都知事選2024〝独自の戦い〟報告

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 今回そんなつもりじゃなかったのに、また都知事選で〝独自の戦い〟を繰り広げてしまった。
 徹頭徹尾ろくでもないN国党のせいで、今回の都知事選が〝荒れる〟ことは事前に予測されていた。大量立候補による〝掲示板ジャック〟はかなり早い段階で予告されており、実際それはおこなわれた。N国党の大量のゴミカス以外にも、それらと大差ないゴミカスどもがやはり大量に湧いて出そうな気配も、これまた早くから漂っており、こちらのほうも同様に現実化した。
 都知事選はもはや回復不可能なほどにブッ壊れてしまっている。本命、対抗馬その他、ごく一握りの〝フツーの候補〟たちは、都知事選をFラン私大の一芸入試か何かと勘違いした、しかもFラン私大にも合格しそうにない低能無芸のゴミカス人間どもの海に呑まれてしまって、ほとんど存在感さえ失っている。
 それもこれもすべて、私のせいである。
 ……などと云うと、知ったかぶりの半可通どもが、私以前にもキテレツな泡沫候補はいくらでもいただの何だの得意げにツッコミを入れてくるのだが、東郷健にせよ又吉イエスにせよ、当人はいたって真面目に選挙戦に取り組んでいて、ただキャラクターがぶっ飛んでいるために結果としてヘンだっただけである。意図的に〝面白いこと〟をやろうとしたのは私が最初であり、したがって今日の事態は結局やっぱり私のせいなのである。
 しかし、まだ誰もそんなことをやっていない状況で都知事選を〝利用する〟ことを独自に思いついてしまう人間と、誰かがそういうことをやったのを見てオレもやってみようと後に続いてしまう人間とでは、天地の開きがある。私の後に私の真似をして大量に湧いて出たエピゴーネンたちの誰一人として、面白くも何ともないのは当然すぎるほど当然のことである。
 しかしそもそも私の2007年の都知事選出馬の主要な目的は、ファシズム運動の同志を獲得することであり、ファシズム運動というのは要するに民主主義という愚かな制度を愚弄し嘲笑し、崩壊に追い込むことであるから、私のせいで民主主義の根幹たる選挙制度がズタボロになってしまったのは、私としては非常に喜ばしい、肯定的な帰結なのだ。
 私が2007年に大々的に開始した民主主義打倒の闘いは、17年の歳月を経てついにここまでの成果を上げるに至った、ということで、6月20日、今回の都知事選の告示の日に、案の定ヒドいことになってる都庁前の選挙ポスター掲示板の前で記念写真を撮って、〝勝利宣言〟的な声明を発表した。
 これでも私には他にいろいろとやることがあるし、あとは放っておいても都知事選は、あるいは日本のさまざまの選挙はますます目も当てられない悲惨なことになっていくだろうし、今回それ以上のことはとくに何もやるつもりはなかった。
 状況が変わり始めたのは選挙戦3日目、6月22日のことである。
 この日私は都内某所で、〝佐藤悟志の話をまずはじっくり聴いてみる会〟と題したプチ・イベントを開催していた。佐藤悟志というのは私のかれこれ30数年来の活動仲間の1人で、根は極左なんだが昨今の目の曇ったヘサヨ&パヨク方面からは極右レイシスト扱いを受けて迫害されている苦労人である。北朝鮮人民を苦しめる北朝鮮政府を打倒するために戦争を煽る「水爆上等、撃ってこい豚! 核戦争には慣れている」なる佐藤のプラカードは、ヘサヨ&パヨクの手でよくSNSなどに〝こんなキチガイがいた!〟と晒されている。
 このプチ・イベントで都知事選が話題になった。佐藤氏は、N国党が掲示板を1ヶ所2万4千円だかで売りに出していることを知らなかったらしく、「えっ、じゃあオイラの『水爆上等』のポスターも貼れるかな?」などと云い始めた。そりゃ、まだ買い手がついてない場所の掲示板には、カネさえ出せば貼れるだろう。私はN国党なんぞに一切関わりたくないが、佐藤氏は、北朝鮮の極悪体制を打倒するためには在特会と手を組むことも辞さないという見境のない人である。N国党と手を組むことぐらい、佐藤氏には何ほどのことでもあるまい。私はN国党と関わる気はないが、佐藤氏が関わるぶんには止めはしない。いやむしろ佐藤氏にはN国党と組んででも派手に露出してほしいぐらいだ。それで私も「ぜひやるといいよ」と佐藤氏をけしかけた。
 そこへ横から別のイベント参加者が、「外山さんも掲示板を1つ買って、『私のせいで都知事選がこんなことになってスミマセン』って〝謝罪広告〟を出せばいいんじゃないですか?」と云い始めた。そして正直これには私もちょっと心が動いたのである。面白いからだ。
 とはいえN国党と関わりを持つのはどうしてもイヤである。魅力的な提案だが諦めるしかない、と良識を維持した。

