文章を書くことを始めるにあたって
休学期間も含め、大学7学期目が終わった。
気づけば、もう4年の8月だ。
この歳になっても、テスト勉強をするのはどうも苦手だ。
かといって研究で何か結果を出せているわけでもない。
そういえば、先日ch.booksという小さな本屋を見つけた。
見つけたと言っても、散歩していたらおしゃれな本屋を偶然見つけた、という素敵な話ではなく、欲しかった雑誌を取り扱っている場所だとネットで知って、行ってみただけだ。
ガラス格子の間から、中央と左右の茶色のテーブル、その上にハードカバー、文庫、雑誌が丁寧に並べられているのが見えた。
静かに扉を開け、僕は店の中へ入った。
そして、僕は一冊の雑誌を買った。
昨年の11月ころから、「境界線」について深く考えるようになった。
きっかけは、あるイベントで知人が放った言葉だった。
「それは、境界線の維持に過ぎない。」
確か、学問についての議論の中で、出てきたことは記憶している。
けれど、彼がその言葉を使った文脈とは関係なく、なぜかこのワードは僕にひっかかった。
そして、もうひとつ言葉をもらった。
「世界は、複雑なんだよ。」
―境界―
僕たちは、日常の中であらゆる境界線に囲まれながら生きている。
子どもと大人、男と女、生と死、日常と非日常、事実とフィクション
それと同時に僕たちは常に線を引きながら暮らしている。
線を引くことで、僕たちは日常生活を合理的なものにしている。
たとえば、時間。
9時から17時までは仕事、17時から21時は家庭、21時から寝るまでのわずかな時間は趣味。
その合理的な判断は、ある種の「わかりやすさ」を与えてくれる。自分に対しても、人に対しても。合理的で簡潔な説明を求められることも、少しずつ歳を取るにつれて増えてきた。
そうして何かが「わかった」とき、私たちは安堵し、一時の喜びを感じることができる。勉強していても、理論がわかったり、問題が解けたりすると、満足している自分がいる。
けれど、そのときいつも思ってしまう。わかりやすく物事を理解しようとすることで、その細部を見落としていないだろうか。大きな物語にとらわれて、今ここに起きていること、あるいは目に見えない部分を排除し、単純化していないだろうか。
それは、ある社会についても、自分についても、他者についても言えることだ。
この国は閉鎖的だ。
僕は寛容な性格だ。
あの人は自分勝手だ。
そんなわかりやすい言葉に惹きつけられて、思考をショートカットしていないだろうか。
社会も人もそんなに単純じゃない。あらゆる因子が複雑に絡み合って、微妙なバランスを取って共存している。
わかりやすさに捉われることなく、
わかりにくさを眺め、丁寧に記述する。
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そんなことを目指してみたいと頭でっかちに思っています。
文章を書く練習を少しずつでも積んでいきたいと思ったので、noteを初めてみました。
どれくらい続くかは分かりませんが、ちょっとがんばります。
今回初めてnoteを書くにあたって、きっかけとなったのは、上記のch.booksで購入させてもらった『ATLANTIS』という雑誌の創刊号でした。
テーマが「境界」だったので、そのままテーマにしたといえば、そうなのですが(笑)、普段生活している中で考えていたテーマについて、これほどまでに多くの対象を取材し、特集していたのは、もはやショックに近いくらいの衝撃でした。
とても読み応えのある雑誌なので、ぜひ、一度手に取ってみてはいかがでしょうか。
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