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ずんだもんと学ぶ擦文時代-最新研究で明らかになった古代アイヌ文化期の実態

この記事は、YouTubeで公開する予定の同名の動画を書き起こしたものになります。本文は約24000文字程度あります。また、この記事の内容はあくまでトイヌプリの個人的な見解です。

※動画はまだ制作中ですが、それとは別に短い動画を公開しました。こちら

① 擦文時代とは何か?

ずんだもん:ずんだもんなのだ。今回は古代の北海道の歴史について解説するのだ。

北海道(いらすとや)

四国めたん:飛鳥時代から平安時代に並行する北海道には、擦文時代って呼ばれている時代区分があるわよね。

ずんだもん:擦文土器を使っていた時代と文化が擦文時代・擦文文化と定義されているのだ(横山 1990)。擦文土器の成り立ちについては後で解説するけど、土器で時代を区別するのはちょっと古い考え方なのだ。昔は縄文時代と弥生時代も土器で区別していたけど、今は水田稲作が弥生時代の指標になっているのだ(藤尾 2015)。中世アイヌ文化期に先行する擦文時代もアイヌ民族が北海道で暮らしていたことに変わりはないから(北原,谷本 2020)、この動画では擦文時代を古代アイヌ文化期として理解できるように解説するのだ。

(北海道埋蔵文化財センター 2017)
擦文時代中~後期の擦文土器(厚幌1遺跡)

四国めたん:擦文時代が古代アイヌ文化期なら、それ以前の北海道の人々とアイヌ民族にも関係があるのかしら?

ずんだもん:アイヌ民族の英雄叙事詩ユカㇻには、主人公の「内陸の人」を意味するヤウンクㇽと「沖の人」を意味するレプンクㇽの闘いが語られていて、ヤウンクㇽは擦文人でレプンクㇽはオホーツク人がモデルになっているかもしれないのだ(知里 1955)。この仮説については、擦文人とオホーツク人が対立していた証拠はないっていう反論もあるけど(中川 2020)、ヤウンクㇽとレプンクㇽの対立は実際の出来事を反映していて、この対立は続縄文人とオホーツク人の関係に当てはめられるのだ。そうであれば、擦文時代に先行する続縄文時代はアイヌ民族とオホーツク人の対立の時代で、次の擦文時代はアイヌ民族とオホーツク人の融和の時代として捉えることができるのだ。つまり、アイヌ民族の時代は擦文時代から始まった訳じゃなくて、それ以前の続縄文時代や縄文時代もアイヌ民族とは無関係じゃないことを知ってほしいのだ。

四国めたん:縄文人はアイヌ民族の祖先であると共に日本人の祖先の一部でもあるわよね。

ずんだもん:そうなのだ。本題に入る前に、予備知識として日本人とアイヌ民族の成り立ちを説明しておくのだ。縄文時代の日本列島には北から南まで縄文人が暮らしていたと考えられるのだ。弥生時代になると、西遼河流域の農耕民に由来する人々が朝鮮半島から渡来してきて、縄文人と混血することで日本人が形成されていくのだ(篠田 2022)。西遼河人は黄河流域とアムール川流域の祖先系統の混血集団だとされていて(M. Robbeets et al. 2021)、日本人に占める西遼河人の祖先系統のゲノムは約9割で(C. C. Wang et al. 2021)、韓国人の場合も約9割になるとされているのだ(D. N. Lee et al. 2022)。

(M. Robbeets et al. 2021)
黄河流域とアムール川流域の人々が混血して日本人の主な祖先集団が形成される

四国めたん:日本人と韓国人の祖先の約9割は共通しているのね。

ずんだもん:そうなのだ。しかも、西遼河人のゲノムは朝鮮半島と日本列島以外には拡散していないのだ。北海道にはもう少し後の時代にオホーツク人が渡来してきて、縄文人の子孫とも混血していくのだ。現代アイヌの人々に占める縄文人の祖先系統のゲノムは約7割になるとされていて、日本列島の人間集団の中では群を抜いて大きな割合になるのだ(篠田 2022)。擦文時代はオホーツク人が古代のアイヌ民族に同化吸収されていく時代でもあるけど、まずは擦文時代に先行する続縄文時代後半期の解説をしながら、擦文土器が成立する過程を見ていくのだ。

(篠田 2022・佐藤 2022)を基に作成
現代アイヌ人の形成過程については佐藤前掲論文のモデル(a)に基づく

四国めたん:さあ行きましょう。

② 続縄文時代後半期の北日本

ずんだもん:続縄文時代後半期は弥生時代後期と並行する時期から7世紀頃まで続くのだ。この頃の続縄文人は竪穴住居で暮らす定住生活を放棄して、テントみたいな簡易的な住居を使いながら北海道と東北地方にかけての地域で遊動生活をしていたのだ。続縄文人が遊動生活を始めた理由は、本州との交易で鉄器の交換財になっていた鮭を効率的に捕るためだったとも考えられていて、アイヌ文化に繋がる資源利用の基盤が続縄文時代後半期には確立していたのだ(高瀬 2017)。でも、遊動生活になったのは古墳寒冷期って呼ばれている気候変動が原因だったとも言われていて(八木 2015)、考古学者の間で意見が分かれているのだ。

四国めたん:5世紀頃には北海道の宗谷海峡周辺にオホーツク文化が南下してくるわよね。

(熊木 2021c)
オホーツク文化前期の広がり

ずんだもん:そうなのだ。海洋適応文化だったオホーツク文化は、基本的に遺跡が海岸線から100m以内に立地していて、海岸線から離れた遺跡でも1000m以内に立地しているのだ(大西 2009)。オホーツク文化の竪穴住居は、六角形で中央に石囲い炉があるっていう印象が強いかもしれないけど、六角形の竪穴住居はオホーツク文化中期以降の特徴で(天野 2008)、石囲い炉も道東地方に進出したオホーツク文化の固有の特徴なのだ。オホーツク文化前期のオホーツク人は、道北地方では要害地形に集落を形成しながら、北海道の離島にも進出するのだ(天野,小野 2011)。ユカㇻのレプンクㇽは「海岸の人」や「山のように出ている崖の上の人」や「小さな島の人」とも呼ばれているから(榎森 2007)、この頃のオホーツク文化の特徴とも一致するのだ。

(熊木 2021b)
海岸部や要害地形に立地するオホーツク文化の遺跡

四国めたん:じゃあ続縄文人とオホーツク人は対立していたのかしら?

ずんだもん:5世紀頃の続縄文人は後北C2・D式土器を作っていたけど、オホーツク人が道北地方に定住するようになると、オホーツク土器の影響で後北C2・D式土器の口縁部には突溜文っていう円形刺突文が施文されるようになって、次の北大Ⅰ式土器の段階に普及していくのだ。逆に、もともとオホーツク土器は棒状施文具で円形刺突文を施文していたけど、続縄文土器の影響で管状施文具も使うようになるのだ(天野,小野 2011・小野 2013)。つまり、この頃の続縄文人とオホーツク人は土器を通じて相互に交流していたことになるのだ。

(北海道埋蔵文化財センター 2014)
終末期の後北C2・D式土器と出現期の北大Ⅰ式土器

四国めたん:それなら続縄文人とオホーツク人は仲良く暮らしていたことになるわよね。

ずんだもん:そうとも言えないのだ。石狩市八幡町遺跡ワッカオイ地点からは、後北C2・D式土器の段階の合葬墓が多く確認されていて、死亡年齢が20代から30代に集中していることから、続縄文人とオホーツク人の間で戦闘が行われていた可能性が指摘されているのだ。これより少し後の時代になるけど、7世紀の阿倍比羅夫遠征の時に渡島の蝦夷は、粛慎っていう人々が自分たちを殺そうとしているって言っているのだ。渡島の蝦夷は北海道の続縄文人で粛慎はオホーツク人だと考えられていて、続縄文人とオホーツク人は交流する一方で対立することもあったのだ(天野 2008・瀬川 2011)。

四国めたん:続縄文時代は決して平和な時代じゃなかったのね。

ずんだもん:そうなのだ。その一方で、6世紀までには東北北部にも土師器文化が進出するのだ(三浦 2007b)。北大式土器は、北大Ⅱ式土器の段階からは土師器の影響が強くなって、頸部と胴部を発達させて境目には土師器みたいな段も施されるようになるのだ。北大Ⅲ式土器になると口縁部が最大径になって、口縁部と頸部にだけ文様が施文されるようになるのだ(榊田 2016)。ちなみに、北大式土器は縄文を施文した最後の土器になるのだ(藤本 1994)。

(北海道大学埋蔵文化財調査室 2011)
口縁部や胴部に縄文を施文した北大式土器(左2点)

四国めたん:擦文土器は土師器の影響を受けているって言われているけど、北大式土器がこのまま擦文土器になっていくのかしら?