 私はもう、選挙に出る気は一切ない。
 2005年から2008年にかけて、都知事選を含む大小4つの選挙に出たのは、前記のとおりファシズム運動の同志を広く募るためだったが、都知事選で面白いことをやりすぎたために、私の主義主張に真面目な関心を抱いて接触してくる人の10倍ぐらい単なる面白がりのミーハーなゴミカスどもが寄ってきて、選挙戦の現場が混乱させられるばかりという展開にウンザリしたためだ。
 しかし一方で、選挙のたびにウズウズしてはいるのである。都知事選に限らず、大小のあらゆる選挙で、とくにあの選挙ポスター掲示板をそこらじゅうで目にするようになると、一発やらかしたいなあと心がザワつくのだ。
 どいつもこいつもアホばっかりなので、かつての私の都知事選の話となると例の政見放送にばかり注意が向いてしまうようなのだが、私の選挙戦術のメインは政見放送なんぞではなく選挙ポスターなのである。私はそもそも演説の人、つまり話し言葉の人ではなく書き言葉の人、文芸、文章芸の人なのであって、例えば例の政見放送もしょせん書き言葉を話し言葉に変換したものにすぎず、要は脚本がいいということでしかない。したがって、政見放送より選挙ポスターに散りばめられた書き言葉、つまり政治スローガンの数々のほうが私の本領である。どうやら私は政治的アジテーションの天才なのだが、あくまでも書き言葉によるアジテーションの天才なのである。
 日本の選挙ではポスターなんぞ飾りのようなものである。候補者の顔写真がバーンと出ていて、何かどーでもいい、当たり障りのないキャッチフレーズが一言添えてあるだけ、というポスターがほとんどで、そんなもん貼ろうが貼るまいが選挙結果に何の影響もあるまい。そもそも日本の政治では言葉というものがまったく大事にされていない。政治の本質は言葉だから、つまり日本には政治がないということでもある。その結果としての、何の政治的主張もないゴミクズ同然の選挙ポスター、そして候補者の名前をひたすら連呼するばかりの選挙カーなのである。
 しかし私のように本当に政治的な人間は、選挙ポスターをちゃんと活用することができる。ポスターを政治的に意味のある言葉で充填することができるし、そういう選挙ポスターは現実的な威力を発揮する。私が2007年の都知事選で得た約1万5千票というのを、例の政見放送の効果だと考えるのは政治的に盲目な愚か者たちである。たしかに政見放送は入口として機能したかもしれないが、単に政見放送を見てゲラゲラ笑い転げていただけの者は私に投票などしない。私に投票したのは、仮に入口は政見放送だったとしても、さらに検索をかけて私のサイトにたどり着いた者か、街でポスターを見た者、つまり私の書き言葉に接した者たちであるはずである。2007年の都知事選で私の得票率が最も高かったのは千代田区なのだが、実は千代田区は、あの都知事選に際して唯一、すべての掲示板に私のポスターを貼ったエリアなのである。
 N国党はアホなので、今回の、24人分のポスター掲示枠の〝ジャック〟に関して、選挙ポスター掲示板なる無意味な制度への批判などと称している。実際には単なる愉快犯か、あるいは枠を売って儲けるというカネ目当てなのに決まっているが、後づけの屁理屈ではあれ、選挙ポスター掲示板には意味がなく、廃止すべきだなどと喚いているのである。掲示板に現状たしかに意味がないのは、N国党を含め既存の候補者たちのどいつもこいつも揃いも揃ってアホばかりで、貼って意味のあるポスターを作る能力がないからにすぎない。
 そもそも現在の日本に言論の自由など存在せず、ビラまきやビラ貼りで逮捕されるケースはこの約30年というもの(つまり95年のオウム事件以降)、激増している。無断でのビラまきやビラ貼りは昔から道交法違反や軽犯罪法違反ではあったが、昭和の時代にはたいていの場合は大目に見られていて、だから街には政治的な文言が溢れていたし、例えば泡沫候補の大先輩・赤尾敏氏の大日本愛国党のポスターもそこらじゅうに貼られていた。しかし、政治的な主張には多少なりとも公益性・公共性があって、道交法などの杓子定規な適用にはそぐわないという程度の先進国的な常識は、もはやこの日本では通用しない。つまり日本には言論の自由などすでにないのである。
 ただし選挙だけは例外だ。選挙制度は民主主義の根幹であり、我が国は民主主義の国であると云い繕うためには、選挙制度でだけはなるべく制約のない言論の自由が保障されていなければならない、と為政者だって分かっている。だからすでに言論の自由なんか存在しない日本においても、選挙に関係する範囲においてのみ、言論の自由は引き続きそれなりの水準で保障されている。例えば選挙ポスター掲示板は税金で選挙区内全域に設置され、正規に立候補しさえすれば、そこにどんなポスターでも、明白なウソとかが含まれない限りは貼って回ることができる。仮に明白なウソなどが含まれていた場合にも、当局はとりあえず警告を発することができるだけで、候補者はポスターを撤回する義務はなく、検挙されるとすれば選挙戦の終了後である。それぐらい、選挙戦において(のみ)言論は自由なのだ。
 したがって、言論の自由のこの最後の砦を、「意味がない」とか考えなしに喚き散らして廃止させてしまおうというN国党など、ファシズム政権樹立に際しては即刻全員銃殺に処すべき自由の敵である。あるいは、信念があってのことなら意地を貫けばいいのに、ちょっと警告されると〝卑猥な〟選挙ポスターを自主的に撤去してしまった某候補なども同様である(しかしヤツは何だってまた〝京大卒〟なんて恥ずかしい低学歴をデカデカとポスターに記載していたのだろう? 高校中退で刑務所卒という超高学歴の私などにはとうてい理解しがたい。「一夫多妻制」がどうこうという〝主張〟も、いかにも京大みたいなFラン大の出身者が面白いつもりで掲げそうな、少しも面白くもないものだった)。「自由の敵に自由を許すな」という革命的スローガンは我々ファシストだけが掲げることを許される、矛盾に満ちたものだ。
 ともかくポスターである。選挙に正規に立候補しさえすれば、選挙区内のあちこちに我々の革命的な政治言語を散りばめたポスターを合法的に貼りまくって、それらを政治から遠ざけられた人民の目にムリヤリ触れさせることができるのだ。人民の海にまぎれて、我々のまだ見ぬ同志たちが潜んでいる可能性は常にあり、彼らをコツコツと掘り出すために、我々はポスターを恰好の武器となしうるのだ。
