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 能(あた)わない象形

街を見下ろす山の、中腹。閉じられた遊園地が在る。長い間うち捨てられ、木の葉が厚く降り積もった。フェンスは錆ばかり。電柱は蔦にのみ込まれた。大風が吹くと遊具が軋み、再び動き出すかのようだ。夜半、若者たちが面白がって肝試しに訪れた時期もあったが、倒れた草が絡まり合い足下が危なくなってから、寄りつく者はいなかった。
年月の重さが等しく積もるものの、回転木馬だけはかろうじてかつての姿をとどめていた。大きな屋根があるからだろう。全盛期の遊園地で回転木馬は花形だった。子供たちがひっきりなしに並んでいた。開園から閉園まで休みなく回り続け、賑やかな声、音楽が、ここにいつも鳴り響いていた。
木馬の中に同じ木から切り出された二体が在った。樹木だったころ同じ水を得て生きていた。青く塗られた木馬、白く塗られた木馬に変わり、この遊園地へやってきた。外周は時計回り内周は反時計回りの遊具で、円盤の上には黒やピンクに塗られた木馬たち、赤や黄色の馬車などがある。そこに子供たちの衣装が加わってちぐはぐな色彩の中、二体の木馬は互いの姿を認めると不思議とぬくもりを感じた。もとは樹木なのだからおかしなものだ。木馬たちは子供が親に手を振る姿を見たし、親が笑顔で応えるのを知った。ここに集う家族たちは幸せそうだった。それで人の想いというものが、伝播したのかもしれない。
閉園の日、最後の運転が終了する間際、白馬と青馬はすれ違った。円盤の中心にある大黒柱(鏡に覆われた機械室)の向こうに互いの姿が隠れた。そのまま年月が流れていった。静かな園内には小鳥のさえずりや葉擦れの音だけが響いた。命のない木馬たちはただ静かにその場に立ち尽くしていたが、それぞれがある種の雰囲気を醸し出していた。空虚で思いなどないのが普通であろうに。
白馬は青馬がどうしているのかが気がかりだった。しかし、金属のバーで固定されているので動けない。あと少し、もう少しでいいから前へ進みたい。少しだけ回ってくれたなら機械室の向こうにいる青馬が見えるはずなのだ。風雨で汚れた鏡はもはや自分の姿を映してもくれない。白馬の前に見えるのは、伸び放題の野草に埋もれつつある隣の遊具だけだ。白馬は初めて寂しいと感じた。青々とした葉を茂らせて風を感じていた樹木のころ、こんな寂しい思いをしたことはなかった。子供を乗せていたころは喜ばれることが木馬の幸せだった。あの子供たちはどこへ行ったのか。もう長いこと人間を見ていない。せめて使えるうちに廃材として利用して欲しかった。こんなにも長く闇夜にうち捨てられるのなら、いっそ薪にくべて燃やし尽くして欲しかった。そんな暗い気持ちが沸き起こる。置き去られるということはそれほど哀しく切ないことだった。
 
その夏、暑い日が続いたあと、激しい雨が降り始めた。やがて滝のような豪雨となり、山から溢れた土砂が遊園地をのみ込んだ。回転木馬も屋根が落ち、円盤が傾きバーが捻れて折れた。木っ端が飛び散る。雨は霧散しすべてを地面に押しとどめた。無事だった遊具はひとつもなかった。
 
廃墟といわれるものは、人によって作り出された生活が人によって放棄されてできる。手もつけられていない原野を廃墟と呼ぶことはない。自然が不必要なものを山に埋めてくれたとして、目に見えないからと言って、それが消え去ったと誰か言えるだろうか。人々は街中の豪雨災害の復興に力を注いだ。すべては「よりよく生きていくため」に。今はそれしかできないのだ。そしていつの日か、忘れられた遊園地が新しく立ち上がるだろう。心にある愛が風化しないように、互いを思いやる心を忘れてはいけない。
 

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