ずんだもん:そんなに単純な話でもないのだ。東北北部型土師器は北大Ⅲ式土器の器面調整で多用されるヘラミガキを採用していて(三浦 2007a)、朝顔状に外反した口縁部が最大径で、底部がすぼまっている器形も北大Ⅲ式土器の特徴なのだ(宇部 2007・八木 2011・榊田 2016)。つまり、6世紀後半以降の東北北部型土師器は、北大式土器と東北南部型土師器が融合した土師器になるのだ(阿部 1999・小保内 2022)。

(仙台市教育委員会 1979・国立歴史民俗博物館 2008・札幌市教育委員会 2019)を基に作成
中央の東北北部型土師器は頸部に土師器と同様の境目はあるが(青印部)、左の北大式土器(恐らく北大Ⅱ式)と同様の器形とヘラミガキ調整になっている。右は土師器の一般的なハケメ調整跡。

四国めたん:土師器と北大式土器が相互に影響し合って、東北北部と北海道ではそれぞれ東北北部型土師器と擦文土器が成立していったのね。

ずんだもん:そうなのだ。この頃の東北北部の人々は律令国家から蝦夷って呼ばれていたけど、蝦夷文化は続縄文文化と土師器文化が融合した文化だとされていて、それを反映しているのが東北北部型土師器なのだ(藤沢 2015)。他にも、東北北部では7世紀以降も黒曜石製石器が遺跡から出土していて、黒曜石は北海道だと縄文時代からよく使われる石材だったけど、東北地方ではあまり使われていなかったから、黒曜石製石器の存在も続縄文文化の影響だと考えられるのだ(八木 2007・2015・2017a)。

(八木 2015)
黒曜石製搔器・削器

四国めたん:7世紀後半にはいよいよ擦文時代が始まるわよね。

ずんだもん:擦文土器の研究が進んだことで、前半期の擦文土器は東北北部型土師器と北大Ⅲ式土器の系統が混在していて、10世紀には1つの系統に統合されて後半期の擦文土器になっていくことが分かったのだ(榊田 2016)。10世紀は擦文時代にとっても画期だったけど、まずは10世紀以前の擦文時代を見ていくのだ。

(三浦 1994・天野,小野 2011・小野 2013・榊田 2016・熊木 2018・小保内 2022)を基に作成
擦文土器と周辺の土器型式の系統関係(左の実年代と厳密な並行関係がある訳ではない)

四国めたん:ようやく本題に入れるのね。

③ 擦文時代の始まり

ずんだもん:7世紀の阿倍比羅夫遠征は、東北北部の蝦夷を経由しない北海道との交易ルートを確保する目的があったと考えられていて、交易ルートを奪われた蝦夷が別の交易ルートを開発する目的で北海道に移住したことが、続縄文文化を擦文文化に変化させる要因になったのだ(瀬川 2011・2013)。

四国めたん:擦文時代には遊動生活が終わるのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。石狩低地帯にはカマド付き竪穴住居の集落が出現するけど、カマドの特徴から8世紀前半までは東北北部の太平洋側との交流があって、それ以降は日本海側との交流があったことが分かっているのだ。8世紀後半の東北北部は、太平洋側では律令国家が蝦夷と38年戦争をしていて、日本海側では秋田城を拠点にした律令国家と北海道の交易が行われるようになるのだ(宇部 2007)。この頃は、秋田城から胆沢城にかけての地域の北側が、まだ蝦夷社会のままだったのだ(鐘江 2016)。

(関根 2016)
8世紀後半~9世紀の北方交易概念図

四国めたん:擦文時代には東北北部と同じカマド付きの竪穴住居が普及するわよね。

ずんだもん:それはちょっと違うのだ。擦文文化にはカマドと囲炉裏が共存する竪穴住居やカマドが存在しない竪穴住居もあって(八木 2011)、囲炉裏は続縄文文化の影響だと考えられるのだ(前田 1987)。集落の立地も東北北部とは違っていて、多くの遺跡は河川流域や河口部に立地しているのだ。ユカㇻのヤウンクㇽも河川流域にかかわる名前になっているから(榎森 2007)、擦文文化の特徴とも一致するのだ。

(瀬川 2004)
囲炉裏とカマドが併設された擦文時代の竪穴住居

四国めたん:私もヤウンクㇽとレプンクㇽが擦文人とオホーツク人に思えてきたわ。

ずんだもん:8世紀になると、石狩低地帯には東北北部の末期古墳とよく似た北海道式古墳って呼ばれている墳丘墓も出現するけど、主体部が浅くて、この時期の東北北部には見られない独自の形態になるらしいのだ。墳丘墓がある地域には従来の土坑墓も併存しているのだ(八木 2011)。

(北海道開拓記念館 1997)
復元された北海道式古墳(江別市後藤遺跡)

四国めたん:そもそも末期古墳って何なのかしら?

ずんだもん:末期古墳は、前方後円墳に代表される東北南部以南の地域で展開していた、いわゆる古墳文化が終わる段階になってから東北北部で流行する墳丘墓のことなのだ。末期古墳は古墳文化の小規模円墳の影響を受けてはいるけど、埋め込み式の木棺っていう独自の構造や墳丘墓の色々な要素に顕著な格差が存在しない均質性の高さなどの点で、古墳文化との大きな違いがあるのだ。古墳文化だと古墳同士には顕著な格差があって、古墳の変化が地域を越えて連動するなどの点で、政治的な動向や近畿地方を中心とした階層的関係が表されていると考えられるのだ。そういう点で、末期古墳には中央と地方のような政治的関係は見られなくて、当時の倭国との政治的関係も見られないとされるのだ(藤沢 2015)。

(藤沢 2015)
末期古墳の木棺構造

四国めたん:末期古墳は当時の東北北部の独自の墓制って言えるのね。

ずんだもん:そうなのだ。東北北部型土師器や黒曜石製石器が副葬されている末期古墳もあるから(高橋,高橋 1994)、これは蝦夷社会の特徴をよく表していると言えるのだ。末期古墳には古墳文化に見られない独自の要素があったように、北海道式古墳にも末期古墳に見られない独自の要素があるのだ。末期古墳の遺体には伸展葬っていう埋葬姿勢が採用されているけど、北海道式古墳の遺体には側臥屈葬っていう埋葬姿勢を採用した例もあって、これは続縄文文化の影響なのだ。従来の土坑墓でも側臥屈葬が8世紀末まで継続するけど、9世紀以降には伸展葬が流行して、この擦文文化の遺体の埋葬姿勢が中世以降のアイヌ文化の墓制でも継続するのだ(鈴木 2004・2007・2016)。

(厚真町教育委員会 2009a)
擦文時代中~後期の伸展葬の土坑墓(上幌内モイ遺跡)
(田村 2004)
近世アイヌ文化期の伸展葬の土坑墓(末広遺跡)

四国めたん:その頃のオホーツク文化はどうなっていたのかしら?

