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最後に忘れるのは声がいい


私が別れると口にした時、ヒロは少しだけ戸惑ってから
、だけど、その様子を隠すように笑った。

いま思えばヒロとは7年以上付き合っていたけれど、私の前で泣いているのを一度も見たことがない。
…あ、そんなことないか。映画では割と泣いてる気がする。言い方を変える。

日常生活で泣いているのを見たことがない。

だから別れると言った時に笑ってる彼を見ても多分、なんの違和感もなかったんだと思う。

むしろ涙が落ちてきそうなのは私の方で、
別れを切り出したくせにそれはずるいから、抱きしめて誤魔化した。


「私、自分のことに人を巻き込めない」


ヒロが子どもが大好きなことは知っていたし、むしろ、それを前提に交際してきたのも知っていた。
義理を通す人だから順番を誤魔化すような仕草を見せたことは一度もなかったけれど、どちらが先でも良いと内心思ってるんだろうな、と感じさせる瞬間は、いくつもあった。

だから怖くて検査した。

私は私になってから、その時点で23年が経っていたし、自分の体の調子が友人たちと少し違うことにも、だいぶ昔から気付いていた。
定期的には来ない月のモノや、人に比べて異常な辛さを伴うそれを気にし始めたのは大学に入って、保険医としての資格を取るための授業を取った時で、正直プロポーズされるもっと前から薄々自分の中で勘づいてはいた。

私の結果を見た時、ヒロは驚きも悲しそうにもしなかった。
リアクションとしては100点だったと思う。
彼がそう言う時に90点以下を出したことなんて一度もないけれど。

だからこそ、無理だと思った。きっと彼は自分の未来を顧みることなく私についてきてしまう。

「俺の家の鍵は持ってるままでいいよ」

私が彼の部屋から荷物を持ち運ぶ時、返した鍵をそっとつき返して、そう言われた。
それでも私はその鍵をテーブルに置いて、笑って出て行ったけれど
翌々日、ポストの中に郵送で送られてきた手紙と鍵を見て
私はその鍵を結局返すことができていない。

それから一年くらい経った頃、
高校の同窓会で集まったとき、久々に再会したにも関わらず、彼は私の隣で当たり前のように優しく振る舞って、私の友人たちを困惑させた。

「二人って別れたんだよね?」

「うん。でも、俺が美奈を大切に思ってるのには変わりないからさ」

結局その同窓会を機に、今度はヒロは"友人として"私に連絡をしてきたり誘ってきたりするようになった。
突き放しても、突き放しても、笑顔で抱きしめてくれる彼を
もうこれ以上突き放す術が思いつかない上に
連絡が来れば返したり、応えたりする自分は本当に狡くて惨めでみっともないと思った。

そんなことがしばらく続いた時、高校時代の親友の蘭に二人目の子どもが出来て
お祝いついでに遊びに行ったら私に少し高級なハーブティーを注いで
美味しいシフォンケーキを可愛いお皿に盛りつけてから、笑顔で言われた。


「笹内は本当に美奈ちゃんのことが大切なんだね。頼ってあげたら?」


ヒロの邪魔をしたくない一心だった私はそれを聞いて目が点になった。だめでしょ、頼ったら。
そんなことしたら一生、ヒロは私から離れられなくなる。


「元カノと仲良くし続けてる男なんて、彼女出来ないし、邪魔したくないよ私」


しかし蘭はハーブティーを飲み、子どもを抱えながら
不思議そうに高い天井の上を見つめた。

蘭の家は広くて、綺麗で、お姫様のお部屋みたいだといつも感心してしまう。


「そもそも笹内、彼女欲しいのかな?
あいつ馬鹿じゃないし、なんならモテるから、そんなの全部分かった上でやってると思うんだけど。
笹内にとっての幸せって今は美奈ちゃんといられることなんじゃない?

心の拠り所にするのを許されるくらいの月日は十分経ってる気もするけどな」

それでも私は、別れを切り出した男に自分から連絡するなんて、プライドが許さなくて、蘭の話に惹かれつつも、きっと私は出来ない、と心のどこかで確信していた。

それからしばらくしたある日。

偶然ーいや、そのバーは昔ヒロが働いていたし、私もしょっちゅう通っていたから正直なところ偶然なんかではなかったけれどー一人で飲んでいたらヒロに肩を叩かれた。

店長は付き合っていたことも、ヒロのことも、私のことも知っているから
そっとカウンターから離れてしまって、私にとって気まずい時間が流れる。


「一人でwaveなんて来て、イケメンに飢えてるの?」

「眞冬が忙しくて捕まらなかったんだよ。
ヒロこそ、何してんの?ナンパ?」


「俺は美奈に会うために、この二ヶ月くらい
waveに出来るだけ立ち寄るようにしてたんだよ」


ヒロはずるい。
自分のキャラクターとか
その行動が私の心をどう動かすかとか、声色の使い方とか、目線の動かし方とか、手の位置、顔の位置、足の位置、香り、

どれをとっても私の好みだから、ずるい。


「気持ち悪すぎ。ストーカーじゃん、それ」

「たしかに。でもストーカーと違って、俺、美奈が嫌なことはしないよ。

嫌じゃなかったでしょ?」


普通の人がやったら気持ち悪いことも
許される距離感や関係性とか、そういうの把握するの本当に昔から上手かった。だからモテる。

ヒロがモテるって改めて感じたのは大学で離れ離れになってからだったけど。

高校時代はいつも、よそ見しないでくれたから
ヒロが女の子に言い寄られてるところなんて見たことなかった。


大切にしてくれてるんだよな、昔から。


「美奈、俺の家にピアスとスーツとパジャマ、忘れていったでしょ」

「はあ?いつの話して、」


「捨て方わからないから俺の家きてよ」


ずるい、ほんと。
甘えたくなる、側にいたくなる、抱きしめられたくなる。


全部全部、我慢したって、忘れようとしたって

あなたのその、大好きな声は。

低くて、優しくて、温かくて、綺麗な声だけは。


「…誘い方が小慣れててムカつく」

「俺、この10年間、
美奈しか誘ったことないよ。」


涙が出そうになるから
笑って誤魔化して、あなたに流されてしまった自分を

私はあまり、嫌いになれない。


最後に忘れるのは声がいい



**

どうしたって独りにさせてくれないあなたを
傷付けて、傷付けて、いつかあなたが本当に
私に飽きてしまった時、きっと私の中に残るのは
低くて優しくて温かいその声だと思う。



2021.07.31
喉元にカッター様
「最後に忘れるのは声がいい」

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