第13回・外山恒一賞 受賞者発表

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外山恒一賞

主に反体制的な右翼運動、左翼運動、前衛芸術運動などの諸分野から、「いま最も注目すべき活動家(もしくはグループ)」を、外山恒一が独断で選んで一方的に授与する。辞退はできない。

外山恒一のファシストとしての再臨(2004年5月5日・ファシズムへの獄中転向を経て福岡刑務所を満期出所)を記念して、2011年より毎年5月5日に受賞者の発表をおこなう。

授賞は、外山恒一が受賞者の活動に「全面的に賛同している」ことを意味するものではなく、あくまで「いま最も注目している」ことを意味するものである。多くの場合、授賞は好意的評価の表明であるが、時にはイヤガラセである場合もありうる。

外山恒一が創設した革命党「我々団」の公然党員は授与の対象とならない。
賞状・賞金・賞品はない。「外山恒一と我々団」や「我々少数派」などの外山恒一関連サイトで授賞が発表されるだけで、受賞者への通知もないが、受賞を知った受賞者は「外山賞活動家」であることを周囲に吹聴してまわって存分に自慢することが許される。外山賞受賞は活動家として最高の栄誉であり、いくら自慢しても自慢しすぎるということはない。

 ※歴代の受賞者などについてはコチラ

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 上記のとおり本来は「毎年5月5日に受賞者の発表をおこなう」ことにしているのだが、今年は体調不良で発表を延期していた。4月28日〜5月7日の日程で開催した第28回「教養強化合宿」で風邪が蔓延し、私も罹患してしまったのである。もちろんもうとっくに治っているのだが、合宿が終わったら終わったでしばらく残務整理的な作業に忙しく、どうせならそれらを全部済ませてから発表(つまりこの文章の執筆)にとりかかろうと思い、結果的に1週間遅れとなった次第である。
 また、しょっちゅう風邪をひいている印象があり、「大丈夫なのか」「もう死ぬんじゃないか」「〝日本の黒い星〟外山総統が御隠れになったらいよいよ革命運動の未来は真っ暗ではないか」と心配する向きもあろうが、安心するがよい。3月後半の第27回合宿、そして今回の第28回合宿とたまたま連続して(コロナではない字義どおり〝ただの風邪〟の)パンデミックが発生し、参加学生の9割方と同様に私も律儀にいちいち罹患しているだけで、症状も他の罹患者とほとんど変わりがない。私はあと100年ぐらい生きる気満々である。

 さて、引き続きパッとしない革命勢力の後退期ではあるが(安倍ちゃんの受難に端を発する空騒ぎなど革命とは何のカンケーもないことは、もはや云うまでもあるまい)、私が2014年夏から初期は毎年2回、今では毎年6回もやっている「教養強化合宿」出身の現役学生・元学生たちの総数がとうに300名を超え、各方面での活躍もチラホラと視界に入ってくるようになってきたのは喜ばしい。
 参考までに、以下ではおそらく触れない〝活躍〟例を挙げておこう。
 2016年春の第4回合宿に参加した宗教学者・栗田英彦氏の活躍。
 https://twitter.com/toyamakoichi/status/1647851220412043264

 昨年春の第21回合宿に参加した〝左藤青〟こと森脇透青君の活躍。
 https://twitter.com/toyamakoichi/status/1647851437442109445

 今年3月前半の第26回合宿に参加した石橋直樹君の活躍。

 合宿出身者ではないのだが、合宿最終日の打ち上げ的交流会とか、福岡でたまに開催している小規模なイベントとかで、昨年から〝界隈〟に頻繁に出没するようになった若き(94年生まれの)ヒップホップ批評家・韻踏み夫氏が昨年秋に上梓した単著『日本語ラップ名盤100』もここで紹介しておこう。内容は表題どおりで、本編の外山賞ノミネートに入れてもいいぐらいの良いガイドブックである。

 ついでに私自身のこの1年間の活躍についても触れておくと、何といっても昨年末に上梓した笠井潔氏と絓秀実氏の対談本『対論1968』の刊行であろう。〝68年論〟の双璧でありながら論敵同士でもある両氏の対談など、とっくにおこなわれているべきはずなのだが、日本のFラン論壇ぶりの証左として一度もおこなわれていなかったので、私が発案し、版元に提起し、司会をし、テープ起こしをし、専門用語が頻出するので適宜解説を挟む編集をし、刊行にこぎつけたものである。これによって革命運動の将来を担う若い諸君にも初めて〝68年〟理解が容易になったわけで、またしても歴史の前進に多大な貢献をしてしまった。外山賞を授ける側ではなく受ける側であったなら……と大いに悔やまれる。
 あとこれは〝私がやったこと〟ではないのだが、昨年9月10日から11月13日にかけて、熊本県水俣市近郊の津奈木町というところにある公立美術館(つなぎ美術館)で、「光と陰のアンソロジー この世界にただ独り立つ」と題した企画展が開催され、私も3人の出展者の1人という扱いとなっていた。内容的には、一昨年に熊本市現代美術館で開催されたグループ展「段々降りてゆく」で予定されていたが実現できなかった展示内容を再現するというもので(その展示中止騒動の詳細については昨年の外山賞記事中のノミネート9、さらには騒動の検証をおこなった記録集PDFを参照)、とりあえず私のコーナーには「表現の不自由展(笑)」というタイトルがつけられた。展示されていたのは私の過去〝作品〟だが、実質的にはそもそもこの展示を企画した熊本市現代美術館の学芸員・佐々木玄太郎氏の作品と云ったほうがよかろう。それにしても、並行する高速道路の完成によって今ではほとんど車も通らないとはいえ、国道沿いにどーんと〝革命家 外山恒一〟の文言を含む垂れ幕が出ている光景には笑いがこみ上げた。