ずんだもん:9世紀にはオホーツク文化がオホーツク海沿岸部を沿って千島列島にまで分布を広げていくのだ(榎森 2001)。ユカㇻのレプンクㇽが「東の人」とも呼ばれているのは(榎森 2007)、オホーツク人が道東地方でも暮らしていたからなのだ。オホーツク文化が道東地方に進出した時期は、中世温暖期や平安海進って呼ばれている時期と重なっていて、オホーツク人には冬に回遊魚や海獣を獲得する生計戦略があったのだ。10世紀以降に再び寒冷化が進むと、オホーツク文化の遺跡が増加していた道東地方には海氷が接岸するようになって、回遊魚の獲得が困難になったのだ。その結果、海洋志向のオホーツク文化は鮭漁に特化した内陸志向のトビニタイ文化に変化していくのだ(大西 2009)。

(熊木 2021a)
オホーツク文化の遺跡と海氷(流氷)の分布

四国めたん:オホーツク文化が擦文文化の影響で変化してトビニタイ文化になったと思っていたけど、気候変動が変化の要因だったのね。

ずんだもん:そうなのだ。

④ 擦文人の全道拡散

ずんだもん:オホーツク文化が気候変動でトビニタイ文化に変化した後に、擦文文化の影響を受けるようになるのだ(大西 2009)。9世紀までの擦文人は石狩低地帯を中心に暮らしていたけど、次第に道北東部にも進出するようになるのだ(澤井 2007a)。道北地方は比較的短期間でオホーツク文化が擦文文化に置き換わるけど、道東地方はオホーツク人と擦文人がしばらく共存していたことが分かっているのだ(小野 2013)。

(瀬川 2013)
北海道北東部と樺太南西部に進出する擦文人

四国めたん:続縄文時代にはオホーツク人に勢いがあったけど、擦文時代には擦文人に勢いがあるわよね。

ずんだもん:これには東北北部の蝦夷社会の動向も関係していて、9世紀後半から10世紀前半の津軽地方では人口が急増するようになって、遺跡数がピーク時は9世紀前半と比べて10倍近くになるのだ。外部からの移住だと考えられていて、蝦夷社会は郡制未設置にもかかわらず製塩・製鉄・須恵器生産が行われるようになって(三浦 2007b)、五所川原産の須恵器が蝦夷社会と北海道に流通するようになるのだ(鐘江 2016)。この頃の北海道の遺跡から鉄器の出土量が急増するのは、東北北部の蝦夷社会が北海道に供給する目的で鉄器生産を行っていて、それと呼応するように青森県域から米代川流域にかけての地域では10世紀以降の遺跡から擦文土器の出土量が急増するのだ(齋藤 2009・2011)。9世紀までの擦文人は律令国家との交易でしか鉄器を入手できなかったけど、蝦夷社会が独自に製鉄を始めたことで擦文人はより多くの鉄器が入手できるようになって、それが擦文人を北海道全域に拡散させる原動力になったのだ(大西 2009)。

(関根 2016)
10~11世紀の北方交易概念図

四国めたん:そもそもどうして擦文人は道北東部に進出したのかしら?

ずんだもん:本州との交易に必要なオオワシの生息地が樺太や道東地方にあるから、その捕獲とクロテン毛皮や海獣皮の仲介交易が目的だったと考えられるのだ。もともと擦文人は魚介類や陸海獣の捕獲と農耕を生業にしていたけど、オホーツク海沿岸の擦文文化の遺跡は食料生産に適した場所に立地していなくて、沿岸の遺跡でも漁労や狩猟活動を示す遺物がほとんど認められないのだ。このことから、擦文人は食料生産よりも交易活動を優先していたと考えられるのだ(榎森 2001・鈴木 2007・澤井 2007a・2008・瀬川 2013)。

四国めたん:擦文人はオホーツク人と本州の交易を仲介していたのね。

ずんだもん:そうなのだ。オホーツク文化の遺跡からは擦文文化の遺物がよく発見されているけど、擦文文化の遺跡からはオホーツク文化の遺物が発見されることはほとんどないのだ。でも、オホーツク人が鉄器や土器を擦文人から無償で入手していたとは考えにくいから、毛皮が交易の交換財になっていたと考えられるのだ(天野 2008)。

四国めたん:それだけでオホーツク文化が擦文文化に同化吸収されるとは思えないけど、他に何かあったのかしら?

ずんだもん:8世紀後半には大陸側でオホーツク人と交易していた靺鞨人が渤海国に取り込まれたことで、オホーツク人と大陸側の関係は希薄になるのだ(瀬川 2016)。更に擦文人が道北地方に進出したことで、オホーツク人の鉄器入手ルートも途絶えてしまうのだ。オホーツク文化ではほとんどの鉄器を樺太経由で入手していたけど、トビニタイ文化では大陸産の遺物が鉄器を含めて全く認められなくなるのだ。それに代わって擦文人を経由して本州産の鉄器を入手するようになって、鉄器の供給を通じてトビニタイ文化は擦文文化の影響を受け続けることで、擦文時代後期の段階で擦文文化に同化吸収されるのだ(大西 2009)。

(熊木 2021d)
道北地方に擦文人が進出すると、当地のオホーツク文化は元地式土器を伴う文化に変化して、比較的短期間で擦文文化に置換する。他方、道東地方ではトビニタイ文化がしばらくの間は存続する。

四国めたん:オホーツク土器は擦文土器の影響でトビニタイ土器に変化するわよね。

ずんだもん:オホーツク土器は貼付文期以降に擦文土器の影響でトビニタイ土器に変化するのだ。オホーツク土器のすぼんだ口縁部は広がって、器形と文様には擦文土器の影響が徐々に浸透していくのだ。最終段階のトビニタイ4式土器は擦文土器との共伴が常態化するようになるけど、出土点数は擦文土器よりも少なくなって、トビニタイ土器は次第に製作されなくなって11世紀中に消滅するのだ(榊田 2016)。

(榊田 2016)
9世紀後半~11世紀後半にかけてのトビニタイ土器の変遷

四国めたん:オホーツク文化がトビニタイ文化に変化してから擦文文化に同化吸収されたってことは、オホーツク人も擦文人に同化吸収されたってことなのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。擦文時代の北海道の人口推計は、擦文人が石狩低地帯以南に12000人(中村 2020)、オホーツク人が道北東部と樺太南部に5000人っていう研究があって(天野 2003)、擦文人は人口比でオホーツク人を圧倒していたのだ。道北東部のオホーツク人の人口がこの半分程度で、擦文人が縄文人の直系子孫だったとすれば、石狩低地帯から道北東部に進出した擦文人とオホーツク人との間で混血が進んでいったと仮定すると、現代アイヌの人々に占める縄文人の祖先系統のゲノムが約7割になるっていう核DNAの研究とも矛盾なく整合するのだ(篠田 2022)。擦文人の人骨はあまり発見されていないから核DNAの解析はされていないけど、発見されている擦文人の人骨の形質は近世アイヌ人に近くて、道央以東の地域では縄文時代から近世に至るまでの形質に連続性があるとされているのだ(石田 2005)。

(天野 2003・中村 2020)を基に作成
擦文人とオホーツク人の人口分布(オホーツク文化の遺跡はほとんど海岸部に分布する)