 そんなわけで各地の大小無数の選挙のたびに、何の意味もないポスターで埋め尽くされている選挙掲示板を目にするたびに、選挙に出るのはもう二度とコリゴリだが、ポスターだけは貼りまくりたいものだと私は心をザワつかせていたのである。
 しかしN国党に関わるのは一切ゴメンである。それにもし節を曲げてN国党の愚かしい所業に便乗したとしても、カネが膨大にかかる上に、〝あちこちに〟ポスターを貼りまくることにはならない。
 しょうがないので私は、ツイッターで呼びかけることにした。今回の都知事選はあきらめよう。しかし将来的には、N国党のように愉快犯やカネ目当てではなく純粋に信念で、私の政治的信条を熱烈支持している人がどこかの選挙に立候補して、しかしポスターにまでは手が回らないのでポスター掲示枠は私に全面的に譲渡し、自身は政見放送なり街頭演説なりを主軸に選挙戦を展開する、という都合のいい展開はないものか、という半ば愚痴のようなツイートである(https://x.com/toyamakoichi/status/1804737906545967494)。
 するとこれに対して即座に反応が返ってきたのである。しかも今回の都知事選の正規の立候補者の1人からの反応である。「それなら是非、自分の枠を使ってくれ」と(https://x.com/rinjibakufu/status/1804747711956304266)。
 その候補者とは、今回、一部の質の低い面白がりのネット民の間で多少は話題になっていたようでもある〝アキノリ将軍未満〟氏である。アキノリ氏は私の〝弟子〟を称しているが、私の側はとくにアキノリ氏を弟子にとった覚えはない。私が主催している「教養強化合宿」の出身者であれば、仮に私の弟子を称したとしても半ば公認のようなものになるが、アキノリ氏の場合は、もちろん知らぬ仲ではないとはいえ単なる元〝居候〟である。
 かつて(今もあるのかもしれないが)維新政党新風という極右政党があって、京都や東京の本体部分は在特会とも人脈的に重なっていながら、その福岡支部だけは古き良きアジア主義の傾向があって、在特会の福岡支部とは距離を置いていたのはもちろん、新風の各地の支部の中でも特異な存在感を放っていて、東京なども含む全国各地から、新風内の良質な右翼青年たちが移住して結集していた。アキノリ氏もその中の1人で、とりあえず住む場所がないからと、友好的な関係にあった新風福岡支部から我が「九州ファシスト党〈我々団〉」が半年間ほど身柄を引き受けたのであり、いわば新風サンからの預かりもの、〝食客〟というやつだったのである。要は拙宅である〈我々団〉アジトで開催される学習会・読書会・交流会などの場にもアキノリ氏はたまに参加し、それなりに私からの影響も受けたということなのだろう。
 それがもうかれこれ10年以上前のことなのだが、2、3年前あたりからアキノリ氏は私のことを〝師匠〟などと呼ぶようになった。まあ私にも、すでに30年ぐらい前に亡くなった秋好悌一という師匠がおり、一般にはほとんど無名の活動家だった人だが、それも私の側が勝手に師匠扱いしているだけで、秋好にはオマエなんぞ弟子にとった覚えはないと云われるに違いなく、それと似たようなもんだと思って自由に師匠呼ばわりさせている。
 アキノリ氏が知事や首相なんぞではなく征夷大将軍の地位を目標としているのも、もしかしたら私の影響なのかもしれない。私も2003年のファシズム転向以来、一貫して「漢の倭の奴の国王、兼、征夷大将軍」というのを目標に掲げており、前者は中華様の承認、後者は陛下の承認で就くものであって選挙とか一切カンケーないので、私は安心して選挙制度を愚弄しまくっているのである。
 今回あまりにもゴミカス立候補者たち、つまり面白いところなど1つもないのに自分では面白いつもりでいる、単にオフザケで立候補している泡沫候補が多すぎて埋もれてしまった感があるが、本来はアキノリ氏のような人が、古式ゆかしい、実に泡沫候補らしい泡沫候補、〝フツーの泡沫候補〟だったはずである。つまり、本人はいたって大真面目に自らの政治信条を訴えており、多くのゴミカス候補とちょうど等値されるべき多くのゴミカス的ネット民たちからは「面白くない!」と散々な評価だったが、当人はべつに〝面白い〟ことをやっているつもりなどミジンもないので、そんなもん非難するほうが間違っているのである。まあ、私を師匠扱いしている弊害で、当人なりに、向いてないのに私のような〝面白さ〟も同時に追求すべきではないかと至って真面目に考えてしまったために、盛大に自爆してしまったところは無きにしも非ずではあるが……。いかにも〝面白主義〟っぽく受け取られそうなプラスチック製の〝兜〟にしても、あれはアキノリ氏なりの〝将軍未満〟つまり〝まだ就任するに至ってないけど将軍志願者〟であることの表現なんだろうし、なんとアキノリ氏はあれを大真面目に、現代美術系の人に製作依頼してたりする。思想的にもアキノリ氏は、まあ私からすればちょっとトンチンカンな独自解釈である気はするが、一応はファシズムという歴史的にそれなりの正統性を持つ政治思想体系を掲げているのである。
 ともかく私のツイートに、アキノリ氏が即座に反応を返してきて、〝むやみにポスターを貼りまくる〟という形で私が今回も都知事選における〝独自の戦い〟を展開することがいきなり可能になったのが、選挙戦4日目、6月23日の夜のことである。あまりにも唐突すぎる展開だし、なんせ時間がない。
 私は6月24、25日の2日間を準備に充て、26日から徹底的にポスター貼りを展開するという方針を打ち出した。投開票日は7月7日、ポスターを貼って回れるのはその前日たる7月6日までの11日間ということになる。
 まず、すでにかれこれ400人に及ぶ「教養強化合宿」出身の学生・元学生たちに一斉メールを送信した。私はデザインのセンスに自信がない。しかし合宿出身者には多くの美大・芸大の学生が含まれるし、そうでなくともデザインに自信のある者はいるだろう。素材の画像データを送るとファイルのサイズが大きくなるので、まずはデザイン担当の志願者を募った。7、8人が応じてきたので、今度は彼らに向けて、私の顔写真などの画像データと、ポスターに織り込むスローガンなどの文案をあれこれ送った。24日のうちにさっそくそれなりの水準のものを完成させて返送してくる者もいたし、ポスターを貼り始める7月26日の朝までには、同じデザインで文言だけ入れ替えたバージョンも含めて、ゆうに10数種類のデザインが寄せられてきた。

