「役に立たない」ものはいらないのか~歴史の視点で考える

「○○は役に立つか、立たないか」「○○は役に立たないからいらないのではないか」といった議論をよく目にする。

ありがちなのが、「古典はいるのかどうか、役に立つのか」論争だ。このレベルの議論なら(議論にとどまっている限りは)あまり害はないと思う。だが、「人文系の研究費が減らされる」とか「図書館司書が減らされる」といった次元にまで行くのはいかがなものか、と思う。

コロナ禍の昨今だと、おもに遊興施設やバー・居酒屋といった職種の営業が叩かれた。「必要な仕事ではないから、自粛で潰れるのは仕方ない」という意味のことを言う人までいる。確かに生存に必須でない仕事ではあるが、「いらない」とまで言い切っていいのか。今挙げたのは極端な事例かもしれない。だが、「役に立たないもの」「必要でないもの」はなくてもかまわない、という考えを突き詰めれば、こういった極論に至るのではないか。

ここで、人類の発展の過程を考えてみよう。最初期の人類の活動は、狩猟・採集に始まり、次いで農耕・牧畜の段階に入った。まずは食料の入手・生産から始まったわけだ。

農耕・牧畜によって食料の安定生産が可能になると、より多くの人口を支えられるようになる。食料生産に携わらない職業の人を養う余裕が出てくるわけだ。職人、商人、兵士、役人など、必要に迫られた順に職業が登場する。

学者や芸術家、役者といった「生存に直接かかわらない営みを専門にする人」は、文明がある程度発達しないと出てこない。

逆に言えば、「生存に必須でないもの」の存在は、文明の発達度合いを示すバロメーターだと言えるのではないか。

役に立たないものがあり、それを生業にする人がいる。それを支える条件は、食料や生活必需品の生産、医療・衛生の発展、社会の安定などたくさんある。

大変な時代だからこそ、あえて主張したい。「役に立たないもの」をいらないと切り捨てるのは、文明から未開へと、時計の針を戻す行為に他ならない、と。

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