四国めたん:日本人の場合は多数の渡来人が少数の縄文人と混血していて、アイヌ民族の場合は多数の縄文人が少数の渡来人と混血していたのね。

ずんだもん:そうなのだ。アイヌ民族のミトコンドリアDNAハプロタイプは縄文人よりも多様性があって、オホーツク人に由来するハプログループYも約2割ほど存在しているのだ。逆に、Y染色体ハプロタイプはDとCの2系統しか確認されていなくて、ほとんどはハプログループDだとされているのだ(篠田 2019)。ミトコンドリアDNAの多様性が高くてY染色体の多様性が低かったら、婚姻システムは夫方居住婚の可能性があるのだ(太田 2018)。ユカㇻでもヤウンクㇽはレプンクㇽと闘いながら、最後はレプンクㇽの女性と結婚しているように(萩中 1980・中川 2019)、擦文人の男性はオホーツク人の女性を嫁として積極的に迎え入れていたことを示唆しているのだ。

(篠田 2019)
ミトコンドリアDNAの多様性の高さは女性の移住が多かったことを示唆する。ただし、ミトコンドリアDNAとY染色体では祖先の中の1人の系統しかたどることができないので、情報としてはとても限られている。集団のルーツを調べる場合には、核DNAの解析が欠かせない(斎藤 2020)。

四国めたん:ミトコンドリアDNAとY染色体のハプロタイプの頻度の違いから、そういうことが分かるのは面白いわよね。

ずんだもん:そうなのだ。

⑤ 擦文時代の終わり

ずんだもん:擦文時代後期になると、北海道全域に擦文文化の遺跡が分布するようになるのだ(澤井 2007a)。擦文文化の終末は擦文土器の消滅をもって規定されていて(関根 2015a)、擦文土器を伴う遺跡と全く伴わない遺跡の境界は12世紀後半から13世紀後半の時期に求められるのだ(澤井 2007b・厚真町教育委員会 2013・佐藤,他 2022)。擦文時代はその頃まで続いていたことになるけど、昔は中世アイヌ文化期の実態がよく分からなかったから、擦文文化と後続するアイヌ文化の空白は「北海道のミッシング・リンク」って呼ばれていたのだ(藤本 1978)。でも、発掘調査の進展によって擦文文化とアイヌ文化の連続性もだんだん分かるようになってきたのだ。特に道央南部の厚真町では、厚幌ダム建設事業に伴う集中的な発掘調査が行われたことによって、擦文文化からアイヌ文化への連続的な変遷の過程が明らかになっているのだ(乾 2015)。擦文時代後期にはカマドがなくて、長軸方向に沿って2つの囲炉裏がある平地住居が出現しているのだ(厚真町教育委員会 2009b・2014b・北海道埋蔵文化財センター 2019)。道東地方の擦文文化の住居でも囲炉裏は普遍的に存在していて、囲炉裏は1つないし2つが基本だとされているのだ(太田 2022)。囲炉裏が2つあるのは中世アイヌ文化期のチセの特徴にもなっていて(乾 2015)、この伝統は少なくとも18世紀までは続いていたらしいのだ(北海道文化遺産活用活性化実行委員会 2019)。

(厚真町教育委員会 2009b・北海道埋蔵文化財センター 2019)
2つの炉跡があるニタップナイ遺跡とオコッコ1遺跡の擦文住居跡(いずれも厚真町)

四国めたん:擦文人はずっと囲炉裏にこだわりがあったみたいね。

ずんだもん:そうなのだ。アイヌ文化では囲炉裏にアペフチカムイっていう火の神が住んでいるとされていて(榎森 2007)、これは確実に擦文時代以前にまで遡る信仰だと思うのだ。アイヌの人々が砦として使っていたチャシも、擦文時代にまで遡ることが分かってきたのだ。厚真町や平取町には、10世紀から11世紀頃の区画遺構って呼ばれている儀礼場跡が発見されているのだ。厚真町上幌内モイ遺跡の円形周溝遺構っていう区画遺構は、むかわ町の12世紀から13世紀の中世アイヌ文化期に造られたニサナイチャシ跡とも特徴が共通していて、最初期の小型チャシは擦文時代の区画遺構に起源を求めることができると考えられるのだ(田才 2015・乾 2015)。

(乾,厚真町教育委員会 2015)
上幌内モイ遺跡の円形周溝遺構

四国めたん:もともとチャシは儀礼場だったのね。

ずんだもん:そうなのだ。ユカㇻでもチャシは神や英雄が住んでいた城だとされていて(萩中 1980)、チャシが儀礼場から発展していったことと無関係ではないと思うのだ。儀礼場と言えば、擦文時代終末期の羅臼町オタフク岩洞窟遺跡からは、擦文土器と共に雌雄5頭ずつのヒグマの頭骨群が出土しているのだ。アイヌ文化のホプニレっていう動物儀礼でも洞窟や岩陰に送り場が設けられていて、雄なら左頭頂骨、雌なら右頭頂骨に穴を開けるウンメムケを行うのだ。オタフク岩洞窟遺跡でも保存状態が良好な雌雄1体ずつの頭頂骨に同様の穴が開けられていたのだ。この遺跡の発見によって、ホプニレの基本形が擦文時代終末期には確立していたことが分かったのだ(佐藤 2004)。

(佐藤 2004)
オタフク岩洞窟遺跡のホプニレ跡

四国めたん:アイヌ文化と言えばイオマンテが良く知られているけど、これも擦文時代から行われていたのかしら?

ずんだもん:それはもう少し後の方で取り上げるのだ。この頃の東北北部では北緯40度以南の郡制施行地域の集落から土器がほとんど出土しなくなって、土器が出土するような遺跡は特殊な存在になっていたのだ(島田 2016)。北緯40度以北の蝦夷社会では依然として土器が使われていて、伝統的な非ロクロ甕が作られ続けると共に、内耳土器や把手付土器も新たに作られるようになるのだ。五所川原での須恵器生産は10世紀末に終わるけど、土器の使用は12世紀初頭まで継続していて、それ以降は中世的な生活様式に変化するのだ(三浦 2007a)。

四国めたん:東北地方では北海道よりも先に土器が使われなくなるのね。

ずんだもん:そうなのだ。東北地方では奥州藤原氏の時代に鉄鍋が普及するようになって、それまで煮沸具として使われていた土師器の甕は消滅するのだ。鉄鍋は囲炉裏とセットの煮沸具だから、囲炉裏がカマドに置き換わって復活したことになるのだ(越田 1996)。北海道でも少し遅れて土器が消滅するけど、終末期の擦文土器の製作技法は簡略化して器形も崩れていくと共に、鉄鍋を模倣した内耳土器も作られるようになるのだ。擦文人は土器の甕よりも優れている鉄鍋の存在を知ったことで、土器に対する執着が薄れていったけど、鉄鍋の需要に対して供給が足りていないから、やむなく土器を作らざるを得ない状況になっていたと考えられるのだ(澤井 2010)。道東地方の擦文時代終末期の西月ヶ岡遺跡だと、カマド付きの竪穴住居から内耳土器と擦文土器のセットが出土しているけど、擦文土器は全て小型化していてカマドで使えるような大きさではなかったのだ。この頃には家にカマドがあっても、炊事施設としては使われなくなっていたと考えられるのだ(小野 2008)。

(宇田川 1989)
西月ヶ岡遺跡の内耳土器と擦文土器。アイヌ民族は中世以降も内耳土器を作っていた(長田 2008)。

四国めたん:擦文時代の遺跡から鉄鍋は出土しているのかしら?