 業者に印刷を発注している時間的余裕はない。とりあえずそれら10数種類のポスターをコンビニで20枚ぐらいずつコピーして、さっそく貼りに出かけた。A3のカラーコピーだから1枚あたり80円、100枚で8千円もかかる。最終的に1000枚はコンビニでコピーしたから、それだけで8万円以上だ。27日以降も新しいデザインは順次上がってきたし、ポスターはたぶん30種類前後になったんではなかろうか。何日か続けているうちに〝主力〟として使いでのいいデザインは7、8種類に絞られてきたので、それらを100枚とか200枚ずつ業者に印刷発注して、計2000枚を6万円ほどで作った。つまり計3000枚以上を作って、たぶん1000枚ぐらいは貼りきれずに余ってしまったから、1500枚とか2000枚とかを実際に貼ったんだろう。私の目標は2000枚、できれば3000枚といったところだったから、そこそこの成績である。なおポスター掲示板の数は、離島とか奥多摩のほうとかも含めて、全約1万4000ヶ所である。
 立候補もしていないくせに連日のポスター貼りで毎日4、5時間しか眠らず、私1人で1000ヶ所以上に貼ったと思うが、他にも主に首都圏在住の「教養強化合宿」出身者たちが奔走した。とくに早稲田アナキズム研究会というグループに結集している数名は、手分けして大量に引き受けてくれた。

