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もしも命を描けたら 感想

主演:田中圭  演出:鈴木おさむ


兵庫公演二公演と、先日の配信で3回目の観劇。


初めて観た時から、観劇後の率直な感想は「面白かった!」というシンプルな感情だった。

絵本のような、御伽噺のような世界観にYOASOBIの楽曲がとてもよく合っていた。

今回の舞台はこのご時世ゆえに幕が上がるまでに色々なトラブルがあり、つい舞台裏に想いを馳せてしまいがちだが、そこは普段からtwitterで想いを綴っているのでここでは割愛。

「もしも命が描けたら」という物語について、自分が感じたことだけを書き記しておく。
ネタバレと独自の解釈で書いているのでご容赦を。


トータルで「面白かった!」幻想的で綺麗で優しい、可愛らしい物語だった。

不幸な境遇の月人が、それでも真っ直ぐ生きて、恋をして、そして愛する人を失ったことに絶望し自らの命を絶った…はずだったが、突然語りかけてきた「三日月」が、月人に不思議な力を授ける。自らの命を削って、命を描いて、与える力。

命が消える前の走馬灯のようなものなのだろうか。月人は過去の母親と出会い、母親が失踪した理由を知り、その恋人の命を描き、助ける。

命を使い切った月人は最期の一日で三日月となって、子供の頃の自分を照らし、語りかける。

「月人、絵を描くんだ」

語りかけられた月人は、面白い人生を歩んだだろうか。それは自らの命を絶った月人とは、違う人生なのだろうか。

月人によって命を与えられ、生き延びた陽介と暮らす虹子は、あの後我が子である月人に会いに行ったのだろうか。
全て月人の観た幻かもしれないけれど、そう考えずにはいられない。

もし月人が母の本当の想いに触れていたら、星子とは出会わない人生だったかもしれない。でもそうしたら、月人と出会わない星子の命は、まだ続いていたのかもしれない。

どの人生がいいのだろう。どの人生も少し良くて、少し寂しい。
誰と出会うかによってその人の人生は変わる。誰かと出会うことがなければ、その人を失うことはない。どちらが楽しい人生だろう。

「もしも命が描けたら」運命は少し違っていたかもしれない。けれど、もしも命が描けなくても。月人は面白い人生にきっとできたはず。
誰しも、生きているだけで世界に、他人に、何かしらの影響を与えている。命を描いて与えなくても、知らないうちに誰かに命を与えて、誰かの命を削っているのかもしれない。

世界は残酷だ。父親は失踪するし、母親もいなくなる。育ての親は自殺するし、最愛の妻も突然亡くなる。世の中は不公平だ。不条理で理不尽で、容赦ない。死はとても身近なもので、世界は死で溢れている。

鈴木おさむさんの作品を、さほど多く観ているわけではないけれど、田中圭さん出演に限っていえば、ほとんど彼の演じる人物は作中で死を迎えている。

もしも命では6〜7人の「死」が登場する。正直言うとこの死の扱い方が、個人的にはあまり好みではない。

同じメッセージを死を用いることなく伝えられないものだろうかと思うところもある。

だが、死は誰しもいつかは直面する出来事だからこそ、真っ直ぐでストレートで分かりやすいというのも事実だと思う。死は誰の人生にも付き物で、想像し易く、だが同時に想像すら難しいほど深い「悲しみ」の一つだから。

その直球のメッセージを、巧みな役者たちが全力で全身で演じるから、幅広い層に届くのかもしれない。あて書きで役者自身の魅力を引き出し、観客はその魅力に改めて気付かされる。
私自身、今回の舞台で初めて黒羽麻璃央さん、小島聖さんのお芝居に触れて、その素晴らしさとも出会えた。

田中圭さんの独白は膨大な台詞量でもさすがの聴きやすさ、面白さではあったけど、個人的には相手役と対峙している時の方が、より感情移入しやすかった。

膨大な独白ではなく、厳選されたエピソードの描写によって月人の半生を体感してみたかったとも個人的には思うけど、3人のみのキャスト、シンプルな舞台装置という構成だとあの形になるのかもしれないとも思う。

もし映像作品であの前半部分を再現しようとすれば莫大な時間と費用がかかるだろう。それを彼の独白と観客の想像力によって表現する舞台には、やはり無限の可能性があるとも言える。

この演目はYOASOBIの楽曲や清川あさみさんのアートディレクションも素晴らしく、その世界観を幻想的に彩っていた。


改めて鈴木おさむさんの企画力、人を巻き込む力は凄い。今後もきっと田中圭さんとのタッグは続くのだろう。ぜひいつか、田中圭さんの対応力と瞬発力が存分に味わえる企画を期待したいものだ。

エチュードとか…エチュードとか

お待ちしています。



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