ずんだもん:今のところ確実な出土例はないのだ。壊れやすいけど地中に残りやすい土器と違って、鉄鍋は壊れにくいけど地中にも残りにくくて、壊れても鉄素材として再利用できるから、考古学者にとっては悩ましい問題なのだ(越田 2007)。北海道では本州よりも鉄鍋の出土数が多いことが知られているけど、これは14世紀以降の中世アイヌ文化期になってからの話なのだ。この頃から鉄鍋は、副葬品や鉄鍋そのものを埋葬する目的の宗教儀礼にも使われるようになって、遺物として残りやすい状況になっていったのだ。それ以前の時期から鉄鍋は普及していたけど、まだそうした用途に使える程の数が流通していなかったから、遺跡から出土しにくい状況が続いていたと考えられるのだ(小野 2008)。でも、最近の発掘調査では13世紀以前に遡る厚真町ヲチャラセナイ遺跡から鉄鍋片が出土していて(厚真町教育委員会 2013)、擦文時代終末期直後の段階に鉄鍋が存在していたことも確認されつつあるのだ。あと、この遺跡では擦文土器が消滅した直後の中世アイヌ文化期の段階に、擦文時代の鉄器を鉄素材として再利用していたことも分かっているのだ(厚真町教育委員会 2014a)。

(厚真町教育委員会 2018)
中世以降の各遺跡から出土した鉄鍋(厚幌ダム遺跡群)

四国めたん:今後の発掘調査に期待したいところよね。

ずんだもん:そうなのだ。

⑥ 擦文文化とアイヌ文化の連続性

ずんだもん:擦文文化とアイヌ文化の連続性については今までの話の中でも説明してきたけど、そこで取り上げられなかったことを説明しながら、他の文化とアイヌ文化の繋がりについても説明するのだ。

四国めたん:楽しみだわ。

ずんだもん:まずは墓制について説明するのだ。北海道では縄文時代以来、遺体を屈曲させて埋葬する屈葬が行われていたけど(青野 2015a)、擦文時代には江別古墳群に見られるような伸展葬の埋葬姿勢が出現すると、擦文文化の埋葬姿勢は屈葬から伸展葬に変化していくのだ(横山 1990)。アイヌ文化の埋葬姿勢は伸展葬だから(青野 2015b)、擦文文化と連続していることが分かるのだ。最近の研究では、擦文時代後期に利器として使われなくなった黒曜石が土坑墓に副葬されるようになって、その伝統が中世アイヌ文化期にも受け継がれていることが分かっているのだ(大塚 2020・大塚,他 2021)。

(厚真町教育委員会 2018)
擦文時代の土坑墓に副葬された黒曜石円礫(上幌内モイ遺跡)
(厚真町教育委員会 2018)
中世アイヌ文化期の土坑墓に副葬された黒曜石円礫(オニキシベ2遺跡)

四国めたん:アイヌ文化の墓制のルーツは北海道式古墳にあるのね。

ずんだもん:そうなのだ。擦文時代中期の札幌市サクシュコトニ川遺跡からは、近世アイヌの人々が行っていたテシっていう鮭の漁法とよく似た遺構やマレクっていう鮭の漁具とよく似た遺物も発見されていて、アイヌ文化の伝統的な鮭漁は10世紀頃まで遡ることが分かっているのだ(横山 1990)。近世アイヌの人々が海獣猟に使っていたキテも、原形は擦文時代の回転式銛頭に求められるのだ(高橋 2015)。中世アイヌ文化期にも、擦文時代とほとんど変わらない回転式銛頭を使っていた地域もあるのだ(前田 1997・小山 2004)。

(前田 1997・小山 2004)を基に作成
中世アイヌ文化期と擦文時代の回転式銛頭

四国めたん:擦文文化とアイヌ文化の漁具の共通性は高いみたいね。

ずんだもん:そうなのだ。アイヌの人々が弓矢に使っていた中柄っていう部品も擦文時代から作られていたのだ。骨製と木製の中柄がそれぞれ擦文時代から作られていて、両方ともアイヌ文化に引き継がれているのだ。木製の中柄にはノリウツギっていうアジサイ科の木が使われているけど、アイヌ語ではラスパニって呼ばれていて「中柄を作る木」って意味なのだ。ノリウツギを中柄の特定材として使用する伝統は、擦文時代には既に成立していたのだ(奥尻町教育委員会 2003・北海道埋蔵文化財センター 2003・高橋 2015)。

(北海道開拓記念館 1997)
左下の5本は擦文時代の骨製中柄(南有珠7遺跡)

四国めたん:アイヌ民族と言えば毒矢を使っていたと思うけど、擦文人も毒矢を使っていたのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。擦文文化とアイヌ文化に認められる中柄の共通性は、アイヌ文化で中柄が毒矢の一部を構成していることを踏まえれば、毒矢の使用が擦文時代の段階にまで遡ることを示唆しているのだ。12世紀中頃の和歌には、蝦夷の毒矢を詠んだものもあるのだ(海保 1987・児島 2009)。擦文時代は少なくとも12世紀後半までは継続しているから(澤井 2007b・佐藤,他 2022)、当時の和歌に登場する蝦夷が擦文人を指している蓋然性は高いのだ。つまり、擦文文化では毒矢が使用されていて、その伝統がアイヌ文化に引き継がれていったと考えられるのだ。最近の研究では、縄文人が毒矢で狩猟をしていた痕跡も発見されていて(北区飛鳥山博物館 2017・2022)、アイヌ文化の毒矢は縄文時代にルーツがあるかもしれないのだ。

四国めたん:そうだったらすごいわよね。

ずんだもん:そうなのだ。他にはイクパスイやイナウも、一番古いものだと擦文時代中期頃にまで遡るとされる出土品があるのだ(清水 2015)。アイヌの人々は漆器の底部に「祖印」って呼ばれている刻印を入れていたけど、中世アイヌ文化期には作られなくなった擦文土器の底部にも同じ刻印が入っていて、こうした伝統も10世紀中頃には出現するのだ(瀬川 2014)。

(清水 2015)
擦文時代中~後期のイクパスイ(美々8遺跡)

四国めたん:アイヌ民族は擦文土器を作らなくなっても、土器の底部に刻印を入れる伝統を他の容器で行い続けていたのね。

(函館土木現業所,奥尻町教育委員会 1979・旭川市博物館 1994)を基に作成
擦文土器と漆器の底部刻印の例(擦文土器は青苗遺跡)

ずんだもん:そうなのだ。あと、イクパスイの「パスイ」は日本語の「箸」からの借用だとされていて、上代日本語ではハ行音がパ行音で発音されていたのだ。アイヌ語で「細身の刀」を意味するポソミが日本語の「細身」からの借用だとされているように、日本語からアイヌ語に入った借用語には古い時代の日本語の発音がそのまま保存されているのだ(深澤 2017)。日本語のパ行音は平安時代までは続いていたと考えられていて(林 1994)、その頃までにはアイヌ語に借用されたことになるのだ。

四国めたん:それらの借用語は擦文時代に日本語からアイヌ語に入ってきたことになるのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。でも、アイヌ語で「神」を意味するカムイは日本祖語でも「神」がカムイになることから(服部 2018)、これも日本語からの借用だとされているけど(村山 1975)、アイヌ語から日本語に借用された可能性もあるらしいのだ(上村 2008a・2008b)。どちらにしても、日本祖語は弥生時代末期から古墳時代にかけて話されていた言語だったと考えられているから(ペラール 2016)、その頃には日本語とアイヌ語の分布が地理的に隣接していて、語彙を借用するような交流があったことを物語っているのだ。

四国めたん:アイヌ語に借用された日本語の形態からアイヌ語の古さが分かるのは面白いわよね。

ずんだもん:そうなのだ。イクパスイやイナウを使った儀礼行為が擦文時代に遡ることは分かったけど、めたんがさっき言っていたイオマンテについても、今までに分かっていることを説明するのだ。アイヌ文化のイオマンテって呼ばれている動物儀礼は、オホーツク文化の影響を受けているって言われているように(北原,谷本 2020)、オホーツク人はヒグマの幼獣を半年間飼育してから動物儀礼の対象にしていたことが分かっていて、アイヌ文化でも春先に山で捕まえたヒグマの幼獣を数年間飼育してからイオマンテの対象にしていたのだ(佐藤 2004)。オホーツク文化後期の湧別町川西遺跡から出土した牙製熊像の首や背中に施されている帯状の装飾も、樺太や道北東部のアイヌの人々がイオマンテの際に着せていた装束との関連性が指摘されているのだ(宇田川 1989・大塚,赤坂 2002)。