 〝恒例〟でもないが、今回も、月イチぐらいでは会って交流している第2回外山賞(2012年)受賞の演劇人・亀井純太郎氏の〝この1年間の金言・名言〟を紹介して、外山賞を受賞するほどの芸術家というのがいかに常にハイセンスなのかも示しておこう。
 「何がSDGsだ。要するに資本主義を〝持続〟させましょうって話じゃねえか!」
 「MeTooなんて私的な〝お気持ち〟の問題すなわちブルジョア個人主義じゃないか。我々旧左翼の世界では国際共産主義に寄与するため女は黙ってハウスキーパーを……」(問題発言。なお亀井氏は、SDGsだのMeTooだのコザカシイことばかり云うようになった新左翼に幻滅して、最近は〝旧左翼〟への転向を表明している)
 「国際共産主義とは世界中の民のかまどに煙を立たせることだ」(仁徳天皇の逸話に感銘を受けたらしい)
 「いっそもうこのまま延々とマスクを着用し続けるべきだ、そうすれば10年後20年後の各国の〝コロナ禍を知らない子供たち〟を『日本に行けば2020年を体験できる!』と誘致する〝日本コロナ観光地化計画〟で経済復興できる」(その時こそ東浩紀センセイに存分に御活躍いただこう!)
 「ちょっと膀胱を非ナチ化してきます」(〝ションベンしてきます〟の意。ロシアびいきの亀井氏は、〝非ナチ化〟のスローガンがことのほかお気に入りのようである)
 「ぜひ日本でも特別軍事作戦を!」(ロシア大使館に請願デモをかけよう!)

 マクラはこれくらいにして、さて今年のノミネートである。
 いやその前にまず〝選外〟から。外山賞選考委員会(なんてものはないが)に送られてきた自薦・他薦の候補の中から、2つ紹介する。

選外1 動画「安倍元首相国葬 全国の国民による献花 一斉に喪に服す」

 昨年9月27日の安倍ちゃんの〝国葬〟に合わせて、名古屋の例の面々が公開したフェイク・ドキュメンタリー的な動画である。〝例の面々〟というのは、2020年に第10回外山賞を受賞した「なごやトリエンナーレ」事件を引き起こした〝自称室伏良平容疑者〟らを中心とする一味だ。翌2021年の第11回外山賞にノミネートした「黒川杯」や「名古屋アメリカ領事館事件」など、自称室伏氏らのしでかすことは大体面白いのだが、いかんせん今回のコレは、私には何が面白いのかピンとこない。
 これに関係した推薦者(自称室伏氏ではない)によれば、「100年後に本当に歴史資料として発掘され、当時(つまり百年前の今)の政治体制が〝安倍独裁政権〟であった根拠資料となることを目指した」とのことである。せっかく作ったのに、ほとんど観られていないようであるのは悔しい、という思いもあるようだ。〝監督〟は自称室伏氏、(元)現代美術作家の大野左紀子氏が安倍ちゃんの銅像を造形し、大野氏や(元)演劇人の海上宏美氏や(両氏とも斯界ではヒトカドの人物である)や新進宗教学者で合宿出身者の栗田英彦氏らが〝役者〟として出演し、自称室伏氏の取材を続けている某テレビ局のクルーが撮影や編集に協力するという、〝無駄に豪華〟な作品だというのは、その通りだろう。

選外2 『劇場版 ヤジと民主主義』

 前回の第12回外山賞にノミネートした「ヤジポイ裁判の一審勝訴」にも関連するドキュメンタリー映画である。
 19年7月の参院選で、札幌市内での安倍ちゃん(もちろん当時は首相)の演説にヤジを飛ばした男女2名が警官に排除された事件と、警察のそのような対応を「不当」とした裁判およびその支援運動などを扱っている。もともと2020年2月に北海道放送がTVドキュメンタリーとして制作し、ギャラクシー賞の報道活動部門優秀賞を獲得するなど高く評価されたものを、追加取材なども含めて劇場公開用に再編集したということらしい。
 前回も言及したとおり、当事者2名のいずれとも私は面識があり、女性のほうに至っては2018年3月の第8回合宿の参加者だったりして、〝外山合宿はヒョーロンカばかり育てている〟という旧〝新左翼〟方面からたまに聞こえてくる嫉妬的批判をどーんと覆してくれる〝実践〟方面の出世頭なのだが、ほぼ同じネタで2年連続ノミネートもいかがなものかと思って〝選外〟とする。なお当事者2名いずれかの〝自薦〟ではなく、親しくしているらしい別の合宿出身者による推薦である。

