印象的な人

 いまや有名人と言ってもいいorihimeロボットの吉藤オリィ氏。彼がいつも黒い白衣を着ていることは有名な話で、著作の中にもその話が書かれている。海馬を使って説明をされるが、つまりは「印象に残る」ことが大事であるという。
 昨日、以前ある講演会の会場でお会いした方からFBFのリクエストがきてやりとりをさせていただいたのが、こちらがご挨拶をしたくご挨拶できずで、と書くと、覚えています「印象的な方だったので」と。
 実は、私はあまり印象的な人でいわれることが多くない。もちろん、あえてそう振る舞っている現場では、目立って印象に残るようにしているので「印象的な人」であるが、大きな会場、たくさんの人の中では、身長が高いという身体的な特徴(私は183㎝くらいある)では目立つが、すぐに消える。
 人と違うことをして目立つ、印象的なことをするというのは、若いときによく使った手法だった。吉藤オリィ氏のように白衣ではなく黒衣といった形容を操作することより、発言の内容で違いを生み出してきたがどちらかいえば、「ヒール(悪役)」キャラを演じてきたので、そういう意味で印象的だと言われることも少なくなかった。しかし、福祉というマイノリティ分野でかつ「ヒール」の出番はそんなに多くはない。それだけでは広く「印象的な人」にはならないし、いつのころからか、その志向性はなくなった。
 ことばを変えていうと、呪縛から逃れられたといえるのだろう。知らず知らずのうちに身についている成功の価値感、愛される人の価値感、ひいてはよりよく生きる価値感に私たちは苦しめられる。「印象的な人」であることは、私たちの世代にとってみれば「成功者の一員」の要件であった。そこからの卒業。
 ここまで書いてきたように実は「印象的な人」を演じることはできる人にはできてしまう。特にこの時代やることが容易になったようにも思う。問題はそれを動機付けの中でおこなっているかどうか、だろう。
 では、逆接的にいまの社会的な価値の中で、「印象的な人」は必要とされているのだろうか?消費財として「印象的な人」は必要なのだろうが、それは埒外の議論だろう、とすれば、個性的であることを学校時代には押さえつけられ、人生の一瞬だけ、変に強いられる社会風潮の中では、もはや印象的であることも必要ないのかもしれない。
 ということは、印象的に生きたいと思う人だけがそうすればいい、という至極当たり前の話に戻って、なんだか、ほっとする。

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