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喪主の娘だってノロケたい

『喪主の座を誰かに奪われたくなくて旦那さんと結婚した』というツイートを、偶然見かけた。バズっていたそのツイートのリプライ欄でツイ主さんが仰っていたのだ、喪主には故人について弔問客の前で話す機会がある、それを逃す手はない、と。


 はじめて仲間を見つけた気がした。母を亡くして半年と少し、私が考えていたこととぴったり同じだ。


 母は、私が予想していたよりもずうっと早く亡くなった。その葬儀で喪主を務めたのは当たり前のように父で、通夜の終わりに母への愛を語ったのも当然のごとく父だった。良き母であり良き妻であり、芯の強い女性であった母のことがよく分かる、よいスピーチだったと思う。父が涙ながらに語ってくれた話のひとつひとつを葬儀から半年経った今もしっかりと覚えているし、拠り所にしている節だってある。
でも、だけどだ。

――お父さんばっかり、ずるい。

まだ二十五歳児の私はずっと、そう思っている。
私だって語りたかった。母を偲んで集まってくださった沢山の方の前で、母がいかに素敵な人で人生の師であったかを話したかった。人前で話すとすぐにアガって顔が赤くなる私だけれど、母の話ならいくらでもしたいのだ。いくらだって、できるのだ。


だから、この場をお借りしてノロケさせてほしい。私という人間の核を作ってくれた、私が一生かかっても敵わない女性について。

死んだら『東京バンドワゴン』に登場するサチさんのようになりたい、そう言っていたらしい母はこれを見ているだろうか。そうだったら嬉しいなあ。



・世界でいちばん可愛い人

 母を語るためには、一番最初にその可愛さについて触れなくてはいけないだろう。世界一かわいいのだ、私の母は。妹と冗談まじりに『推し』なんて表現したりすることもあるくらいには姉妹揃って母推しなのである。
 五十歳になってもふたちょん(下の方で髪をふたつに結ぶあれだ)が似合ってしまうし、草が伸び放題の庭を何とかするために草刈り機のかわりにヤギを呼ぼうとするし、私が歯磨きしていると尻を触ってくる。茶目っ気たっぷりの、陽だまりが似合う可愛らしい人なのだ。笑った時にできる目尻のしわが私は大好きで、母のように可愛らしく年を取りたいとずっと思っている。

・人生の規範となる人

 母の人柄は、彼女の車の運転に現れているように思っている。やわらかく加速し、ゆるやかに止まる。余程急いでいない限りは荒くなることもなく、常に淡々と、穏やかに。車に酔いやすい性質の私も母の運転だけは酔うことがなくて、ずうっと母のような運転ができるようになりたいと思っている。そして、母のように穏やかで優しい人格者になりたいとも。自分の機嫌をとるのが精いっぱいな若輩者にはまだまだ遠い目標だけれど、目標は大きければ大きければいいのだ。

・頭のやわらかい友人

 先に述べたように人生の目標たる母だけれど、私にとっては仲のいい友人の一人でもある。日課にしていた実家との通話では一緒に見ていたドラマの話をしては盛り上がったし、実家に帰省した時には二人で梅酒を片手におしゃべりをしたりもした。
 一度、ソシャゲの課金の可否について母と話したことを覚えている。構図は『無(理のない)課金推奨派の私 vs 実体のないものにお金をかける意味が分からない母』。ありがちな構図なのに私がこのエピソードをよく覚えていた理由は、『ゲームの運営は課金で成り立っているのだから、好きなゲームの存続のためには課金も必要ではないか』そんな私の主張をするりと受け入れて肯定してくれた母のやわらかさにある。あのときの私たちは母と娘、育てる人と育てられる人の枠を少しだけはみ出していたように思うのだ。そういう意味で、大事な思い出のひとつである。

・多趣味な人

 私の大好きな母は、好きなものを沢山もっている人だ。生業としていた音楽を始め、料理に読書、それからぬいぐるみ遊びも。母の生活は好きなもので溢れていて、充実した毎日を送っているように見えた。
 彼女が好いているものは私にも遺伝していて、私は音楽がないと生きていけない食いしん坊であり本の虫、兼ぬいぐるみの声がきこえる超能力者に育ってしまった。つまりは、私のベッドがツキプロのぬいぐるみたちに浸食されているのはぜんぶ母のせいなのだ。色とりどりな彼らのお陰で騒がしくも楽しい、そしてちょっとだけ寂しくない毎日を送れているのだから、少しくらいは大目に見てくれてもいいだろう。

・芯の強い人

 ここまでずうっと母の好きなところを話してきたけれど、ここでは恨み言を話してしまうことになりそうだ。
 母は、本当に芯の強い人だった。自分の病状を、自分が死を覚悟していることを離れて暮らしている私には一切悟らせないくらいに。私や妹を動揺させまい、という強い意思でもって病気に耐えて笑っていたのだ。亡くなる一週間前まで常と変わらないような声でドラマの話なんかをしていたから、就活を控えていた私はのほほんと『地元の企業に就職したら、母の介護を手伝えるだろうか』なんて考えていたのだ。一週間後にはモルヒネで朦朧とした母を目にすることになるなんて想像もせずに。
 本当に、強い人だった。酷いくらい。辛いなら辛いと言ってくれたら、そうしたらもっと助けになれたのに。そう思うのは娘のエゴだろうか。
 あの意思の強さには、一生かかったって勝てる気がしない。




 母のことを思い出しては眠れなくなった午前三時、ノートPCを叩き起こしてnoteのアカウントを作りここまで書いてきた。このたった二千字と少しでは母が持っている魅力の2μmも伝わりはしないのだけれど、喪主の娘だった私は少しだけすっきりしている。大好きな母の思い出話ができて、ちょっとだけ心残りが晴れた。泣き過ぎて目は腫れた。
 工学部卒の父が通夜の席で関数電卓をいじりながら『娘たちやその従姉妹たちのなかに妻の遺伝子がいかに残っているか』を話していた時には思わず噴き出してしまったが、こうやって書き連ねていて少しだけ共感ができた。遺伝子云々はおいておいて、母は私の中にきちんと生きているのだ。現に、私は母の性格ひとつひとつを過去形で書くことが出来ない。笑顔の可愛らしい、穏やかで芯の強いあの人は、今もずうっと私の中で生きているんだろう。ハグが出来なくなってしまった寂しさは、何年経っても薄れる気はしないけれど。

 今日は早く帰って、自分で晩御飯を作ろうと思う。母の手料理の中で私がいちばん好きだったなめこのお味噌汁と、親子丼。


 拙いノロケ話をここまで聞いてくださり、ありがとうございました。



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