ノミネート1 寺内進

 前回に引き続き、まずは世間で非難轟々、鬼畜扱いの革命的犯罪者を顕彰しておこう。
 今年1月16日、福岡市の博多駅近くの路上で38歳の女性が元交際相手にメッタ刺しにされ殺害された。殺害した側が31歳の寺内氏である。報道では、「女性から別れを告げられたあとも職場に押しかけるなどの行為を繰り返し、事件のおよそ1か月半前、警察からストーカー規制法に基づく『禁止命令』を受けていました」(NHK福岡放送局・3月14日)などとされ、事件直後の報道では〝逆恨み〟との表現もよく見かけた。
 だがちょっと待て。とっても良識的な私のバランス感覚では、警察を介入させたことを恨むのは〝逆恨み〟ではなく〝正当な恨み〟である。
 むろん程度の問題というものはある。切り出された別れ話に納得できなくて「考え直してくれ」と食い下がった結果、何ヶ月か揉めてしまうぐらいのことは〝よくある話〟だと思うが、何年もつきまとい続けたら、そりゃあ警察に相談されても仕方がないと私だって思う。〝よくある話〟と〝警察に相談されても仕方がない〟レベルとの境界はケース・バイ・ケースだが、別れ話がコジれ始めたらいきなり警察に駆け込む、なんてことであれば駆け込むほうが百パー悪い。
 で、実際どうなのか?
 西日本放送の報道(2月16日)によれば、交際が始まったのは2022年4月、別れ話を切り出されたのが同10月、警察が寺内氏にストーカー規制法に基づく〝つきまといの禁止命令〟を出したのが同11月26日とのことである。つまり殺された女性は、別れ話を切り出してから最大でも2ヶ月足らず、ことによると1ヶ月足らずで警察を介入させたことになる。警察も相談を受けてすぐ動くわけではあるまいから、別れ話を切り出す→警察に駆け込むの時間間隔はさらに短かったはずである。
 私は断固として寺内氏の肩を持つ。

ノミネート2 〝中指立てたピーポくん〟騒動

 上記と違って心おきなく絶賛しやすい革命的〝犯罪〟である。
 昨年12月12日、警視庁のマスコットキャラ〝ピーポくん〟のパロディ・ステッカーを作って販売していた愛知県の夫婦が〝著作権法違反〟的な容疑(商標法違反)で摘発された。
 偽「ピーポくん」グッズ販売疑い 愛知の夫婦書類送検、警視庁(YAHOOニュース・2022年12月12日)
 純度100パーセントの不当弾圧、警察の横暴ここに極まれり的な暴挙中の暴挙である。パロディがいちいち〝著作権法違反〟になっては言論・表現の暗黒社会だし、まして今回パロディの対象になったのは警察というオオヤケ中のオオヤケがあちこちに蔓延させてきた悪質マスコットキャラなのだ。警察を批判したり、せめて茶化したりする場合に、とりあえず使いたくなるのが正しい人民の感性というものだろう。全共闘世代の数少ない〝真の非転向者〟の1人である武田崇元氏も激怒しているとおりである。
 どんなに無能な弁護士がついたって無罪確実の案件だから心配は無用だろうが、愛知県の謎の革命夫妻には、これに懲りずにますます精進していただきたい(「懲役上等」らしいし、この点に関しても心配あるまい)。

ノミネート3 『情況』〝キャンセル・カルチャー〟特集

 刊行は昨年4月中旬なので外山賞の授与対象である〝この1年間の諸々〟からはギリギリ外れてしまうが、SNSなどで話題沸騰となっていたのは昨年の今頃であるから構うまい。
 ゴリゴリの左翼雑誌としては画期的な特集である。
 〝キャンセル・カルチャー〟すなわち諸々のマイノリティの皆さんに対して〝配慮が足りない〟言動を指摘された人々が、次々と役職を降ろされたり、番組を降ろされたり、連載を止められたり、さらにはその言動の舞台となった番組や雑誌などの媒体そのものが打ち切りや廃刊となったり……といった風潮、要はポリコレの蔓延のことを云う。むろんこれを主導・牽引・推進してきたのは〝70年7月7日の華青闘告発以来〟の新左翼の諸君なのだが、その新左翼勢力の今やメイン媒体となっている『情況』誌が、これにおおむね批判的な特集を組んだのだから、ちょっとした〝事件〟であろう。
 ポリコレの蔓延に帰結してしまった〝68年革命〟に関する両巨頭的な論客である笠井潔氏と絓秀実氏の他、刊行時に知ってたら外山賞の有力候補の1つになったであろうポリコレ批判の名著『欲望会議』(2018年)の共著者の1人である柴田英里氏、ネット論客として著名な山内雁琳氏など、執筆陣も豪華だ。いやいや他にもうちょっとマシなのもいただろうと強く思わざるを得ないとはいえ、ポリコレ推進派=〝キャンセル・カルチャー〟全面肯定派のヘサヨ論客も2人ほど、紙資源の浪費以外の何物でもないゴミ論考を寄せている。
 もちろん、私が寄稿した論考が一番面白いんだけどね(増長)。

