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カラーとモノクロ 14

ご縁があって、書道展を見に行きました。
筆が折れるのではと思う勢いで書かれた、迫力のある書も魅力的だし、細く流れるかな文字も美しい。
中には文字とは思えないような書がありましたが、解説を見ると漢字でした。

 

ほとんどの人が、子供のときに書道を習ったことがあるでしょう。学校の授業に組まれていたり、書道教室に通ったりして。

 

賞を獲って、段を取って、どんどん上達していくのを楽しみにする人もいれば、ある程度までいくと学校の部活や受験に取り組むためにやめる人もいる。それでも書道をしていた人は、大人になって再開する人が多いと聞く。忘れることのない魅力があるのでしょう。

 

書道の先生になっている人は「いつか自分は書道の先生になる」という気持ちを、子供の頃や青年期に感じたことがあるそうです。だからといって「学校を卒業したらきっとなる」というような目先の目標だったわけではなく、違う分野の大学へ行ったり、結婚して子育てをしたり、別な仕事を経てきて、あるとき突然その「書道の先生になる」という気持ちを叶えるべく動き出すのだそうです。

やめていた時間がどれだけ長くても、他の仕事を持っていたとしても、万難を排して書道教室の開講までたどり着く。

その話を何人かから聞いて、私は驚いたし、不思議でしかたがなかった。

 

書道は歴史から現代まで学びが多く、常に勉強しなければならないそうだ。絵画も歴史から現代までを学べとよく言われている。

 書道の先生が言うには、書の方が絵より早く発生し、文字がなければ文明は発展しなかった。

その話を聞いたとき、私はクスコーの洞窟遺跡を思い浮かべた。過去の遺跡の何をもって絵として判断するか、ということを同じ視点で考えないと、文字が先か絵が先かというつまらない議論になってしまう。

 

話がそれますが、小学校の授業で漢字を教えるときのこと。

黒板に木の絵を描いて、その葉の部分を消したら木という漢字に見える。

「木は土に根がもぐっているので、下ははねてはいけません」なんて言っていた(最近ははねても良いようですね)。

 三日月の絵を描いて、崩していき、月という漢字になった。漢字のなりたち、と教わった。

 

書自体がもともとはアートだったのだ、という人がいる。

 文字教育という意味の書道が一般的になっているだけで、本当はアート。

そう言われれば、激しい筆文字も、墨の濃淡も全部アートだと思えます。広い半紙の中を、どう通ってどこへ抜けるか、なんて究極の選択。太い細い途切れる止まる。全部思うようになんてなかなかならないだろう。なぜならあの勢い、あのかすれ、そのときの感情や墨、紙のコンディションのすべてが合致することなんて、本当に稀じゃないか。

 迫力ある書を前にして、この一枚が完成するまでにどれだけの勉強や努力があったんだろう、と想像しました。

 

どんな分野でも、作るということは自分との闘い。理想に近づくべく、志高く。ただ自分の内面だけを見つめるのではなく、他者の存在を感じることで、未来への道が見えてくる。そんな気がしています。


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