中立公正とは

 私の活動や仕事の中で少なからず行政とやることがある。行政と何かをするときによく登場するのが中立公正というキーワードだ。
この中立公正ということばは、よく使われるがよくわからないことばである。調べてみると「公平」「公正」「中立」そして「平等」についてまとめてくださっているサイトをみつけた

「公平」とはえこひいきのないこと、
公平でなおかつある基準に照らして正しいのが「公正」です。
「中立」とは、どちらの味方にもならないことです。

と、このサイトの作者は調べてまとめてくださっています。

そう、これを見ると行政が中立公正ということばを自分たちの立場を説明するために使われることがわかります。と、同時にそれが難しいことであることもわかります。なぜかといえば、行政は多様な住民へのサービスを提供することがその役割とされているからです。

ある方にとってみれば公平と思えても、ある方にとってみれば公平とは思えないことは、私たちの生活にとってみれば日常的に起こりうることです。そのために、行政はある基準(法律に基づいた制度)を前面に出し、その制定プロセスを民主的であると規定した上で、そのことをして「中立」を語る。それこそが中立公正です。

あたりまえの話ですが、民主的な制度下プロセスは、仕組みとして保障されているだけで、住民すべてがそのプロセスに関与しているわけではありません。もちろん、このことはずっと議論されてきたことですし、よく語られる義務と責任によってその参加は保障されているとされます。つまりは参加する権利があると同時に義務がおこり、その義務を果たさないことは次に生じる権限を与えられなくても仕方ないといった議論です。しかし、その自治体にする住民(一時的も含む)がすべて参加できるプロセスは残念ながら、形式的には存立しても、現実的には存立しえません。そこには民主主義的な議論があり、意見や利権の折り合いがついていきます。つまりは、中立公正を標榜しても、その実はミクロには存立しないと考えられると思っています。少なくとも私は。

他方で、行政が「中立公正」を標榜することの意味も、その意義も理解しています。民間の私たちとのやりとりの中で、ありえない「中立公正」論は結局は、行政や政治に屈することを示すと言った人がおられましたが、それは極論でしょう。結局は、きれいごとの世界であり、公共の福祉という多数の利を尊重することが前提の中で、個人の私権の制限の中で公共が創られていることを理解しつつも、少数の意見をどうとりいれるのかという目的的視点を柔軟にもてるかどうかにかかわっているような気がしています

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