ノミネート4 志位和夫

 久々に共産党がやってくれた
 委員長公選制を広く公に提起した幹部党員を、しかも2人、除名処分としたのである。
 まず今年2月6日、55年生まれで、共産党系全学連の委員長を務めたこともあり、共産党系の出版社として有名な「かもがわ出版」の幹部社員でもある松竹伸幸が除名処分となった。1月に著書『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』を文春新書から出したことが問題視された。党規約にある「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」などの規定に違反した、というわけだ。
 2人目の被処分者は鈴木元という人物。松竹に1ヶ月あまり遅れて、3月15日に除名処分となった。こちらも、かもがわ出版から1月に刊行した著書『志位和夫委員長への手紙 日本共産党の新生を願って』の中で、志位委員長を批判し、党首辞任を勧告したことなどが「わが党の綱領路線に対する全面的な攻撃」「派閥・分派行為」などと見なされたのだ。鈴木には『もう一つの大学紛争』(かもがわ出版・2016年)という(たぶん)愚著があり、全共闘時代に立命館大の学生党員グループのリーダーとして、立命館全共闘との抗争を指揮したという武勇伝を回顧したものである(らしい)。当時の立命館は共産党の全国最大の〝拠点校〟で、学生自治会はすべて共産党系、教授会も共産党系、学長すら共産党シンパというスターリニスト天国の暗黒大学として知られていた。大学卒業後は共産党京都府委員を務めるなどれっきとした大幹部の道を歩み、90年代後半から00年代いっぱいは立命館の〝総長理事長室室長〟を務め(つまり今なお立命館はスターリニズム大学なのかもしれない)、かもがわ出版の取締役でもあるというのだから、かなりの大物党員である。
 もちろん2023年にやっと除名してもらえるような筋金入りのスターリニストどもに私は何ら同情しない。本来なら武力を行使してでも1日も早く撲滅一掃すべきスターリニスト集団の内紛は、とりあえずニヤニヤ眺めているぐらいでちょうど良い。
 それにしても志位委員長、いい仕事をしてくれる。新左翼がほぼ壊滅したのをいいことに、共産党は近年、新左翼が取り組んできたイシューを次々にかっさらって多少はマトモなことを云うようになってきたから(3・11まで頑固な原発推進政党だった過去を隠蔽して〝脱原発〟とまで云ってやがる)、中途半端に意識高い系の若者たちが共産党支持に傾いてしまうという嘆かわしい状況が続いていた。
 共産党が〝何を云ってるか〟なんてどーでもいいのである。〝云ってる内容〟ではなくスターリン主義的な〝組織体質〟こそが共産党の本質なのだ。〝脱原発〟とか云ってることではなく、トップ(志位委員長)が原発肯定から原発批判に転じたら末端党員まで一夜にしてそれに従って意見を変えてしまうというメカニズムこそが共産党の共産党たる所以なのである。
 ちなみに志位和夫という人は、85年に伊里一智という東大の共産党リーダーが当時の〝スターリン〟宮本顕治に反旗を翻し、その党首辞任を要求する動きが東京都委員会レベルにまで拡大してきた時に、宮本の意を受けて、学生指導の担当者として弾圧を指揮し、伊里除名にまで持ち込んだことで宮本にますます評価され、〝将来の党首〟の座につけられたという経緯がある。一見ニコヤカで温厚そうな人に見えるかもしれないが、そもそも〝そういう人〟なのだ。
 共産党がどういう組織なのか、すっかり政治オンチになってしまった昨今の若者たちにも改めて分っかりやすく示してくれた今回の志位委員長の御聖断は、革命運動の前進にとって大いにプラスである。10年おき、せめて20年おきぐらいに、共産党にはこういうことをやってもらわないと困る。
 若者よ、共産党を見放そう!