 突然の展開だったので、正直云って獲得目標もあまり明確でないままの意味不明な実践となってしまった感は否めない。でかでかと私の写真、私のスローガンをあしらったポスターであり、いわば立候補してないのに立候補者を装うような、一連の〝ニセ選挙運動〟の延長線上での活動という側面もあった。一番最初に貼った何十枚かには、「ポスター掲示権を外山恒一に提供する英断をおこなったアキノリ将軍未満候補に感謝の1票を!」と記載してあり、だからアキノリ氏の得票がどれだけ増えるかで効果をある程度は測定しうると考えていたのだが、すぐにアキノリ氏から「いやあ、実は我が陣営もこれまでの師匠と同様、棄権を呼びかけてるんです」との指摘があり、慌てて「アキノリ将軍未満候補に人民は感謝を!」と表記を改めたので、そういう形での効果の測定は不可能になった。
 SNS上ではそれなりに反応があり、産経新聞がニュース・サイトで記事にし、たぶんそこそこ有名サイトだろう「弁護士ドットコム」でも大きく取り上げられたから、まあ一定の存在感は示せたと思う。世界に恥ずかしいFラン報道機関であるNHKも、私の名前は出さずに、明らかに私のことを指す〝なりすまし立候補者〟を問題視し、まるで私が違法なことをやっているかのように視聴者に誤認させる、たぶん訴えれば私が勝っちゃうぐらいの確信犯的なデマ報道をおこなっていたから、つまりそれぐらい体制秩序の側にいる者に脅威は与えたわけだ。
 本来ならもっと大きな反応が見込めたはずである。アキノリ氏は後述のいわゆる〝クリアファイル〟組であり、アキノリ氏の枠にポスターを貼ったところで、あまり目立たず効果は半減したと思う。
 〝獲得目標〟は曖昧ながら、私の意図にはいくつかのレベルがあって、まず最もココロザシの低い部分では、他の大量のゴミカス泡沫候補どもとの実力の差をこれ見よがしに見せつける、ということがあった。おびただしい血が流れ、多くの人命も失われるようなモノホンの革命情勢期は別として、平時においては、言葉こそが政治の命である。私にあって、私以外の数多のゴミカスどもにないのは、言葉なのだ。ゴミカスどもの小中学生レベルあるいはそれ以下の〝政見放送〟パフォーマンスを、ポスターひとつで、つまり言葉の力だけで軽々と凌駕してみせようということである。
 まあこれは、そうリキまずとも私にとっては造作もないことだ。先に挙げたものや、以下に掲げる数々の実例を見よ。単なる〝面白〟路線もいくつか混じってはいるが、大半は、単に面白いだけでなく政治的・思想的にも革命的であり、心ある不良人民の溜飲を下げさせる水準に達しているはずだ。

