思い出のアルバム不要論

 ぼくはアルバムというものをもっていない。家のどこかにはあるかも知れないが、中味は大半がむかし飼っていたネコたちの写真だ。ネコたちのことはこころに焼き付いている。久しぶりに開いた本のあいだにネコの毛が挟まっていたりする。ときどき夢にも見る。ネコたちが一匹ずつ去って行ったのもう四半世紀もまえのことだ。飼い始めたのがその四半世紀ちかくまえになる。つまり人生を3つのクォーターに分けて、
第一期、ネコたち以前
第二期、ネコたちの時代
第三期、ネコたち以後
と定義づけることもできる。
 世間的にこの3つのクォーターは、次のように定義される。
第一期、日本経済の戦後復興期
第二期、日本経済の高度成長爛熟(バブル)期
第三期、日本経済の長期低迷・衰退期
 ひょっとすると、日本の運命はわが家のネコたちが握っていたのかも知れない。

 こういう感想にはなんの意味もない。だからそこに浸るつもりはまったくない。
 老人は窓辺に座ってアルバムをめくりながら追憶に浸るものである、などというのはじつに不健全な発想だ。人間は現在に生きている。日々経験を生成している。成長しているかどうかは知らないが、経験に応じて変化している。だから絶対にむかしのアルバムを開いたりはしない。
 そもそも思い出のアルバムなどというものは脳内に思い出の実体がなければ、なんの意味もない。
 わが家ではぼくも家人もアルバムなど絶対に開かない。どこにおいたかも記憶がない。そのほとんどは前回の引っ越しのときに廃棄した。
 アルバムがない以前に写真がない。写真を撮らない。撮らないから貼るものがない。スマホの自撮りレンズは不愉快なので、ラベルを貼ってコロしてある。

 震災の旅に、被災地で写真のプリントを探し出して修復し、持ち主や縁者に返してくださるボランティアのかたがいらっしゃる。その思いや活動は尊いと思う。ぜひみずからのボランティア活動記録を写真に残して終生保存され、ときどき見返して思いをあらたにされるとよい。
 ただしもしぼくが被災して、復興住宅であくせくしているときに、拾い集めた写真を届けていただいたとしたら、「ほんとうにありがとうございました」とこころからお礼を申し上げたあと、翌朝生ゴミのあいだに挟んでゴミ出しするだろう。

 人間の生活時間は眠りと目覚め、休息と活動によって構成されている。眠りと目覚めのあいだにはどちらともつかない薄明地帯がある。思い出アルバムを眺めて過去に浸るのは、この薄明地帯に身を沈めることにほかならない。わざわざそんなことをしなくても、人間には夢という営みが与えられている。追憶は写真アルバム抜きで夢の神さまにまかせておけばよい。
 ギリシア神話によれば、夢の神さまは眠りの神さまの子で三兄弟。
 ひとり目はモルペウス、人間にかかわる夢をとどける。
 もう一人ははイケロス。動物にかかわる夢で夢見るものを脅しつける。
 三人目はパンタソスで、無生物にかかわる夢を配給するのだそうだ。
 つきあいが長いと三兄弟のほうもマンネリ気味でインパクトに欠ける。悪夢も繰り返して見せられると、またかと思うだけだ。これはぼくだけかも知れないが、歳をとるほど悪夢は鮮度が落ちてくる。若い頃は冷や汗びっしょりかいて目が覚めたが、最近はネタバレ感が著しい。余裕で寝過ごせる。
 そのうちむりやり捨てたアルバムを見せつけられる悪夢に出会うかも知れない。

 ついで付け加えておけば、ぼくの場合、追憶のほとんどは好ましいものではない。美しい思い出に彩られた花柄の人生を送ってこられたみなさんとは事情がちがうのかも知れない。

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