ノミネート5 白紙革命

 こちらは中華帝国様の共産党指導部様がらみの案件である。日本のポンコツ共産党と違って、あちらは人類の指導部たる偉大な革命党である。1920年代初頭の結成当初は、一応は先進国の共産党ということでコミンテルンからもかなり期待されていた日本共産党は、たかだか何十人かが殺された程度のことで10年ぐらいで壊滅してしまったが、もともとコミンテルンからもそれほど期待されていたわけではなかろうあちらの共産党は、何万人殺されようが不屈の闘志でぐんぐん成長し、たとえ数百万数千万が戦死しようが処刑されようが虐殺されようが降参さえしなければそのうち敵のほうで根を上げるはずだという人命軽視もはなはだしい恐ろしい戦術で、ついには日本軍も国民党軍も追い払って革命政権を樹立してしまったというトンデモない集団である。怖いのであまり批判とかしないで、「もうちょっと寛容な方向に舵を切って〝愛される共産党〟を目指すのもいいんじゃないでしょうか」と時々やんわり進言しつつ、尻尾を振りまくっていたほうがよかろう。
 そもそも日本人は、アジア解放だ一億玉砕だとさんざんイキっておきながら、中華様や朝鮮の兄貴を巻き込み、いざ本土決戦という段になると沖縄だけ犠牲にして米帝に屈服したポンコツFラン民族である(その後のベトナムの叔父貴の壮挙を見れば、いくら戦死しようが降参さえしなければそのうち米帝を追い払えたはずだ)。国際情勢についてああだこうだと、日本人は二度とでかい口を叩くべきではないし、叩いたところで一切信用されまい。世界史的には、悪いのは鬼畜米英とプラス・フランスとかの連中であってロシアや中華様ではないのだし、日本人はアジアの片隅で小さくなって、もともと東アジアの盟主である中華様がにっくき米帝と戦っていらっしゃるのを日の丸でも振って応援していればいいのだ。
 で、〝白紙革命〟である。ゼロコロナ政策への批判として拡大したようだが、それを突破口としての民主化運動の画策であろうことは、普段ほとんどニュースを見ない私にも分かる。日本国内でも支持が拡がったのは、〝ゼロコロナ政策への批判〟に共感してのことではなく(だったらマスク外せよ)、民主化運動の新しい展開だと理解してのことであるに決まっているわけだ。
 私の基本的立場は先に述べたように〝中華様のなさることにあれこれ文句云わない〟であるからして、民主化云々についても中華様が御自身でお決めになればよいことで、あれこれ云う気はない(そもそもファシストである私は、民主化が良いことであるなどとはミジンも思わない)。理想を云えば、「言論の自由は認める。政府を批判してもよい。でも参政権は認めないよ」ということにすればいいのに、とは思っている。ともあれ朝鮮の兄貴やベトナムの叔父貴やその他モンゴルだのフィリピンだのインドだの、あるいは台湾だの、中華様を取り巻く一蓮托生の仲間の皆さんと「もうちょっと寛容になってくれればもっと安心して中華様の肩を持てるんですけどね。ですよねー」などと世間話に花を咲かせてみる以上のことは恐ろしくてできないし、繰り返すようにそもそも日本人には国際情勢だの他国の内政問題だのに口を出す資格は1945年以来ない。
 とはいえ〝白紙革命〟という運動手法には感心した。さすが中華様は人民の水準もポンコツFランの日本人とは大違いである。アイデアのネタ元は、共産圏の有名なアネクドート(体制批判の小噺)なのだそうだ。いわく、「モスクワの広場で白紙を掲げていた男が逮捕された。/〝何も書いてませんよ〟/〝何を書きたいのか知らないとでも思っているのか?〟」。
 日本はもはや言論の自由がないことにかけては世界有数の国である。言論の自由はないのに、言論の自由を行使しようとする者がほとんどいないから、言論の自由がないことにほとんどの人は気づかず、まれに行使して弾圧される極少数派の存在は単に無視されている。レベルの高い中華様の人民を見習って、猿真似でいいから日本でも同じことをやればいいのに、民主化運動への連帯のつもりで白紙を掲げたって弾圧されるわけではないし(中国は民主化すべきだという多数意見への同調の表明は〝言論の自由〟の行使でも何でもないのであって、弾圧されるわけがない)、例えば中華様と同様、コロナ自粛に反対する文脈の運動で白紙を掲げたら弾圧されるだろうが、その弾圧は日本人多数派に支持されるので〝問題〟化しないだろうし、まったくこのポンコツFラン民族は処置なしである。

ノミネート6 古谷経衡のれいわ新選組代表選出馬

 私が議会政治にそもそも関心がないということは措いても、しょせん今ふうの〝ゆるふわ左翼〟政党であることから脱却できずにいる「れいわ新選組」を私は支持しない(ま、共産党すら同調した〝ロシア非難決議〟や〝ガーシー処分決議〟に反対したり棄権したり、相対的には唯一マトモだなあぐらいには思う)。そしてこれも当初から公言しているとおり、山本太郎個人は断固支持するし、総じてろくでもない〝3・11以後の諸運動〟が生み出したほとんど唯一の良質かつ優秀な活動家だと思っている。
 これまた最初っから云ってることだが、山本太郎自身は左翼ではなくむしろ〝反体制右翼〟的な志向の持ち主でもあるはずで(そもそも陛下を素朴に信頼していなければ、〝直訴〟なんてやろうと思うはずがない)、だったらいっそ〝ゆるふわ左翼〟路線は放棄して、右翼政党になっちゃえばいいのだ。反米を前面に押し出し、リツミンや日共や社民のポリコレ路線や国民民主や維新のネオリベ路線を徹底攻撃し、格差拡大を憂慮して福祉国家路線なりベーシックインカムなりの推進を掲げ、引き続き原発絶対反対を訴え続ければ、今は仕方なくリツミンや日共や社民を支持している層を全部かっさらって、さらにはネオリベはイヤなんだがリツミンや日共や社民はもっとイヤだから仕方なく国民民主や維新を支持している層まで一部かっさらって、いきなり主要政党、あわよくば政権を窺えるシャドーキャビネット政党にだってなれるかもしれない。それぐらい、日本のポンコツFラン議会政治では、もはや世界じゅうでブイブイ云わしている〝反体制右派〟のポジションがガラ空きなのだ。というか、今の「れいわ新選組」の方向性で、あとは〝反ポリコレ〟をプラスすればいいだけのことじゃん、そこが難しいんだろうけどさ。
 そんなわけだから〝反体制右派〟の論客である古谷経衡氏の、昨年12月の「れいわ新選組」代表選への出馬には、ちょっと心躍るものがあった。どうせ当選することはあるまいから、〝ちょっと〟でしかなかったが。