 そしてもっと重要な意図としては、このやり方で、はたしてどれぐらいの数をどれぐらいの期間で貼りきれるものか、とりあえず試してみることだった。今回は急遽だったので、ポスターそのものは、文言的にも過去のスローガンなどの使いまわしであり、今この時点で私が本当に広く世間に訴えたい内容とはズレている。この手法で私が本当にやりたいことを追求するのはまたの機会ということにして、とりあえず全力で取り組めばどれぐらいの規模でやれるのか、という実験である。
 これまたアキノリ氏が〝クリアファイル〟組であったために、時間の多くをポスターを貼ることではなくポスターを貼る準備をすることに費やさざるを得なかった(ポスターをクリアファイルに挟み、さらにそれをビニールで包装する余計な手間がかかる)。しかしまあ、それでも1500枚か2000枚を貼り、その余計な作業がなければおそらく3000枚は貼れていただろうという大雑把なデータは得られた。

 さて、どうやら幾人かの泡沫候補たちの共闘による訴訟にまで発展しそう〝クリアファイル〟問題である。
 今回の都知事選には計56人が立候補した。現職の小池百合子が三たび当選することはわざわざ選挙をやるまでもなく最初から分かっていたのだから、うち55人は当選を目的としない、いわゆる泡沫候補である。もしかしたら、陰謀論寄りの反ワクチン派で実際それなりの得票をした内海聡のように、主観的には本気で当選するつもりだった夢見がちなオッチョコチョイも幾人か混じっているかもしれないが、ほとんどは、これで知名度を上げて国政進出の足がかりにしようとか、我が党もちゃんと対抗馬を立てて精一杯やってますアピールのためとかの、いわゆる売名立候補である。改めて考えてみると、くだんのアキノリ将軍未満氏のような〝古き良き〟フツーの泡沫候補も今回は意外に多く、アキノリ氏の場合は両方を兼ねているとはいえ、私が2007年にパンドラの函を開けて解き放った魔物たち、すなわち都知事選の政見放送で突飛なことをやれば有名になれるんじゃないかと安易に考えた、面白くもない主観的面白候補は実は3、4人しかいないような気がする。したがって別に「私のせいですみません」と私が反省してるフリをする必要もなかったのかもしれない。しかし、そもそもN国党(やつばさの党)は私の〝成功例〟を強烈に意識して登場した連中なのだから、やっぱり「私のせいですみません」というのは間違ってはいない。56人中24人はN国党の〝掲示板ジャック〟要員としての立候補であり、それがなければ今回の立候補者は32人、多いっちゃあ多いが、選管が用意した48人分のポスター掲示板の枠内に充分収まる人数でしかない。
 しかし結果的には、枠は足りなくなってしまった。第一にN国党のくだらない策謀のせいではある。しかしN国党の大量立候補はずいぶん前から予告されていたことであり、枠が足りなくなる可能性がかなり高いことも、選管自身によって予測されてもいたのだから、必要な対策を怠った選管がすべての責任を負うべきである
 選管がやるべきだったのは、もちろん掲示枠の増設である。莫大な税金がかかるだろうが、仕方がない。日本が今後とも民主主義国家であることを装うつもりなら、ケチってはいけない出費である。しかし選管は増設という当然の判断をおこなわず、届け出順で49番目以降の8候補に対しては、ポスターをクリアファイルに入れ、ビニールで包装して、掲示板の外枠の部分に画鋲なりガムテープなりで留めるよう命じた。クリアファイルや包装用のビニール、さらに画鋲やガムテープは公費負担でいくらでも支給するから、それで〝選挙の公平性〟は担保されると強弁した。
 おそらく選管は、何らかの対策をとらなきゃ〝選挙の公平性〟を損なう違憲状態を招来してしまうので対策はとるが、実際は何もしなくてもいいはずなのにとタカをくくっていたのではないかと思う。立候補の受け付けは告示日の午前8時からたしか午後5時までで、しかし〝マトモな候補者〟は午前8時以前に来て、整理券を受け取って待機している。それら受け付け開始以前に来た立候補者たちの届け出順番号は、くじ引きで決まる。そして午前8時以降に受け付けの場に現れるのは、選挙の常識も分かってないトンデモ系の泡沫候補であるという判断は、実際そう間違ってはいない。そういう連中はまず組織力なんてゼロに等しいし、業者を雇うカネもなく、貼るとしてもたいてい本人が自分の手でせっせと貼って回るから、貼れる枚数もタカが知れている。そもそもポスターすら用意していない無気力候補である可能性もかなり高く、いずれにしろ、そんな連中のために1万4千ヶ所もの掲示板に増設措置をほどこしたとしても、まったくの無駄ガネになってしまうに違いないことは容易に予測できるのである。
 実際、8人の〝クリアファイル組〟のうち、ほとんどの掲示板で選管の指示どおりの〝枠外ポスター〟を見かけたのは、アキノリ将軍未満枠の私のものを除いては、1人だけだった。他はとりあえず私が自分のポスターを貼って回った範囲では1枚も見かけなかった。
 しかしだからといって選管の不作為が正当化されるわけではない。選挙をやる以上は、全候補者に対して〝選挙の公平性〟を徹底的に保障しなければ、民主主義国家失格なのである。たとえ税金をドブに捨てるようなものだったとしても、民主主義国家を自称する以上、掲示板の増設は絶対にやらなければならなかった。実際、少なくともアキノリ陣営を含む2陣営は、〝クリアファイル組〟としてそれなりの量のポスターを貼ったのである。
 もっとも、〝掲示板の増設〟でなくとも、もっと簡単で有効で税金も使わない対策はあり得た。30秒ぐらい考えれば誰でも思いつくことだ。枠がもらえた48人の候補者たちの中にも、ポスターを貼らない無気力候補者は何人もいるのである。唯一の主要候補である小池百合子や、大政党の支持を得ている泡沫候補の蓮舫などは(そして意外にも、マスゴミが完全に泡沫候補扱いして黙殺していた反ワクチン派の内海聡も)選挙戦初日の夕方までには全1万4千のほとんどの掲示板にポスターを貼り終えている。他の2、3人の、マスゴミが主要候補扱いする泡沫候補たちも、まあ2日目か3日目までにはたいてい貼り終えている。だったら、例えば選挙戦4日目以降には、今回に限り特別措置ということでもいいから、まだ空いてる枠のどこにでも貼ってよいことにすればよかったのだ。もちろん初日からそうしてもいい。
 選挙戦の最終日、7月6日の時点でも、最も多くのポスターが貼られる都庁周辺の掲示板にさえ、ポスターが貼られていない枠がいくつもあった。そしてそれも最初から予想がつく類の話なのである。実は枠数は充分足りていたのであり、それをちゃんと活用する特別措置を講じればよかっただけだ。〝クリアファイルで……〟などという珍奇な特別措置が合法的だと云い張れるのであれば、空いた枠は埋めてよいという特別措置だって法的に正当化しうるだろう。それでも万が一、枠が足りなくなった場合には〝クリアファイル〟でもいいし、実際のところ足りなくなりはしなかった。
 どうやら官僚というのは、想像をはるかに下回るアホであるようだ。

 〝クリアファイル〟措置はまったく、〝選挙の公平性〟に反していた。
 まずそもそも、〝クリアファイル組〟の候補者たちにのみ、ポスターを貼ろうとした場合に余計な時間と労力を強いる。枠が用意されていれば単にそこにポスターを貼ればいいものを、まずポスターをクリアファイルに入れ、ポスターがクリアファイルからずり落ちてしまわないようビニールで包装する作業を経て、やっとポスターを貼りに出かけることができる。これにやたらと時間と労力がかかる。先述のとおり、もしこの工程を省略できれば、私のポスターはさらに千枚以上貼られていただろう。
 そしてさらに、選管が指定する方法でポスターを掲示したとしても、読みにくい、場合によってはそもそも読めないような形状になってる掲示板がやたら多かった。
 選管は〝クリアファイル〟ポスターを、8人の〝クリアファイル組〟それぞれに〝何番の下〟とか〝何番の左〟とかという形で掲出位置を指定した。〝何番の下〟が貼りにくい場合は〝何番の左〟に、それでも貼りにくい場合は〝何番の上〟に、と1つの掲示板につき3ヶ所の掲出位置の候補を挙げていた。
 〝何番の左〟とか〝何番の右〟とか云われても、掲示板の外枠にポスターの右辺なり左辺なりを画鋲などで留めるだけで、他の3辺については一切の固定措置が禁じられているから、すべての場合にクニャッとなるし、ちょっとした風でバタバタして、読めたもんじゃない。私は実際、自分のポスターを貼りにいって、先に貼られていたもう1人の〝クリアファイル組〟候補のポスターが風で飛んでいたりする光景をたくさん見た。

