メルマガ『東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─』第305号「五藏皆有精」(内景篇・精)その1

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◇ 東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─ ◆

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第305号

○ 「五藏皆有精」(内景篇・精)その1

                      ◆ 原文
      ◆ 断句
      ◆ 読み下し
      ◆ 現代語訳
      ◆ 解説

                      ◆ 編集後記


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こんにちは。前号部分の続き、「五藏皆有精」の項目に入ります。
 2号に分けて読みたいと思います。

◆原文◆(原本の文字組みのままを再現・ただし原本は縦組み
      ・ページ数は底本の影印本のページ数)

(「五藏皆有精」 p82 上段・内景篇・精)

五藏皆有精

                      難經曰心盛精汁三合脾有散膏半斤膽
      盛精汁三合〇内經曰腎者主水受五藏
   六府之精而藏之註云腎爲都會關司之所非腎
   一藏獨有精也

▼断句▼(原文に句読点を挿入、改行は任意)

五藏皆有精

難經曰、心盛精汁三合、脾有散膏半斤、膽盛精汁三合。

内經曰、腎者主水、受五藏六府之精而藏之。

註云、腎爲都會關司之所、非腎一藏獨有精也。

●語法・語釈●(主要な、または難解な語句の用法・意味)


▲訓読▲(読み下し)

五藏(ごぞう)皆(み)な精(せい)有(あ)り

難經(なんぎょう)に曰(いは)く、

心(しん)精汁(せいじゅう)を盛(も)ること

三合(さんごう)、脾(ひ)散膏(さんこう)

半斤(はんきん)有(あ)り、

膽(たん)精汁(せいじゅう)を盛(も)ること

三合(さんごう)。

内經(だいけい)に曰(いは)く、

腎(じん)は水(みず)を主(つかさど)る、

五藏六府(ごぞうろっぷ)の精(せい)を

受(うけ)てこれを藏(ぞう)す。

註(ちゅう)に云(いは)く、

腎(じん)は都會(とかい)關司(かんし)の

所(ところ)爲(な)り、

腎(じん)一藏(いちぞう)獨(ひと)り

精(せい)有(あ)るに非(あら)ざるなり。

■現代語訳■

五臓は全て精を有する

難経に説くには、

心は精汁を三合有しており、脾は散膏が半斤有り、

胆は精汁を三合有している。

内経に説くには、

腎は水を主り、五臓六腑の精を受けて蔵する。

その註に説く、

腎は精が集まり、司り、通過する部位であり、

腎のみが精を有するわけではない。

★ 解説 ★

前号までの「精爲至寶」に続く「五藏皆有精」の項目です。
 全部で3段文章がありますが、初めの2段を読んでいます。

ここで難経と内経と明示があっての引用になっています。

ただ、難経の何難か、また内経では素問なのか霊枢なのか、はたまたどの篇からの引用なのかは明記されていませんね。

いつも書きますようにネットでの検索が容易な現在、これらがそれぞれのどこから採った文なのかが簡単に判明する時代です。ご興味おありの方は検索して、どこからの引用なのか、難経の何難か、また内経でしたら素問か霊枢か、また篇名も、さらに後半には「註云」とあり、内経の何の註からの引用なのか、まで調査してみていただけたらと思います。

また、前半、訳では「脾は散膏が半斤有り」と、「散膏」と原文の用語のままにしておきました。訳語を充てると元の語からの乖離を恐れたためです。

では「散膏」とは何か?これもお調べいただき、ご自分なりのイメージをつかんでいただけたらと思います。

さて、先行訳情報ですが、先行訳ではこの項目は訳出しておりますが、この号で訳した2段をまるまる省略しており、最後の3段目だけを訳しています。
 これも大本の趣旨を大きく改変してしまう行為で、東医宝鑑を矮小化してしまうことと思い、やはり省略してはいけない部分と思います。

さらに項目名を「五臓にみな精があるとき」としています。これはおかしいですよね?ではなぜおかしいでしょうか?

実はこの前の項目「精爲至寶」でこんな文がありました。意味を把握する便宜上、現代語訳のみを掲載します。

肝精が堅固でないならば、目眩がして視界が暗く、

肺精が不足であれば、筋肉が消痩し、

腎精が堅固でないならば、神気が減少し、

脾精が堅固でないならば、歯や髮が抜け落ちる。

もし真精が耗散するならば、疾病が直ちに生じ、

ついには死に至るのみである。

その時に解説文にさらりとこんなことを書いたのですね。
 「精にもいろんな種類があることが説かれています。」

実はこの文が、今号の部分「五藏皆有精」の今風に言えば前振り、物語風に言えば伏線のようになっていると読み取れます。予め精にも種類があると軽く触れておいて、ひとつ後の項目で「五藏皆有精」と、それを主テーマに移して取り上げている、という心憎い構成になっているわけです。

なぜこんなことを書いているかと言うと、「精にもいろんな種類がある」という言葉でわかりますよね?

先行訳の項目名「五臓にみな精があるとき」ですとどんな意味で読めますka

本来の趣旨だと「五臓全てにそれぞれ精がある」ですよね。ところが先行訳の「あるとき」としてしまうと、ではそれに対して「ないとき」「ない場合」があるというニュアンスで読めてしまいますよね。

ここでは有る無いがテーマではなく、全ての種類があるという前提での話題の展開のはずで、実際に本文のその流れで説かれていますよね。

先行訳ではさらに今号の文が全て省略されているのでより趣旨がわかりにくくなってしまっている、という事態です。

このような点に鑑みると、先行訳の項目名「五臓にみな精があるとき」もやはり誤訳の一種と言ってよいでしょう。

◆ 編集後記

「五藏皆有精」に入りました。細かい部分の読みも興味深い文ですが、概略と先行訳情報のみに絞ってお届けしました。

次号はこの項目の最後の3段目です。
                   (2019.02.24.第305号)
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