ノミネート7 中川文人の〝量子共産主義〟

 自覚のないドブネズミ系活動家の中川文人氏が、またいかにもドブネズミ系活動家らしい〝面白〟革命理論を思いついたらしく、それを吹聴して回っている。
 今年2月4日に東京で催された、中川氏と、こちらも80年代以来のドブネズミ界の巨匠の1人である佐藤悟志氏、そして私の3人が登壇する小規模なイベントの、終了後のファミレスでの打ち上げの席で初めて、中川氏の口から直接その〝理論〟を聞かされたのだが、聞けば聞くほどよく考えられ、それらしく巧いことデッチ上げられているのだ。
 曰く、20世紀の世界を戦争と革命の坩堝に叩き込んだのはマルクス・レーニン主義という体系的イデオロギーに基づく革命運動である。この、〝科学的社会主義〟を称した〝20世紀の共産主義〟理論体系は、その前世紀である19世紀の科学の理論的発展を踏まえて組み立てられていた。ならば、〝21世紀の共産主義〟=〝21世紀の科学的社会主義〟の理論がこれからの世界を席巻する革命運動の基礎理論たらんとするならば、それは、前世紀すなわち20世紀の科学の理論的発展を踏まえて組み立てられなければならないはずである。20世紀の科学の理論的発展の基礎にあるのが相対性理論と量子力学であることに異論はあるまい。
 なるほど! 聞いていた我々(5人ぐらい)の目からウロコが次々に落ちてファミレスの床はウロコだらけだ。
 中川氏はその新理論を〝量子共産主義〟と命名していた。
 原因が結果に先行するという因果律が破綻してしまう現象と革命運動の現実の照応(例えばテロリストは実際にはテロを決行した後で動機は何だったか考えて確定させるものだ)、光速より速く情報が伝わってしまう〝量子もつれ〟に根拠づけられた世界同時革命、「人民は波であり、粒子である」という新テーゼ……〝波動革命〟がどうこう云い出したあたりから一気に胡散臭さ全開となりつつも、我々(5人ぐらい)は概ねその理論体系の壮大さに打ちのめされ、感動に震えた。内容に説得されたのではない。こんなくだらないハナシをただ思いつくだけでなく、細部まで詰めてとことん面白くしてしまう〝ドブネズミ系〟活動家の情熱(の無駄遣い)に圧倒されたのだ。
 もっとも細部は忘れてしまった。せっかくだから近いうちに、若いモンをいっぱい集めてもう1回語り倒してもらってもいい気がしてきた。
 なお佐藤氏のほうも、これまた氏が80年代以来ずっと提唱している〝軍国主義フェミニズム〟とやらに新たな理論的進展があったと熱く語っていた。SNSで晒されて一部に笑いを巻き起こしていたマンガ『魁!!男塾』のワンシーンにいたく感銘を受けたらしい。〝男塾〟の塾長・江田島平八が直立不動で整列した塾生たちに述べる訓示である。曰く、「これだけは肝に銘じておけ。男なら幸せになろうなどと思うな。幸せになるのは女と子供だけでいい。男なら死ねい!」。これぞ〝軍国主義フェミニズム〟の真髄、なのだそうだ。なるほど確かに〝差別する側〟が〝自己否定〟を重ねて〝自己滅却〟にまで至り、〝差別される側〟への無償の奉仕に挺身しようという〝ポリコレ修行僧〟路線の究極のテーゼであるような気がするし、佐藤氏はそもそも〝極端なポリコレ派〟なのである。
 ことほどさように、〝ドブネズミ系〟の巨匠たちは常に何か面白いことを云っている。

ノミネート9 藤原賢吾『人民の敵 外山恒一の半生』

 今年1月、私の伝記が出た
 苦節30有余年、自伝はかれこれ(広義のそれまで含めると)7、8冊書いてきたが、他人に書いてもらったのは今回が初めてである。とりあえず同世代には、自伝を書いた人はそれこそ掃いて捨てるほどいるが、芸能人とかスポーツ選手とかを除いては、第三者の書いた〝伝記〟が出ているのは他に橋下徹ぐらいのものだろう。しかもあっちは〝告発ルポ〟の類、こちとら〝偉人伝〟である。
 著者は福岡の大手ローカル紙『西日本新聞』の記者・藤原賢吾氏。云うまでもなかろうが、一昨年(2021年)2月から3月にかけて、同紙文化面で紙面の上半分をほぼ丸々使ってしかも全7回の大型連載「自称革命家 外山恒一の闘い」をやってしまった人である。その連載を、「単行本化しませんか?」という打診が私の『政治活動入門』をちょうどその連載をやっている頃に刊行した百万年書房からあって、約2年がかりでそれが実現したわけだ。
 私なんぞに関わってしまった報いとして藤原氏は現在、大分県の山の中にある文化都市に御栄転されているが(日本のFラン・メディアに存在する〝言論の自由〟など、しょせんその程度のものだ)、将来ますます高く評価されて、やがては〝日本のエドガー・スノー〟の名をほしいままにするであろう。
 本来は外山賞間違いなしの大偉業なのだが、自分の伝記を書いてくれた人に賞を授与するなどというのは慎しみ深い私には躊躇われるので、とりあえずノミネートだけして顕彰しておくにとどめよう。

