宇宙の本質への扉を開く「坂本龍一設置音楽展 」@ワタリウム美術館
※「ハニカムブログ 」2017年4月11日記事より転載
最終日前日に駆け込んだ、デヴィット・ボウイ大回顧展を見てから「2001年宇宙の旅」が見たくなり、amazon prime の流れでそのままずっと触れずにおいた「時計仕掛けのオレンジ」まで見て、その後でプラネットアースを見ている(笑)
人間の素晴らしさ〜宇宙空間〜人間の醜悪さ〜地球〜と、この世の仕組みを一周する旅に出ている気分。
人生の中でも5本の指に入るくらい好きな曲、に急上昇した「Space Oddity」。
Planet earth is blue, and there's nothing I can do」
(惑星地球は蒼い そして 僕に出来ることは何も無い)
この時代まで、人類は地球をメタ認知したことがなかった。
そして、アポロ8号の地球の出。
人類が、初めて宇宙にいる自分たちを自覚した時。
それを、想像してみる。
すぅーっと、自分のいる場所が足元から崩れ落ちて、何もない空間に放り出されるような気持ちになる。
全世界が味わったその衝撃と浮遊感が、曲に昇華されているように思う。
ちょうど、デヴィット・ボウイ展に行く少し前に、坂本龍一さんのアルバム「async」関連イベントで、タルコフスキーの「サクリファイス」と「鏡」を観ました。
タルコフスキーといえば...の睡魔と戦い(笑)
薄れゆく意識の中で見る、タルコフスキーの作品。
でも、むしろこれは、眠りにつく寸前の潜在意識が活性している領域で「考える」のではなく「体感する」のが正しい見方なのかもしれない、と思った。
どの場面を切り取っても美しく、雨粒の一つの音までテクスチャーを持って聞こえる。
その残像だけが記憶に残り、潜在意識の深いところに働きかける。
その時のトークショーで知ったのだけれど「async」は、架空のタルコフスキー映画のサントラ、というテーマがあったのだそう。
まだCDを購入する前に訪れた、ワタリウム美術館で開催されている「設置音楽」で「async」を体感しました。(というか、通い放題チケットを購入し、もうすでに2回行ったしCDも買った!)
2Fの5.1chサラウンドの空間「drowning(溺死)」。
そのタイトル通り、単に「聴く」というよりも「音に浸かる」経験。
そして、音に沈んでゆくと、まだ観たことのないはずの景色が急に目の前に現れる。
見渡す限り何もない場所。
真っ白な切立った断崖絶壁の縁に立ち、足元から崖の下へと目をやる。
そこから眼下を覗き込んで行くと、見えるものは「人間の本質」。
感情が入り込まない虚無。
そんな時間も、空間も超えた、そんな光景が明らかな体感として自分の中に生まれる。
確か、自伝「音楽は自由にする」の中で、「子供の頃ドビュッシーを聴いた瞬間、当時知る由もないフランスの森の中にいる映像をはっきりと体感した」というようなことを坂本さんが言っていたのだけど、まさにそれ。
音楽は瞬時に私たちを異世界を体感させるツールとして働く。
耳に入れるものを選ぶことで、私たちの意識はどこへでも旅をすることができる。
2Fには「async」の制作にインスピレーションを与えた資料も展示されていました。
そして、3F「volume」では「async」を作り出す時に多くの時間を過ごした空間(おそらくご自宅?)。
ケトルから立ち上る湯気や、カーテンの揺らめき、そこから入る日差し。
リヴィングルームのテレビの画面には、タルコフスキーの「サクリファイス」が流れている。
こういう中で、丁寧に音楽が紡がれている。
4Fの「First light」映し出されるのは、市井の人々(や犬)の眠る姿。
まどろみの中で、人はアストラル領域へと旅に出る。
きっと本当は、毎晩その中で宇宙の本質に触れているはずなのだけれど、それを不思議と毎朝忘れてしまう。
日常で経験したすべてのことが、潜在意識の中に落ちて熟成し、作品となって世の中に顕現する。
アーティスト、という人種は「人間や宇宙の本質」を汲み取り凝縮することに、ひときわ長けた人たちなのだな、と思う。
そしてその作品群に触れることで、私たちも通常は閉じられたその扉を開けることができる。
そして、「async」は開けた瞬間その領域につながる、「音楽」という形態を借りた扉、なのだと思います。
■ 小松ゆり子 official web site
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