(高橋 2021)
オホーツク文化後期の牙製熊像(湧別町川西遺跡)

四国めたん:じゃあイオマンテはオホーツク文化の影響で成立した動物儀礼なのね。

ずんだもん:ここまでの話だとイオマンテにはオホーツク文化の影響が強いことが分かるけど、必ずしもオホーツク文化の影響だけでイオマンテが成立したとは言えないのだ。アイヌの人々はイオマンテの際にサパウンペやサパンペっていう熊の彫刻が付いた冠を被るけど、続縄文時代の遺跡からもよく似た石製や土製の熊の像が出土しているのだ(宮,青木 1994・瀬川 2016)。擦文時代の遺跡から熊の像は出土していないけど、サパウンペの熊は木製の彫刻だから、擦文時代に材質が変わって遺物として残りにくくなったのかもしれないのだ。あと、擦文人はアイヌ文化のホプニレみたいに熊や鹿の頭を集めた動物儀礼も行っていたのだ(高杉 1987・厚真町教育委員会 2009a)。オホーツク文化がトビニタイ文化になって、トビニタイ文化が消滅してから擦文文化がアイヌ文化に移行するっていう時系列を踏まえると(熊木 2015)、擦文人は自分たちが行っていた動物儀礼にオホーツク文化の要素を選択的に取り入れていって、イオマンテが成立していったと考えられるのだ。

(北海道埋蔵文化財センター 2004)
続縄文時代の石製熊像(滝里安井遺跡)

四国めたん:中世以降の日本でも神道と外来の仏教が混ざっていったけど、それと似ているとも言えるわよね。

ずんだもん:そうなのだ。擦文文化とアイヌ文化の宗教儀礼には他にも繋がりがあって、アイヌ文化には死んだ人間があの世でも家に住めるように、家を燃やす「家送り」っていう風習があったのだ。擦文時代の住居も焼失している例が多いことが知られていて、「家送り」の存在を想定することができるのだ(宮 1998・大島 2014・欠ヶ端 2020・太田 2022・立田,新美 2022)。

(秦 1800)
「家送り」の様子

ずんだもん:実は、アイヌの人々の生死観は沖縄の人々とも似ている部分があって、琉球諸島では女性が結婚する際に手指の甲にハジチっていう入れ墨を入れるのだ(小原 1970)。アイヌの女性もある程度の年齢になると、口の周りや手の甲にシヌイェっていう入れ墨を入れるのだ(中川 2019)。アイヌ文化と沖縄文化の入れ墨には「あの世へのパスポート」っていう共通観念があって、入れ墨をしていなければ死後に不都合なことがあるって信じられているのだ。日本の南北によく似た入れ墨文化があるから、中間地帯にも同じ文化があってもおかしくないけど、弥生時代末期頃の文化を記録した『魏志倭人伝』には「倭人は入れ墨で大魚や水鳥を追い払う」って書かれていて、当時の西日本には全く異なる入れ墨文化が分布していたのだ。「あの世へのパスポート」型の方が古いと考えられていて、縄文時代の入れ墨文化との繋がりが指摘されているのだ(大林 1977・1996)。

(秦 1800)
手に施したシヌイェ

ずんだもん:でも、樺太アイヌの人々にはシヌイェがそれほど普及していなかったとされていて(榎森 2001)、彼らと隣接した地域で暮らしていたニヴフ人やウィルタ人に至っては、シヌイェのような入れ墨文化が存在しないらしいのだ(児玉,伊藤 1940・柿沼 1972・服部,横尾 1997)。つまり、もともとシヌイェは北海道アイヌの人々の間で独自に発達していた入れ墨文化だったと考えられるから、この点でもシヌイェの起源が古い時代に遡ることを示唆していると言えるのだ。

(中川 2019)
口の周りにシヌイェを施した女性(右)

⑦ 擦文人はアイヌ語を話していたのか?

四国めたん:アイヌ文化が擦文文化やもっと古い文化と連続性があることは分かったけど、アイヌ語も擦文時代以前から話されていたのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。山田秀三氏や金田一京助氏の先行研究によって、アイヌ語地名が東北地方にも分布していることが知られているのだ。科学的には、日本語では解釈できないけどアイヌ語では解釈できて、北海道にも類例があって、地名の分布に北海道との地理的な連続性があれば、その地名はアイヌ語に由来している蓋然性が高いと言えるのだ(金田一 1932)。1970年代になると、北海道の続縄文土器が東北地方にも分布していることが分かるようになって、東北地方のアイヌ語地名との相関関係が議論されるようになったのだ(菊池 1984)。アイヌ民族は歴史的には青森県域でも暮らしていたけど、アイヌ語地名はそれより南の方にも分布しているのだ。この事実は、東北地方でもアイヌ語が話されていたことを示唆しているのだ(熊谷 2015)。アイヌ語地名は語尾に河川を意味する「内」や「別」の字が当たられた地名が多く残っているけど(金田一 1932)、全ての固有名詞の中で最も永続的で古いのは河川名だとされているのだ(クラーエ 1970)。だから東北地方のアイヌ語地名は、東北地方の古層の言語を探る上での重要な資料になるのだ。

(八木 2019)
『新日本地名索引』から抽出したアイヌ語地名とアイヌ語の可能性がある地名の分布

四国めたん:少なくとも続縄文時代には、既に北日本でアイヌ語が話されていたってことになるのね。

ずんだもん:そうなのだ。10世紀前半に成立した『延喜式』っていう法典には、岩手県域の神社として「理訓許段」っていう社名が記録されていて、江戸時代中期には「理訓許多」っていう社名で残っていたのだ(大島 1969)。「リクンコタン」はアイヌ語で「高い所にある村」っていう意味になるけど(金田一 1932)、語尾の「ン」が脱落することは言語学的によくある現象とされているから(中本 1990)、「コタン」から「コタ」への変化は通時的な音韻変化と考えれば矛盾がないのだ。同じく古代の岩手県域に存在していた「徳丹(トコタン)城」も、アイヌ語の「コタン」に由来していると指摘されているのだ(金田一 1932)。平安時代の『伊勢物語』の古注には「東国のならい家をクタという」っていう記述があるけど、日本語では「家」を「クタ」とは言わないのだ。アイヌ語の「コタン」は「村」っていう意味だけど、音声的には「コタン」から「クタ」への変化は問題ないとされているのだ。印欧諸語には「家」と「村」の発音と意味が入れ替わっている言語があるから、「クタ」にも同じ変化が起きていたとすれば、アイヌ語の「コタン」に由来していると考えられるのだ(ヴォヴィン 2012)。

四国めたん:古代の東北地方で話されていたアイヌ語は地名以外にも記録として残っていたことになるわよね。

ずんだもん:そうなのだ。アイヌ語の痕跡はマタギの言葉にも残っていて、「頭」を意味する「ハッケ」、「崖」を意味する「ヒラ」、「小さい」を意味する「ホノ」、「大きい」を意味する「ホロ」とかは、それぞれアイヌ語の「パケ」「ピラ」「ポノ」「ポロ」に対応しているのだ。日本語のハ行音は、古代にはパ行音だったけど、中世にはファ行音になって、近世までには今と同じ発音になるのだ。つまり、日本語のハ行音がパ行音だった古代に、アイヌ語からマタギの言葉に借用されて、それが日本語の歴史的な音韻変化でハ行音になったと考えられるのだ(板橋 2014)。

四国めたん:アイヌ語が古代の東北地方で暮らしいてた人々の言語にも影響を与えていたことは分かったけど、続縄文時代以前の東北地方でもアイヌ語は話されていたのかしら?

