『全共闘』(16)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その16」は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその7枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 2.東大新人会)


 吉野作造博士vs浪人会

 きっかけは、「白虹事件」として知られる大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の筆禍事件である。
 全国百数十ヶ所で軍隊を出動させ、米騒動をただ力づくで抑え込もうとしたばかりか、米騒動に関する報道も禁止した寺内内閣に対し、新聞各紙は「内閣の引責辞職」を求め始め、大阪で「関西記者大会」を開いて気勢を上げた。この集会を報じた大阪朝日新聞の記事の中に、「金甌無欠の誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が」云々、との文言があった。「『白虹日を貫く』とは、中国古典の『戦国策』に出てくることばで、白い虹が太陽にかかることを意味し、兵乱が起きて君主に危害が加えられる(革命が起きる)予兆とされていた」という(立花隆『天皇と東大』、以下しばらく同)。世論に追いつめられつつあった政府がこれに目をつけて反撃に出る。「皇室の尊厳を冒瀆し、朝憲紊乱にあたるとして、執筆記者と編集発行人をすかさず起訴してきた。担当検事は、この場合、新聞紙法の規定によれば、新聞の発行禁止も命令することができると脅しにかかり、それがいやなら主筆以下の編集幹部を引責辞任させ、政府批判の論調を転換することを求めた」のである。
 当初は抵抗しようとした大阪朝日新聞も、社長の村山龍平が右翼の一団に襲撃されると、あっというまに腰砕けとなった。〝襲撃〟といっても大したものではない。七人が村山の乗った人力車を襲い、車夫を殴り倒して村山を引きずり下ろし、全裸にして、路傍にあった燈籠に麻縄で縛りつけた上で、「逆賊村山龍平に天誅を与う」云々と書いた紙を首にぶら下げるか胸に貼りつけるかして逃げ去った、というだけのことである。多少は殴られたようだが、軽傷で、村山はそのまま歩いて社に戻っている。
 しかし「これで朝日新聞は本当にヘナヘナになり、社長は引責辞任。鳥居素川[主筆]、長谷川如是閑[社会部長]は引責退任とな」り、「論説の大山郁夫、丸山幹治はこれに怒って退社し」、「社友として論説を寄せていた河上肇、佐々木惣一なども社を去った」のである。「朝日の社内は、かねてから鳥居素川と対立関係にあった保守派の西村天囚(略)の天下とな」り、「西村は自ら筆を執って、(略)一面全面に社説として(略)、朝日のこれまでの報道が大いに偏っていて、穏健を欠いたことが社長襲撃事件をもたらしたのだとして、誤っていたのは我々のほうだと主張した」という。「朝日新聞が、戦争中、国策積極協力の新聞となってしまい、戦後丸坊主ざんげして戦争中の言論活動を自ら全否定することになる原点はこのあたりにある」と立花隆はキビシク批判するが、まあ、しょせん商業紙などその程度のものであろうし、現在の朝日新聞(に限らずあらゆる商業紙)はポリコレ礼賛、嫌煙推進、あらゆる大小の犯罪への厳罰化要求、〝がんばろう日本〟、〝朝敵コロナ退散!〟と、二一世紀的な反テロ戦争=世界内戦を煽りまくる同調圧力強化の戦時国策報道に余念がない。
 「白虹事件」そのものは実にどうでもいい話ではある。
 本題に戻すと、この村山社長襲撃事件を、吉野作造が『中央公論』十一月号に寄せた一文で批判したわけだ。もちろん加害者側を批判して、「所謂浪人会の朝日新聞攻撃」を〝暴力による言論の圧迫〟だと断じたのである。
 浪人会というのは、福岡の自由民権結社から次第に〝日本最初の右翼団体〟へと変質していった玄洋社のメンバーのうち、主に福岡出身者以外の者が一九〇八年に結成した団体である。実はくだんの襲撃事件を起こしたのは浪人会のメンバーではなく、やはり玄洋社系の右翼団体である黒龍会のメンバーらだったのだが、人脈は完全に重なっていて、吉野側の大きな瑕疵とまでは言えない。もちろん浪人会側が〝デタラメを書くな!〟と憤慨するのもまた当然ではある。
 『中央公論』が発売されて二週間ほど経った十一月十五日、代表の田中弘之や中心メンバーの小川運平、佐々木安五郎など、浪人会の四人が東大に抗議にやってきた。「事前に小川が大学に電話を掛け、午後一時に吉野が来るとの話があったので、一二時四〇分に大学に着いて応接室で待った。訪問を受けた吉野は、一時から三時まで講義だと答えた。四人が四〇分待つと、今度は吉野は三時から五時までも障りがあると言い出した。四人が夕方吉野邸を訪ねたいと述べると、吉野は今晩学生の集まりがあると断った」(今野元「吉野作造対浪人会の立会演説会」、以下しばらく同)という。「実際当日の吉野日記には『夜来客多し』とある」ともいうが、どうにも吉野は逃げ腰の対応に終始しているように見える。
 「結局浪人会は吉野と、一六日正午から午後一時まで、本郷構内の山上御殿で面談するとの約束を取り付け」て、どうにか話し合いが持たれた。「浪人会は白虹事件を自分たちの所業ではないとし、浪人会が威嚇により言論を圧迫しているという吉野説の根拠を問うた。そこで、実は吉野が浪人会の演説会を聞きに行った親友の言を、恰も自分が目撃したかのように論じていたことが発覚し、しかも吉野が親友の聴いたのは自分が聴いたのと同じだと居直ったので、浪人会を一層憤慨させた。吉野がこの親友の名前を言おうかと述べると、佐々木はそれには及ばないと述べたが、吉野の方から今井嘉幸だと告白し」云々と、どうやら(売ってまで)〝親友〟に責任を転嫁しようとし、しかも結局最後は自分の非を認めて謝ったり、そもそもの発端である大阪朝日の記事については読んでいないから賛否は述べられないと言うので、浪人会側が持参していた記事の抜粋をその場で読ませても、最後まで見解を曖昧にし、では改めて書面で見解を示すよう求めると〝多忙〟を理由に断ったり、吉野の言動はつくづく見苦しい。吉野が「『懇談』での解決を求め」たのに対し、「浪人会は改めて吉野に[記事への]態度表明を求め、その上でなら『懇談』でも『立会演説』でも応じるとすると、吉野は『立会演説なんて私はソンナ喧嘩腰ではありません』と述べ、浪人会側が『イゝエ立会演説ほど文明的なものはありません』と返した。吉野は絶句したが、そこに入ってきた宮崎某[今野註.龍介か]が、吉野は緑会[法学部の学生会]で用があると言い出した(対話打切を狙ったと考えられる)。浪人会側は『青年に余り臆病風を吹きこんじゃイケませんヨ』と述べ、午後二時に自動車で去った」という顛末を知ると、一体どちらが〝デモクラシー〟の徒であると言いうるのか怪しくなってくるが、これまたしょせん〝左翼リベラル派〟の人品なんぞ、いつの時代もこの程度のものであろう。
 この会見の模様が新聞で報じられ、問題がさらにこじれた。

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