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Hさんのこと(随時加筆)

「Hさんのこと」は、2020年の春に私が始めてnoteに投稿した文章で、『債鬼転生』の謝辞に出てくるHさんのことを書いた文章です。その後折々、投稿時には忘れていた面白エピソードを思い出すことがあったので、時々書き足して行くことにしました。2021/04/10

 Hさんは、私が食品会社で働いていた時の先輩である。Hさんと過ごした日々は考えてみると短く、二年間ほどに過ぎないが、その間何か怒られたという記憶はなく、それまでに社長が手を出してきた商売に付き合ってやってきた、様々な仕事の話(バイトのインド人が不法就労なのに交番で道をきいて、それっきり帰ってこなかったこととか、小麦粉のサンプルをスーツケースに詰め込んで運んで、成田空港で身柄を拘束されたとか、広東省の田舎で豚の脳みそ料理を食べたとか、福建省の人生最凶トイレとか、)をしては笑い合っていたような気がする。


 まだ業界の事情に慣れていない私が、業務用冷凍食材のカタログを見て「何ですかこの温泉旅館のイノシシ鍋用イノシシ肉スライスカナダ産っていうのは!」と憤慨したところ、手の甲を頬に添えて「おほほほほ!福ちゃんはなんて純情なのかしら!旅館の親父さんが山に入ってイノシシ狩りをするとでも思っているのかしら?!(キャンディキャンディのイライザっぽく)」と業界事情を教育してくださった。

また、食品会社に入りたてのころ、どこかの大学の学食で「ニャンバーガー」を出しているというような都市伝説を話したら、「牛肉は世界中で流通していて、それこそ地獄から来たかのように安い肉だってあるのだから、ネコみたいな高い肉は必要ないのだ」とおっしゃってした。

しかし、時には間違いを教えることもあった。「チョウザメの腹にファスナーを取り付けて、キャビアを何度も取り出す事が出来る」というのである。私が全然信じていない顔をしていたらしく、重ねて「これは実際に中国でキャビアを作っている会社の社長から聞いたことだから、間違いがない」という。そこまで言うなら、と、ひとまず信じることにしたが、あとでやはりその社長のホラであったことが判明した。この会社では、大学生が夏休み中中国に行ってチョウザメの餌やりをする、というアルバイトがあって(今もあるかは知らない)、当時何でも良いから中国に行っていたかった私としては、大変羨ましかった。

 入社して一ヶ月も経たずに私はHさんについて中国に行くことになったが、Hさんはそのことをとても喜んでくれた。何故ならば、それまではHさんの通訳は中国人の男性がやっていて、レストランでHさんが「煙草が吸いたいから灰皿を貰ってくれないか」というと、お前は女のくせに煙草など吸うのか、と説教を喰らわせていたからである。私が通訳になり、何処でも煙草を吸いたい放題になったのであった。この出張については、以前母校研究室で少し書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。この文と合わせて読んで頂きたい(ただし文中のHさんとH小姐はどちらも別の人である)。 Hさんは中国語をきちんと勉強したことはなかったけれども、中国の二カ所にあった工場の人々からとても愛されていた。Hさんがいなければ、私もこれらの人々の生活と意見を取り入れることは出来なかっただろう。もし私の見えている中国に人と違ったところがあって、そのことに何らかの値打ちがあるとすれば、それはHさんのおかげである。


 Hさんは「欲しいものは何でもすぐ買ってしまう」というたちであった。「欲しい」という気持ちが新鮮なうちに買わないと、その気持ちが腐ってしまうような気がするのだという。本も「欲しいもの」の一つで、新刊書をばんばん買って読んでは、段ボール一杯にして私にくれるのであった。その中で覚えているのは、リチャード・バックマンの『レギュレーターズ』とスティーブン・キングの『デスペレーション』、他にパトリシア・コーンウエルとシドニー・シェルダンがあったかもしれない。それらの本は、残念ながら私も読んだ後で処分してしまった。Hさんからもらったもので今でも残っているものといえば、本物のフカヒレのひとかたまり(もらってはみたものの、食べられるようになるまでものすごく手間と時間がかかることが分かったので、そのまま永久保存した)とブランド不明の小銭入れだけである。