ずんだもん:少なくとも奈良時代には東北南部のあたりまで、東国方言っていう言語が話されていたのだ(福田 1965)。でも、東国方言が後の東北方言になった訳ではないのだ。東北方言の祖語は、平安時代の京都や奈良の方言から派生していて、東北方言の多様性が西日本方言と比べて少ないことから、東北地方で今の東北方言が話されるようになったのは、比較的新しい時代になってからだと考えられるのだ(井上 2000)。東国方言は今の八丈方言にその特徴が残っているとされているけど(金田 2021)、日本列島では弥生時代以降に日本語が話されるようになることを踏まえると、東国方言もそんなに古い時代から本州東部で話されていたとは考えにくいのだ。最近の日本語研究では、多くの言語学者が日本語はかつて朝鮮半島で話されていたと考えていて(Unger 2009・Whitman 2011・Vovin 2013・板橋 2019・伊藤 2021・風間 2022)、最初の方で説明した西遼河人が日本語の基になった言語を話していたと考えられるのだ(M. Robbeets et al. 2021)。つまり、弥生時代以前の東北地方ではアイヌ語か、アイヌ語の基になった言語が話されていたと考えられるのだ。

(福田 1965)を基に作成
万葉集の東歌と防人歌の記録に基づく東国方言の分布(赤色)

四国めたん:日本人と韓国人の祖先の約9割が共通しているくらいだから、もともと日本語が朝鮮半島で話されていたっていう仮説もあり得そうな話だわ。そう言えば、日本語は南方のオーストロネシア諸語と関係しているって仮説もあるわよね。

ずんだもん:少なくとも縄文時代以降に台湾から南下したオーストロネシア諸語を話す人々が、日本列島に渡来したことを示す考古学的な証拠はないのだ(崎山 2017)。最近の研究では、もともとオーストロネシア諸語は山東半島で話されていたって指摘されているのだ。仮に日本語の形成にオーストロネシア諸語が関与していても、南方からの渡来を想定する必要はなくて、山東半島とその周辺で日本語が形成された可能性も検討できるようになったのだ(Robbeets 2017)。

四国めたん:弥生時代の渡来人が日本語を話していたのなら、東北地方以外の地域でも縄文時代からアイヌ語が話されていたことになるのかしら?

ずんだもん:そうなのだ。アイヌ語地名がある程度分布している新潟県南部や関東北部にまで続縄文土器の分布が広がっていないことを踏まえると、続縄文土器とアイヌ語地名の分布には相関関係が認められないのだ。つまり、それ以前の時代の広域文化圏の人々がアイヌ語を話していて、その頃に命名されたアイヌ語地名が残っていったと考えられるのだ(八木 2017b)。

四国めたん:それなら縄文人はアイヌ語を話していたのね。

ずんだもん:そうなのだ。新石器時代の遼東半島の土器と西日本の弥生土器の製作技法はコアな部分まで共通していることから、遼東半島の土器文化の南下には人間や言語の移動も伴っていて、かつては遼東半島で日本語の基になった言語が話されていたと推定した研究があるのだ(宮本 2017)。

(家根 1987)
縄文土器と弥生土器/朝鮮無文土器の違い(断面)

ずんだもん:その後、古代DNAの研究が大きく進んだことで、西遼河人が日本人の祖先の約9割を占めていて、日本語と韓国語の共通祖語が今から約9000年前の西遼河流域で話されていたと推定した研究が発表されるようになるのだ(M. Robbeets et al. 2021)。つまり、土器の製作技法の共通性から人間や言語の移動を推定した先行研究が、この結果を予測していたことになるのだ。

(宮本 2017)
土器の製作技法の共通性から推定した古日本語を話す人々の拡散ルート

四国めたん:その研究とアイヌ語にどんな関係があるのかしら?

ずんだもん:道央地方で成立した続縄文土器の後北式土器は、弥生時代中期の東北北部の二枚橋式土器の系統と道東地方の宇津内式土器の影響を受けて成立しているのだ。でも、宇津内式土器の影響は擬縄貼付文だけで、土器の外観からは分からない粘土紐の接合方法は、二枚橋式土器の系統の影響を受けているのだ(鈴木 2021)。土器の非可視的な部分が共通しているということは、土器の製作者同士が意思疎通を図りながら情報伝達していく必要があるから、同じ言語を話していた蓋然性が高いのだ(宮本 2017)。つまり、後北式土器と二枚橋式土器を作っていた人々は同じ言語を話していて、二枚橋式土器に先行する弥生時代前期の砂沢式土器や縄文時代晩期の大洞式土器を作っていた人々も同じ言語を話していたはずだから、それはアイヌ語系統の言語だった蓋然性が高いのだ。関東北部のあたりまでがアイヌ語地名の確実な分布圏であれば、縄文時代晩期の亀ヶ岡文化圏が概ねこの範囲に収まるのだ。

(関根 2015b)
粗製深鉢からみた晩期後葉の亀ヶ岡文化圏(A~F)の地域性
(設楽 2007)
最後の縄文土器になる大洞式土器(亀ヶ岡式土器)の最終段階
(須藤 1992)
縄文土器の大洞式土器に後続する弥生土器の砂沢式土器
(根岸 2020)
砂沢式土器に後続する二枚橋式土器
(高橋 2003・鈴木 2021)を基に作成
恵山Ⅰ式土器(アヨロ1a~2b)と並行するH37栄町式土器と江別太1~2式土器。二枚橋式土器と恵山式土器の影響で右側の土器群の器形も頸部が発達していくと共に、粘土紐の接合方法も外傾接合から内傾接合に置換が進む。恵山Ⅱ式土器(アヨロ3)は次の後北A式土器と並行する。
(熊木 2003・大坂 2015・根岸 2020・鈴木 2021)を基に作成
弥生時代中期から古墳時代と並行する時期の北海道の土器型式の変遷

四国めたん:そうやって縄文人の話していた言語を具体的に推定できるのは面白いわよね。

ずんだもん:でも、縄文時代から今と変わらないアイヌ語が話されていた訳じゃないし、西日本の縄文人も同じ言語を話していたとは限らないのだ。少なくともアイヌ語の基になった言語は縄文時代から東日本で話されていて、現在のアイヌ語が形成される画期は、西日本が弥生時代に移行してからだと考えられるのだ。日本語は接尾辞型でSOV語順の言語だけど、この2つの特徴には相関関係があるのだ(風間 2022)。でも、上代日本語には2つの接頭辞を付けることも可能で、この起源は不明だとされているけど、アイヌ語の影響も可能性として考えられるのだ(板橋 2010・ヴォヴィン 2015)。逆に、アイヌ語は日本語の影響でSVO語順からSOV語順に変化したとも指摘されているのだ(中川 2003・2009・板橋 2010)。

四国めたん:日本語とアイヌ語は相互に影響しながら発展していったのね。

ずんだもん:そうなのだ。北部九州で水田稲作が始まると、近畿地方までが分布の西限だった東日本系土器は、奄美地方にまで分布を広げるようになるのだ。この頃の弥生土器には重弧文って呼ばれている文様が描かれていたけど、このルーツは大洞式土器の連子文にあって、この2つの文様は大洞C2式から大洞A1式にかけて連動して変化するのだ(設楽,小林 2007)。高知県居徳遺跡から出土した大洞A1式の大型装飾壺に至っては、東北中部の大洞式土器の職人が中部地方で壺を製作して、北陸経由で居徳遺跡に搬入されたと推定されているのだ(関根,柴 2021)。この後、東北地方では関東地方に先行して水田稲作が始まるから、大洞C2式の段階から始まる東日本系土器の西漸現象は、東北地方の縄文人が北部九州の水田稲作に強い関心を持っていたことを示唆しているのだ(設楽 2014)。