ノミネート10 教養強化合宿〝死の23期〟

 これはますます〝私のやったこと〟なので、授賞はさらに躊躇われる。しかし一連の反〝コロナ自粛〟、反〝生権力〟の諸闘争の中でも1、2を争う革命的な実践であり、つくづく私は偉い。そりゃあ伝記の1つも出ようというものだ。
 2020年3月、同8月、2021年3月……とコロナ状況下でも私は「教養強化合宿」を淡々と〝従前どおり〟のペースと規模、スタイルで開催し続け、やがて遅ればせながら「ん? 大学やってないじゃん。だったら学生の長期休みに合わせて開催する必要もないじゃん」と気づいた2021年8月以降は、開催ペースだけ〝従前どおり〟の慣例を破って、もうメッタヤタラと、カサにかかって開催しまくるようになり、もはやそれが新たな〝慣例〟となって、今では年6回開催という異常事態、〝外山合宿出身者〟の数もむやみに増えて、高田馬場界隈や京都百万遍界隈で石を投げればかなりの高確率で出身者に当たりそうな勢いである。
 しかし2022年8月前半の第23回合宿において、ついに恐れていた(わけでもない)事態が起きた。10数名が奴隷船状態で共同生活している合宿所で、参加学生の1人がコロナらしき症状を発したのである。続けてさらに1人、また1人と感染しては高熱を発して寝込んでしまう。何人目かの感染者が病院に行き、「コロナです」と死の宣告を受けた。しかしすでにコロナだからといって片っ端から入院させられる〝大いなる幽閉の時代〟はとうに過ぎ去っていて、限りなく風邪薬のようなものを処方され、「自宅で安静にしていてください」と云い渡されて帰ってきてしまうのである。んなこと云われたって部屋数は限られており、感染者だけをどこか1つの部屋に隔離しておくこともできない。すでに感染して高熱を発しており、息も絶え絶えに「それでも貴重なレクチャーを受けたい……」と云う殊勝な若者の命を賭けた懇願をすげなく拒絶するような人非人では私はないから、感染はますます拡大する一方である。ピーク時には、なぜかなかなか感染しない私が淡々と革命運動史をレクチャーしている同じ部屋のあちらこちらで若者が2、3人行き倒れているという地獄絵図となった。
 とはいえ、若者はコロナごときでそうそう死にはしない。日本の10代・20代の死者は結局、数えるほどだったはずである。中高年や老人だって騒ぐほど死んじゃいないのだ。倒れた順に、発症から2、3日するとケロッと復活してフツーにレクチャーを受け始める。コロナ恐るるに足らず(とくに若者は!)、がハシなくも実証されてしまった。最後まで感染しなかった学生も2、3人いて、全員喫煙者だった。コロナ騒動の初期に囁かれ、喫煙者を増長させるからだろう、すぐに〝火消し〟されてしまった「喫煙者はコロナに罹りにくい」説まで実証された(ウイルスが肺に入ってもニコチンの毒にやられてしまう、つまりコロナよりタバコのほうがよっぽど体に悪い、という話なのでべつに喫煙者を利するような説ではないのだが……)。こんな〝人体実験〟がアッケラカンとおこなわれたのも、我が合宿においてだけだろう。
 合宿所が地獄の様相、野戦病院の様相を呈するにしたがって、参加学生たちの間には同じ戦場を生き抜く〝戦友〟めいた絆の意識が広がっていった。恒例の最終日交流会、毎回何人も押しかけるOB・OGの参加は1人もなかったが、代わりにズームで参加したいという申し出があった。これは私は即座に断った。コロナごときに怯えて〝直接会う〟ことを〝自粛〟するというのは、〝直接会う〟ことによって得られるすべてを断念するということなのだ。そういう〝断念〟を、〝自粛要請〟に唯々諾々と従った者たちは為してきたのである。〝オンライン〟では代替できないものがある、ということを私はこのかんずっと訴え続けてきたわけだ。ズーム参加!? ナンセンス! という次第である。
 私自身を外山賞にノミネートすることもいかがなものかと思うので、このノミネートは〝死の23期〟合宿をレポートした参加学生・山下佳也君を対象にしていることにしよう。なお山下君は、昨年11月29日に社会学者・宮台真司氏が都立大構内で襲撃を受けた際、その直前まで宮台氏と一緒にいたらしく、そのためテレビなどでもインタビューを受け、「この事件を口実に大学の管理体制がますます強化されることには反対する」と強調した実に立派な学生である。もちろん世界に隠したい日本のFラン報道のこと、その部分は全面的にカットされたそうだ。
 ちなみに私も、第23回合宿終了と同時に発症した。病は気からと云うが、合宿中は気が張っていたのだろう。しかし「病は気から」という〝ただの風邪〟には云えそうなことが通用してしまうあたり、コロナも結局やはり〝ただの風邪〟に限りなく近い〝ちょっとタチの悪い風邪〟にすぎなかったと見た。私も2、3日寝込んだだけですぐに完全回復したが、しかし実は第23回からわずか1週間をおいて8月後半、次の第24回合宿が始まったのである。参加予定者全員に状況を伝えたにもかかわらず、参加辞退者は1人も出なかった。さすがにちょっとどうかしてるのではないかと私でさえ思った。第24回合宿は〝あらかじめ死刑を云い渡された24期〟などと称されたわけだが、しかしフタを開けてみると結局1人も発症しなかったのである。コロナ、まったく恐るるに足らずであった。

ノミネート11 東大モラル研究会

 合宿出身者の各方面での活躍としては、とにかくあちこちの大学に怪しげなサークルが乱立している。多くは〝読書会〟〝学習会〟であって、「教養強化合宿」でつい〝勉強する喜び〟に目覚めてしまう人が多くて、そんなことになってしまっているのである。学生の主体的な学習意欲を引き出せない全国のFラン大の文系Fラン教員どもには感謝の現金でもたっぷり送ってきてほしいぐらいだが、そもそも「教養強化合宿」は、たしかに最低限のオベンキョウは必要だがオベンキョウしてるヒマがあったら実践に踏み出しなさいということで、オベンキョウに要する時間をとことんまで圧縮して提供するための〝詰め込みキョーイク〟をおこなっている次第であるから、こういう展開は本末転倒、まったく嘆かわしい限りなのである。
 そんな中、「東大モラル研究会」は、まあ〝読書会〟や〝勉強会〟を盛んに開催しつつも、コロナ自粛に抗議して学内でのマスク非着用を実行しつつ、学食などに設置してあるアクリル板などの類をああしてみたりこうしてみたり、〝実践〟への志向も濃厚に漂わせている。いいぞいいぞ、ということでとりあえず顕彰しておく。