 あるとき、Hさんの担当していたお得意さんが、豚肉の特殊な部位が欲しいとかで、杭州の肉聯廠の食肉工場を見学するのに、丁度杭州にいた私が通訳に借り出されたことがあった。豚を肉にするラインは真夜中の十二時に動き出すとのことで、私たちは真夜中に工場に集合した。しかし通訳はあまり役にたたなかった。連れてこられた豚が一斉に断末魔の絶叫を挙げたので、お互い何を言っているのかさっぱり聞こえず、ただ口をパクパクしているだけになってしまったのである。ここでまだ研究室にいた時、北京から来たA老師がしていた文革当時の思い出話を思い出した。老師が田舎に下放されていた時、村に豚小屋があって、時々この豚を潰したのだが、豚は自分が潰されることを、小屋の前を通る村人の目つきで察して、刃物の鳴る音も血の臭いもしないうちから震えて腰を抜かした、という話である。まして目の前で自分の仲間が次々と鈎に引っかけられ、頸動脈を掻き切られているのであるから、叫ぶ訳である。大叫喚の中、それでも何とかサンプルを取って、めいめいホテルの部屋に帰っていった。
 Hさんのお得意さんは、事の前にはオーストラリアの先進的な食肉工場の話を楽しそうに語っていたのであるが、翌朝は冴えない顔色でずっと黙り込んでいた。この後私はこの人と一緒に帰国したのであるが、飛行機の中でもずっと死んだ目をしていた。一方Hさんは工場視察の翌朝にサンプル品の余りの豚肉を甘辛く焼いて、事務所の皆さんに振る舞っていた。今その部位は「豚トロ」という名前でどこの肉屋でも普通に売られている。
 この肉聯廠というのは裏手を錢塘江に接し、鉄道も引き込まれていた巨大な国営工場で、食肉工場を中心に食品工場が集まっていた。私たちの会社の工場も、その中の一つであった。「秋涛路198」というのが住所で、西湖畔にあったホテルからタクシーに乗って自力で工場に行くとき、必ず口にしたものだった。当時はこの場所は街外れであったが、数年前に杭州を再訪した時、豚が絶叫していたそのあたりには高層マンションが建ち並んでいた。工場はもっと郊外に移転したらしい。
 先日出版した拙著の謝辞では「先輩のHさんのお供をして中国の工場巡りをした楽しい日々」と書いたけれども、仔細に思い出してみると、お互い別のお得意様にアテンドしてバラバラの日程で中国に行き、すれ違うことが多かったと思う。じっくり一緒にいたのは、私の最後の出張であった。全国チェーンのラーメン店の社長(常に携帯用のマヨネーズを持っていて、接待ご飯にもねろねろかけておられたのが印象的であったが、もう退職が決まっていた初対面の私に「きっと大事を成し遂げるだろう」的な根拠はないけれどありがたい言葉をかけてくださった)を雲南省昆明でゴルフ接待するのに同行したのである。男の人たちがゴルフしている間、Hさんと私は一緒に少数民族村でベタな観光をしたのであった。もう私の退職も決まっていたはずであったけれど、その事について特に話しをした記憶はない。ただ頭の良い子象(自分の真横で巨大なバナナの房を持った象使いではなく、私たち観光客に媚びてバナナを得ようとする)に一本一元のバナナをやったり、元首刈り族の踊りを見たりしたことしか覚えていない。
 この出張の前後から、Hさんは中国に住むことが長くなっていたが、とうとう横浜の自宅を引き払って本格的に中国に移ることになり、送別会が開かれた。Hさんには大きな花束が贈られた。会のあとHさんと一緒に京急線に乗り、他の人は一人また一人と途中の駅で降りていき、横浜の近くになると私とHさんの人きりになった。Hさんは思い詰めた様子で「福田ちゃん!お願いがあるの!」と言った。花束を私に渡して「これをみんなには内緒で、私の代わりに持って帰って!もう燃えるゴミの日終わっちゃったの!」そこで私はHさんの代わりに秘密で花束を持ち帰ったのであった。今はもう会社も無くなっているので、言っても罪にはならないと思う。


 私は大学に戻ってからも、会社からは断続的にネットショップの番人などの仕事を頂いて、2007年頃までお給料をもらい続けた。その間たまに事務所に行くことはあったが、Hさんは事務所にいなくて、会うことはなかったし、メールなどのやりとりも途絶えてしまった。
 Hさんはいつもニコニコしていたが、いつもとんでもない量の仕事を抱え込んでいた。私には「海外出張で土日が潰れたら、帰国してから代休を取ってもいいんだよ」と言っていたが、自分では代休を取ったことはなかったので、私も取ったことはなかった。取れなかった。

ある朝、Hさんは鼻に奇妙なシールを貼って仕事をしていた。それは何かと聞くと、このシールを鼻に貼ると、風邪気味で鼻が詰まっていても、鼻の穴が広がって息が楽になるのだという。以来私も家に常備して、しばしばお世話になっている。普通の人はこのシールを夜寝るときにしか使わないのであるが、Hさんはしばしば仕事中に貼っていて、貼ったまま外にランチを食べに出かけていた。考えて見ると、それくらい仕事を休まなかったのである。


 Hさんの実家は関東某県のそば屋さんということで、食べることが大好きであった。甲殻類アレルギーがあるから、食べたらかゆくなるの、でも美味しいから食べちゃうの、と言いながらエビをばりばり食べていた。XO醤は最後の味付けの時に入れるのではなく、油だけが入った中華鍋で炒めて香りを立てるのだというコツなど、今でも生活を彩ってくれることを教えていただいた。食品会社の商品開発は、天職であったと思う。将来は実家を継いで、食品添加物と冷凍食品をバンバン使う腹黒いソバ屋になるの、と言っていたけれど、その夢はかなっただろうか。



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