(設楽 2007)
高知県や佐賀県で出土した大洞A1式土器と同型の壺(青森県名川町)
(家根 1987・設楽,小林 2007・宮本 2017)を基に作成
西日本における弥生時代開始期の弥生土器に対する朝鮮無文土器と縄文土器の影響

ずんだもん:今から約3000年前に始まる縄文時代から弥生時代への移行期には(藤尾 2015)、こうした交流と共に日本語とアイヌ語の言語接触が起きていたと考えられるのだ。この頃にそういう状況が発生して、少なくとも続縄文時代には今とそんなに変わらないアイヌ語が話されていたはずなのだ。東北地方と樺太のアイヌ語地名には方言差がないと指摘されていて、これは今のアイヌ語に方言差が生じる以前の古い時代に、これらの地域一帯にほとんど同じアイヌ語で地名が付けられて、古い形態が維持されたからだと考えられるのだ(板橋 2008)。東北地方のアイヌ語地名は、続縄文時代後半期と並行する時期に入植してきた日本語を話す人々が、先住民の使っていた地名を採用して定着させたと考えられるから(松本 2013)、これ以降から擦文人が樺太に進出する10世紀頃にかけての時期には(瀬川 2013)、アイヌ祖語が話されていたことになるのだ。

(松本 2021)
ずんだもんの解説の補足:擦文土器のルーツをたどっていくと、弥生時代中期前半の二枚橋式土器の系統に行き着く。二枚橋式土器は青森県域における砂沢式土器の後続型式であり、砂沢式土器は大洞式土器に後続する(根岸 2020)。東北地方では当時からアイヌ語が話されていた可能性があり、この頃に命名されたアイヌ語地名が現在まで残ったと考えられる。もう1つの可能性として、弥生時代後期前半に東北南部で成立した天王山式土器は、二枚橋式土器や恵山式土器の影響を受けており、東北北部からの移住を伴う人間の移動があったとも想定されている(相澤 2002)。この頃に東北南部と関東北部にかけての地域にアイヌ語地名が命名された可能性もある。弥生時代後期末の後北式土器の南下現象は(石川 2022)、当時の東北地方にまだ存在したアイヌ語圏の中での出来事として理解できる。5世紀末には土師器文化の人々が東北北部にまで北上することで(小保内 2022)、東北北部には彼らの東国語と続縄文人のアイヌ語が混在した蝦夷社会が形成された。しかし、仮に日本語の接頭辞がアイヌ語の影響だとすれば、そうした言語接触は日本語圏がまだ小さかった時期にしか起こり得ないと考えられるので、それは弥生時代の古い段階に求められる。言語類型的には日本語の接頭辞とアイヌ語の語順は不自然な要素として指摘されており、この要因は両言語の言語接触によるものだった可能性がある(中川 2003・2009・板橋 2010・ヴォヴィン 2015・風間 2022)。また、考古学者の八木光則氏がアイヌ語地名と縄文時代の環状列石の分布の相関関係を根拠に、「ペッ」系地名の起源が縄文時代後期以前に求められ、「ナィ」系地名の起源は更に古いと推定した研究を発表している(八木 2017b)。しかし、アイヌ語のOV語順が日本語の影響だとすれば(中川 2009)、アイヌ語地名が基本的にOV語順であることを踏まえると、それらの起源が縄文時代後期以前に求められるとは考えにくい。他方、古朝鮮語の「川」を意味する語彙に「ナレ」や「ナリ」があることから(伊藤 2018)、言語学者の知里真志保氏はそれを踏まえて「ナィ」を外来語だと考えており、本来のアイヌ語は「水・多くある」を意味する [ pe-ot ] という目的語と動詞を組み合わせた語源の「ペッ」だと考えていた(知里 1956)。しかし、こちらはOV語順なので「ペッ」の方が新しい語彙だった可能性もある。古代DNAの研究が進歩したことで、新石器時代の朝鮮半島にも縄文人と同じ祖先系統を持った人々が存在したことが明らかになり(M. Robbeets et al. 2021)、彼らは日本列島から移住した縄文人の子孫だった可能性もある。古朝鮮語とされている地名にアイヌ語の「ナィ」系地名と似た河川名が存在していることは、アイヌ語と同系統の言語を話す縄文人が朝鮮半島に移住して、彼らの地名が後世まで残ったからなのかもしれない。つまり、「ナィ」が古くて「ペッ」が新しいという点では、八木前掲論文とも共通した認識を持っている。最後のアイヌ祖語とは印欧祖語や日琉祖語と同様であり、現在のアイヌ語に方言差が生じる以前の共通祖語を意味している。

四国めたん:今の北海道にアイヌ語地名が残っているのも、近代に入植してきた人々がアイヌ民族の使っていた地名をそのまま採用したからよね。

ずんだもん:そうなのだ。

⑧ 擦文時代の北海道に神社仏閣はあったのか?

四国めたん:そう言えば、北海道には擦文時代に建てられたお寺や神社があるって聞いたことがあるけど本当なのかしら?

ずんだもん:多分、違うのだ。伊達市の有珠善光寺は慈覚大師が826年に有珠山で修行している時に、上空に現れた阿弥陀如来の姿を彫刻して仏堂を建てたのが始まりだと伝えられているけど(小林 2000)、慈覚大師は822年から828年までの間、比叡山に籠って修行をしていたことになっているのだ(佐伯 1989)。

阿弥陀如来像(いらすとや)

四国めたん:比叡山で修行をしていたはずの慈覚大師が途中で修行を中断して、北海道に行ってお寺を建てたっていうのはおかしいわよね。

ずんだもん:そうなのだ。函館市の船魂神社も良忍上人が大治年間に北海道に渡って杖を休めている時に、「ここは観音菩薩の霊跡である」って言ったことで1135年に建てられたと伝えられているけど、良忍上人は大治2年の1127年からは近畿地方を巡歴して、摂津平野の修楽寺に留まって布教をした後、1132年には京都の来迎院で亡くなっているのだ。もし北海道に渡っていたとするなら大治元年の1126年頃だったと考えられるけど、その前年には京都で勧進僧として法華経を書写していた記録が残っていて、その直後に北海道に渡ってすぐ戻って来たことになるから、それもちょっと考えにくいのだ。そもそも、良忍上人が北海道に渡ったことを書いた文献は幕末に成立していて、それ以外に何も傍証がないのだ。恐らく中世中期以降に流布された『融通念仏縁起』っていう絵巻物から出た伝説だったと考えられるのだ(佐藤,横田 1981・須藤 1966・1982)。

百済観音菩薩(いらすとや)

四国めたん:良忍上人の来歴を見ると、幕末の文献に出てくる北海道の話だけがすごく不自然だわ。

ずんだもん:そうなのだ。

四国めたん:もう言いたいことは全部話したわね。色々な分野の研究成果を繋ぎ合わせることで、古代の北海道のことが思っていた以上に分かったわ。

ずんだもん:そうなのだ。擦文文化とアイヌ文化は、基本的に連続した社会の中で営まれていたことが分かると思うのだ。⑦ではアイヌの人々の祖先の多くが縄文人であることを踏まえて、かなり踏み込んだ話もしてみたけど、そういう可能性も十分に考えられることなのだ。概要欄のリンクには、この動画の書き起こしと参考文献を記載しているから見てほしいのだ。

四国めたん:ご視聴ありがとうございました。

参考文献

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