ノミネート12 〝はじめてのどくしょ〟レポート

 とにかく下記のブログ記事を一読してほしい。
 「本を読んだことがない32歳が初めて『走れメロス』を読む日」
 くどくど説明はしない。タイトルどおりの内容である。『走れメロス』を1行1行読み進んでいく様子がレポートされているので、当然『走れメロス』それ自体よりも記事は長い。
 何度も爆笑し、かつ、ものすごく感動した。すごい!

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第十三回外山恒一賞

人生葬送派


理由

 外山賞創設の目的の1つに、〝先見の明を誇りたい〟というのがある(ショボい!)。だから今回は本当にヒヤヒヤしていた。私が「人生葬送派」というバンドの存在を知ったのは今年1月のことで、それからそう間をおかない時点で、次の外山賞はこれにしようと心に決めていた。しかし授賞発表まで4ヶ月ぐらいある。その間にとっくにブレイクして、5月にはもう「何を今さら……」みたいなことになってしまっているのではないかと不安に駆られていたのである。それでは〝先見の明〟を誇れなくなってしまうではないか。もちろんどかーんとブレイクしてほしいのだが、4ヶ月ぐらい待ってほしいと願った。
 願いが届いたか、そもそも水永康貴(第4回受賞者)を今なお発見できない日本のFラン音楽業界などもっとナメきってて構わないということか、すでに2月中旬にはノルウェーのJ-popランキングで(音源発表開始から間もない、完全なる無名のアマチュア・バンドだというのに)111位になったと聞いて焦りもしたが、とりあえず日本国内では今のところとくに騒がれている様子はない(……と思ったら、授賞発表を遅らせてたこの数日中に、ポニーキャニオン関連のオーディション・サイトか何かで音源の配信が始まったようだ。焦るぜ)。

 本人もどこかでカミングアウト(?)していたし、言及してもかまわないと思うのだが、バンド「人生葬送派」のリーダーであるらしいウエヤマハナさんは、エッヘン、我が「教養強化合宿」の出身者である。2022年3月前半の第20回合宿に参加した、東京音大の学生だ。作曲専攻で、そもそもは難解な〝現代音楽〟っぽいことをやっていると云ってたように記憶している。
 実は第20回合宿にはもう1人、〝現代音楽〟専攻の九州大学芸術工学部の学生が参加していて、「人生葬送派」のこともそのK君から教えてもらった。ここ1年半くらい、福岡もしくは九州在住の〝外山界隈〟の主だった面々を招集して、オススメの音楽を紹介し合いながら飲む、という地下活動をこっそり展開しており、そこで今年1月、K君に「合宿同期のウエヤマハナさんが最近、バンドを結成したらしいですよ」との触れ込みで、「人生葬送派」の6曲入りファースト・アルバム『人生葬送派』のタイトル曲「人生葬送派」を紹介されたのだ。曲の半ばでもう思っていた。これは……売れかねない!
 曲はもちろんいい。ウエヤマハナさんはリーダーで、作詞作曲とキーボードの演奏を担当しており、ボーカルはたぶん別の人なのだろうが、ともかくは音大で現代音楽なんぞ勉強している学生がメンバーを集めて結成したバンドなのであって、歌も演奏も上手いのは当たり前っちゃあ当たり前だ。しかもとくにくだんの「人生葬送派」というタイトル曲は、歌詞も断然いいのである(なおノルウェーのチャートに入ったという「Noises Coming」は歌詞なしインストの〝プログレ〟楽曲である)。
 私の熱心な読者にはわざわざ云うまでもなかろうが、バンド名にもアルバム名にも曲名にも歌詞にも使われている〝人生葬送派〟というフレーズは、80年代に反マルクスの革命論を提唱しはじめた笠井潔氏らに守旧的なマルクス主義者たちが貼りつけたレッテル〝マルクス葬送派〟に由来している。そしてウエヤマハナさんは、「教養強化合宿」に参加して〝マルクス葬送派〟というコトバに出会ったのである。しかも単に借り物のフレーズになってしまっているなどということはなく、ちゃんと消化して、〝我ら人生葬送派〟〝我ら芸術葬送派〟〝我ら恋愛葬送派〟とパラフレーズしていくそのそれぞれのブロックが思想的に堅実である。〝芸術葬送派〟のくだりなど、もしかしたら合宿中にオススメしたかもしれない我が「ファシスト党〈我々団〉」の〝芸術部門〟を称していた芸術否定誌『メインストリーム』の主張と響き合っているようでさえある。いやあ、優秀な教え子を持って鼻高々であるよ。
 ちなみに、昨年の大晦日に発表したらしいファースト・アルバムに引き続いて、今年3月に発表された7曲入りセカンド・アルバム『人生再生派』には、「バイバイ・エンジェル」という曲も収録されている。これまた云うまでもなく『バイバイ、エンジェル』は笠井潔氏の単行本デビュー作(探偵小説)である。

 さて、無事に授賞発表も済んだことだし、あとは存分に快進撃を始めてください。


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