 まして〝何番の上〟などというのは完全に人をナメくさった話で、ポスターの下辺のみ掲示板の外枠に画鋲で留めたところで、クニャッと折れて垂れ下がって、ポスターを掲示してる意味を一切なさないのである(https://x.com/toyamakoichi/status/1812019270030954716)。
 すべて終わってから思いついたのだが、いっそ裏返って垂れ下がることを計算に入れた上で、最初から裏返して上下逆さに画鋲で留め、結果として、垂れ下がるとフツーに近い状態になるような形で〝何番の上〟に貼って回ればよかった(https://x.com/toyamakoichi/status/1812020742328058022)。当然、その〝何番〟の候補者のポスターに覆いかぶさるように垂れ下がることになるから、その陣営から烈火のごとく選管に苦情が寄せられるだろう。指定された〝何番の上〟の〝何番〟の人が誰だったか忘れたが、もしや小池や石丸や蓮舫だったら最高だ。選管は抜本的な対策を講じることを余儀なくされ、いよいよ掲示枠が増設されたり、あるいは〝もうどこに貼ってもいいことにする!〟ということになったかもしれない。なんでリアルタイムでこの革命的順法戦術(こっちは選管の指示に従ってるだけなのだ)を思いつかなかったか、私もまだまだ革命家としての反射神経が充分でないなと反省しきりである。思いついてたら絶対にやってた。

 必然的に、選管に提示された3ヶ所の掲出位置の候補のうち、〝何番の下〟というのを消去法で選ぶことになる。ところが、これがまた全然ダメなのだ。
 それなりに読める場合もある。掲示板が全体的に高めに設置されていて、最下列の下にも充分な空間がある場合だ。しかしそういう掲示板は全体の3分の1にも満たない。そしてそれら比較的マシな掲示板であっても、ちょっと風が吹くと〝クリアファイル〟ポスターは掲示板の背後のほうに向かってクニャッとなって隠れ気味になる。強風だと、背後のほうに押す力が繰り返し加わるうちに画鋲が外れ、ポスターは飛んでいってしまう。
 大半の掲示板ではそもそも最下列の下に充分な空間がなく、ポスターの下のほうは地面に寝かせる恰好になる。ほとんど地面ギリギリに設置されていて、完全に寝かせるしかない場合もかなり多かった。そして完全に寝かせるような場合、これまた強風が吹くと、ポスターは掲示板の下の隙間から完全に背後に押し込まれてしまって、そもそもポスターが貼ってあることすら分からなくなってしまうのだ。

 これはそういう隙間がない場合も似たようなもので、完全に地面に寝かせると、掲示板の近くまで寄らないとポスターが貼ってあることが分からず、ちょっと離れると〝クリアファイル〟ポスターの存在にさえ気づかれにくい。

 まったくどこが〝選挙の公平性は担保されている〟だ!?
 選管は、こういうムチャクチャな不平等を〝クリアファイル組〟に押しつけながら、選挙に関するさまざまのどーでもいい些末なルールについては、〝クリアファイル組〟を含むすべての候補者に〝平等に〟守らせようとする。私のポスター貼りを手伝ってくれた人たちの中には、もちろんそういう細かいルールを把握していない人もいて、風でバタバタしないように、良かれと思って、〝何番の下〟に貼る場合のポスターの下辺とか、〝何番の左〟に貼る場合のポスターの左辺とかを、たまたまちょうどいい位置にあった壁とかポールとか木の枝とかにガムテープなどで留めて補強を施したりした。

