「明日のわたしを選ぶチカラ」
人生に訪れる数かぎりない一つずつのチョイス、というのは直感的な判断の連続である。
どちらかというと、野生的な感性で生きているワタシですが。
「昼ごはんに何を食べる?」
というある種のルーティンのような選択すら、自分の内側でいまフツフツとしている細胞たちに問いかけ、一番しっくりくるものを選びたい、ということに対する欲望が強い。
その結果が、カップラーメンでもいい。(たまになら)
でも、自分の細胞が何を判断するのか、ということに対して感覚を研ぎ澄ませていたいといつも思っているし、
それができない時には、「あぁ〜疲れてるのかなぁ?」と思ったり、あるいは「現世の誘惑にとりこまれて判断力が鈍っている自分」に、あえて身を委ねてみたり。
広い世界の色々なものを知って、それらを比べてみて。その上で何を選ぶのか。それは、地球でできる壮大な遊びのようでもある。
以前「胎生学」というものを少し学んだのですが。
本来細胞は、ただ必然的にあるべき方向へと流れついていくはず。
その細胞が置かれた環境によって、それらの個性が決まっていく。
どの位置に置かれるかはある種の運命と言ってもいい。
置かれた環境によっては、思わぬものになっていく場合もある。
たとえば、「自分は人間になっていく細胞だ」、と信じていたら実は「胎盤」を作るほうだった、とか。
ある種の運命の中で、置かれた環境に従いつつ。
細胞の欲するものと、自分の意識が欲するものの間で、物事を選んでいく。
そのバランス。選ぶチカラ。
人生という時間が限られたゲームの中で、笑って「アガリ」にたどり着きたいなら。
その選び方を磨いてく必要がある。
そこそこ長く生きてきて、音楽業界を経て気づけばそこそこ長い時間「触れる」ことを生業とするセラピストという仕事に従事している。
一見かけ離れているようでいて、五感を駆使する仕事という共通項があり「好きを仕事に」と言うのは結局「感覚に対して忠実」であった結果なのだと思う。
そのおかげか、自分で言うのもなんだが「選ぶチカラ」には長けていると思うし、年々それが鋭くなっている気がする。
(ちなみに「選ぶチカラが長けている」と、「繊細な感覚を持っている」とはビミョーな違いを感じてもいるのだが、その話はまた別の機会に。)
「選ぶチカラ」を高めるために。
今日も、全身で世界に「触れる」、心と身体を旅する。
そうして生きていく。
■ 小松ゆり子 official web site
http://yurikokomatsu.com
■身体共鳴研究室
https://somaticresonance.amebaownd.com
※「マゼラン 」2018年5月17日記事より加筆転載
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?