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言葉を信用せず、言葉に飢えて、言葉で生きる

あけましておめでとうございます。
2019年の振り返りを年内に書いてしまったので、こんなnoteをnote書き初めにしていいのか、そんな気持ちもありますが、noteは生の言葉で殴り合う、そんな場所な気がしているので書いていこうと思います。

そして2020年もそんな生の言葉で記事を少しずつ増やしていきたいな、と。

今日のネタは「言葉」

友達と話していて、そんなおり自分は一番「言葉」を信用していないな、そんなところに行きついたのでそれについて語ります。

個人的には特に中高時代、感情がわからないという時期がありました。といっても鬱になったとか、精神的な病気にかかったとかそういう暗い話じゃないです。シンプルに「嬉しいってなに?」「悲しいってなに?」みたいな疑問を持っていた時期があったという話です。
原因はわかりません。何個か前の記事に書いた転校の体験のせいかもしれないし、お腹すくってどういうこと?みたいに思ってたことからの派生かもしれない。

とにかく、嬉しい、とか、悲しい、とかそういう感情がつかめなかったんです。といってもその感情を自分が感じてないわけではなく、たしかに嬉しがったり、悲しくて涙してたり、してるわけだけどもそのそれぞれに対して適切に感情のラベリングができない、そんな感じ。

そっから少しずつ、自分なりのラベリングをして、一応形として今は嬉しいとか考えるようになったんですが(今も本当にラベリングできているのかはあやしいかもしれない)

その感覚って、ある意味正しいものなんじゃないかって、今あらためて感じています。
だって、嬉しいとか、悲しいとか、そういう個々人でしか知覚できないものになんで共通の名前がつけられるんでしょうか?それって本当に万人にとって同じ感覚なんでしょうか?
むしろ、「これがあったら抱く感情はこれです」、そんなふうに定義するのが自然な気がするし、なんならこうやってみんな自分の嬉しいや悲しいを無意識に獲得しているのではないか、そんな風にも思ってしまうわけです。

その感覚がずっと自分につきまとってるということをあらためて認識したときに、この考え方にいたりました。

自分は言葉を信用していない。って。

ある意味コミュニケーションが難題だみたいな前書いた記事とか、デザイナとエンジニアのコミュニケーションが語られる文脈で散々言われてることな気もしますが、自分ってそういう根っこの体験から既に言葉をそんなに信用していないのかもしれないと思いいたりました。

だから無意識にノンバーバルなコミュニケーションを選びとってしまったり、相手に伝える前に咀嚼しすぎて言葉としてうまく出てこなかったりすることがあります。
その一方で、論理的な、定義がはっきりしたことを語る時はいくらでも流暢に話せたりする。

この一部を見ると根っからの理系人間とか言われそうですが、でも根幹にあるのは言葉への信頼が薄いからかもしれない、と。


ある意味会話からの逃げでこんな結論に至ってしまってるのかもしれませんが、人によって、文化によって、言語によって、環境によって、言葉の解釈はいかようにも変わる。

そんな言葉をどうやったら心の底から信用できるのかな?と。


一方でnoteに流れる生の言葉、人が本気で語っている言葉は好きだったりします。文字として形に残ってるとなお良い(たぶん音声だと記憶の濃淡が生じて掴みきれてなかったり、すくうべきところですくえてない感覚があるからかも。)

なんなら飢えている。いいnoteとか、ぐっとくるような文章を見ると無心に読み漁ってる。

で、こんな記事を書いてしまうわけです。


人間は言葉によってある意味、人間たりえています。記録も、数学も、音楽も、芸術も、言葉があるからこそ成り立っている。

そんな言葉に生かされている存在でありながら、言葉を疑い、言葉に飢えなきゃいけない。なんともジレンマな気がしつつ、ある意味それが人間かと思って、

今日も自分の感覚の表現を探しながら、2020年がんばっていこうと思います。

今年もよろしくお願いします。

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