小説007
いま生きているということ
太一はすぐにどもる。お、おれは、い、いいよ。こういった具合に。
そういうのが、小学校のこの教室では面白くって仕方がない。マネをすると、太一は怒る。そのムキになるところまでがセットでおかしくてたまらないのだ。
巨大なため息がこみ上げる。そういうの、本当にくだらない。太一もムキにならなきゃいいのに、と思う。ジョチョウしてる、と思う。
国語の音読の時間、太一は息を止めるようにして、その存在感を消そうとする。無になろうとする。だけれど、先生という人種はそういった空気を読まないものだ。指名された太一は、この世の悲しみをすべてかき集めたような顔をする。多分、あれをゼツボウって言うんだろう。
太一はひどく緊張し、読み始めようと息を吸って、皆は期待の目でそれを見守る。そうして、一文字目から震えてしまう。どっと笑いが起きる。こら、笑うんじゃないのという先生の声も、それをジョチョウさせる。こういうとき、僕はいつも太一がフビンで耳をふさぎたくなる。
やがて、耐えきれなくなった太一が泣き出すと、教室にまたどっと新たな笑いが生まれる。その涙目、震える肩さえも、皆面白くって仕方ないのだ。みじめな太一。
くだらない。くだらない。そう思いながら、窓の外を見る。空の青はそ知らぬ顔で僕たちを見下ろしている。
太一が転校するらしいと聞いたのは、その数週間後のことだ。親がリコンするとかで、太一はお母さんについて、おじいちゃんちがあるという、名前は忘れたけど北の方に行くのだという。
それはつまり、本当にかわいそうなことなんじゃないだろうか。かわいそうな太一を笑っちゃいけないんじゃないだろうか。そう誰もが思った。
だけど、太一はちっともかなしそうな顔をしていないどころか、これから行く場所では桃がたくさん食べられるのだと嬉しそうに笑った。太一は桃が大好物なのだ。
皆は安心して太一をからかった。いつもどおり太一はマネされることに腹を立て、ムキになった。
僕は、太一ってちょっとドンカンなんじゃないかと思った。
太一の転校する日がいよいよ間近に迫ったある日、国語の授業でのことだった。先生は、いつもどおり音読する生徒を指名しようとしていた。
窓からは気持ちのいい風が入って、カーテンをふわふわと揺らしていた。窓際に座る僕は、そのカーテンが邪魔で仕方なかったけど、閉めたら文句を言われることはわかっていたから、そのままにしていた。
だから、その瞬間、ふわりと舞った白いカーテンの向こうで、太一が手を上げていたなんて気づかなかった。
アゼンとしていたのは生徒だけじゃない、先生もだ。我に返った先生が、じゃあお願い、と笑顔をとりつくろって言うと、太一はガタリと席を立った。教科書を持つ手は、ぶるぶると震えていた。
「いっ、いいいいきている、ということっ」
しょっぱなから太一は噛んだ。くすくす、といつも通りの笑いが波のように広がる。太一の頬が真っ赤に染まっていく。
だけど、太一は止まらなかった。つっかえつっかえ、震える声で、読んでいく。太一はどもった。だから、詩は元の詩よりずっと不恰好で余計なものばかりの、太一の言葉になった。
「そ、そそそれはミニスカートそれはプラップラネタリウムそれはヨハンシュトル……シュトッシュトラウス……そ、それはピカソそれはアリプス……」
言葉の渦に色がつくように、文字に命が宿るように、それは確かな意味を持って、耳から僕の心にシンニュウしてくる。
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
「い、いいいい、いのちと、とということっ」
ガタン、と太一がイスを引く音がして、はじめて終わったのだと気づいた。
教室中がしんとした。誰も笑っていなかった。この目の前で起こった出来事に、どう反応していいか、誰も分かっていなかった。
その時、ふわりとカーテンがまた舞った。
今度ははっきり邪魔だと思った。
僕は、そのときの、顔を真っ赤に染めながら小さな誇りを胸にまっすぐと背を伸ばした太一の姿を、忘れたくなかった。
(詩・谷川俊太郎「生きる」)
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