、思いもよらなかったのである。
 五七年九月、茨城県東海村で日本最初の原子炉(実験用)が動き始め、六六年七月には同じく東海村で最初の商業用原発が稼働、七〇年に福井県の敦賀原発および美浜原発、七一年に福島第一原発、七四年に福島第一原発・二号機および福井県の高浜原発と、(核武装のためならせいぜい二、三基でいいはずなのに、原発をやれば儲かるメカニズムを自民党政府が強引に作り上げてしまったために電力会社も図に乗って)原発が各地に建てられていく。
 七〇年の大阪万博は〝原子力の平和利用〟のキャンペーン・イベントでもあり、開会式のために完成したばかりの敦賀原発からの送電がおこなわれ、〝万博に原子の灯を〟とそのことが大いにアピールされた。今も残る万博会場のモニュメント、岡本太郎の〝太陽の塔〟も、〝太陽=核エネルギー〟を称揚するものである。

 『ヒロシマ・ノート』の大江(健三郎)でさえ、『核時代の想像力』(一九七〇年)では、原子力の平和利用にもろ手をあげて賛意を表明していた時代である。核兵器の製造と原子力の「平和」利用が峻別できない問題だという、今や常識とも言える視点は、大江さえ持ちえなかったのである。とりわけ、スリーマイル島もチェルノブイリも起こっていなかった時代である。原発が安全であるというプロパガンダは、まだ十二分に大衆的な支持をえることができた。
            (絓秀実『反原発の思想史』筑摩叢書・12年)

 だが同時にようやくちょうどその頃から、〝反原発〟の問題意識も現れ始める。〝六八年〟の学生たちが〝戦後民主主義〟を批判し、新旧の〝前衛党〟が共に護持している〝進歩主義・進歩史観〟にも疑いの目が向けられ、〝科学・技術の進歩〟の一帰結ともいえる水俣病をはじめとする〝公害〟問題への取り組みも進んで、そうした一連の動向にインスパイアされた一部の若い原子力学者たちが、〝自己否定〟的に〝原発〟を問題にし始めるのだ。

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