 しかしこれは〝違反〟なのである。すぐ対処するよう選管から何度も警告が発せられた。しかしそもそも、選管が〝選挙の公平性〟をないがしろにする違法な措置をとるから、そういうことをやっちゃう人が出てくるのである。こっちにルールを守らせる前に選管がルールを守れよ
 あるいは、掲出位置の間違いについても何度も警告を受けた。今回の都知事選で設置された掲示板には2種類あって、縦4段の掲示板と縦3段の掲示板とがあり、それぞれ、〝何番の下〟とかいう場合の〝何番〟というのが違っていたのである。アキノリ将軍未満氏に割り当てられたのは、縦4段の掲示板なら〝30番の下〟、縦3段の掲示板なら〝28番の下〟だった。同一の市区町村の掲示板では規格が統一されていて、実際どうだったか忘れたが、例えば新宿区内で貼ってるうちは〝30番の下〟とかに貼り続けていればいい。ところが、区の境界をまたぐと、掲示板の規格が違っていて、〝28番の下〟に貼らなきゃ〝違反〟になってしまったりする。これが結構、間違いやすいのだ。
 しかしこれだってそもそも、選管がちゃんと掲示板の正規の板面内に56人ぶん全員の枠を用意していれば間違いようのないことで、それでももし間違ったとしたら全面的にこっちが悪いと納得もできる。しかし現実には、選管が仕事を怠けるせいで間違いが発生しやすくなり、その責任はこっちが一方的に取らさせるのだ。もちろん間違わないように注意してはいたが、選挙戦の終盤には、私はもう〝位置間違い〟の警告に関しては無視することに決めた。
 さらに〝不公平〟を痛感させられたのは、掲示板の枠外に〝クリアファイル〟ポスターを画鋲で留めていると、いかにも違法っぽく見えてしまうことである。じっさい人民はそんなにニュースをちゃんとチェックしてはいない。掲示板に用意されていた枠数以上に立候補者がいて、届出順で49番目以降の8人の候補者は、そういうイレギュラーなポスターの掲示方法を選管から命じられているなどという、どーでもいいっちゃあどーでもいいニュースを、知らない人民は結構いる。ツイッターには、〝外山恒一が違法なことをやってるぞ〟的な書き込みがかなりたくさんあった。ちゃんと枠内に貼られていれば、いくら〝候補者以外のポスター〟であるとはいえ、違法っぽい印象はここまで与えなかったはずだ。もちろん、多少は貼られていたアキノリ将軍未満氏のポスターも、もう1人あちこちに貼りまくられていた〝クリアファイル組〟候補のポスターも、同じように〝違法〟な印象を多くの人に与えたに違いなく、そんなことではとうてい〝公平性が担保されている〟とは云いがたい。もちろん悪いのはニュースを見ない人民ではなく、そういう人民にも参政権があることを分かっていて必要な措置を講じない選管である。
 少数意見にもどれぐらいの支持が集まったかを含めての選挙結果である。そういう意味では、この選管の怠惰・不作為によって選挙結果は大きく変わってしまった可能性が高い。したがって今回の選挙は無効であり、やり直すのが正しい民主主義というものだ。税金は莫大にかかるが、選管が悪いんだから仕方がない。あるいは税金をそうそう無駄にできないというのであれば、今回は当選者なしということにして、そのまま選挙なんかもうやめちまって、都知事のいない平和な街として東京は新スタートを切ればいいのではないか。

 そんなわけで、今回の私の選挙介入は、〝実験〟としてもあまり有益なデータをもたらさなかった。
 とりあえず話題作りにはなっただろうし、政治の場で結局重要なのは言葉の力なのであって、実際に出ていた有象無象による地獄絵図のようなパフォーマンス合戦より、出てもいない私のポスターのほうがはるかに面白かったという感想はツイッターなどでも多少は見られたから、まあ良しとしよう。 何の準備もなくバタバタと展開した今回の試みだが、本当は、前もってもっと準備をした上で、似たようなことをやりたいのである。例えば以下のようなことだ。
 私が提唱する「ファシズム」の理念におおむね賛同している人がいたとする。そして「ファシズム運動」に挺身したい気持ちも大いに持ち合わせているとする。そういう人は、ちょっと大きめの選挙に出ることを考えてほしい。知事選か、政令指定都市の市長選か、あるいは政令指定都市ではない県庁所在地クラスの主要都市であれば市長選でも市議選でもいい(政令指定都市の市議選では市全域にポスターを貼ることができない)。で、ポスターだけは私に任せろ。私がポスターの力でその地その地の〝少数派の諸君〟を掘り起こして、君に託そうじゃないか。選挙後とりあえず君がファシスト党ナントカ支部長だ。
 そういう形でファシズム運動をいよいよ全国的に広げていきたいとかなり本気で思っている。
 こっちも多少はスケジュールが詰まってる時期もあるから個別に応相談だが、原則として、全国どこでも、都道府県知事選や県庁所在地やそれに匹敵する人口規模の都市の市議選・市長選なら私が直々に現地入りしてポスター作戦を展開する。先述のとおり、政令指定都市の場合には市長選に限る。
 私のポスターはたぶん、3分の1ぐらいが今回のような〝面白がらせ〟系のポスター、それで関心を惹いて、〝こっちも読めよ〟と誘導する残り3分の2のポスターは、ファシズム運動の理念と展望を大真面目に論じた長文を、雑誌の誌面のようにレイアウトしたものになるだろう。
 私は2007年の都知事選においても最初から〝同志発掘〟を目的としていたし、ただあまりにも面白くしすぎてミーハーのゴミカスばかり引き寄せてしまう(真面目な関心を持って近づいてくる者が埋もれてしまう)結果を招き、私自身が選挙に出るのはもう意味をなさないと結論している。真面目な関心を持つ者を発掘し組織していくためには、前面に立つのはまだ色がついていない、つまり私以外の者でなくてはならない。選挙そのものは、そしてとくに選挙ポスターは、どうやらプロパガンダの天才であるらしいという自覚もようやく出てきた私の手にかかれば、〝同志発掘〟の有効なツールとして今でも充分に活用しうる


※とりあえず急いで書いてはみたが、重要な論点を1つ書き洩らしていることに気づいたので、後日また書き足します。(2024.7.17)

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