時間を切るということ

「切る」

ということばを辞書で引くと10つも使い方が出てくる。
確かに確かにと納得しながらみてみるが、

③つながりを断つ。区切りをつける。
[基本例]「親子の縁を切る。」「悪友と手を切る。」「スイッチを切る。」「電話を切る。」
④限度を定める。
[基本例]「応募期限を切る。」「合格者を五十名で切る。」「時間を切って面談する。」

時間を切るというのは、「限度を定める」という用法で説明がなされていた。確かに、この要用で言えば、「時間を切って○○する」となるわけでその使い方が一般的なのだろう。

時間というのは、連続しているというのが一般的な考え方であり、③の「区切りをつける」という意味に類似していても④の限度を定めるという意味出使うのが一般的だ。

最近、あーこういうやりかたで時間を「切って」こられるのか、と感じることが多い。もちろん、その際の時間というのは、厳密に言う時間では無く、生活の中でおこなわれている時間、要するに「体験」や「経験」ということになるだろうか。
ある時点から、加入した人が
「私が加わった時、以前のことは、私の知るところではない」
ここで言いたいことの代表的な例になる。
他のかかわっている人たちからすれば、当然、「え?」となるわけだが、そうした「介入」は、しばしばいろいろな社会場面で起こる。
特に、利害関係が絡み合っている事象やうまくいっていない事案などの場合に使われるのだろう。

事象だけを説明する小文をつくるならば、
「過去を捨てる」
「以前のことはなかったことにする」
「時間を切って考える」
は、この場合はほぼ同義になるだろうか。

実は私自身は、これらがとても苦手だ。
過去の時間と経験、体験、とその過去をふりかえる「いまの自分」の「過去の時間と経験、体験」の語りにこだわって生きてきたし、支援の仕事をさせていただく中で、そのことにことさらこだわってもきた。

しかし、どうも最近は、「時間を切って」いくことが新しいことをすすめていくため、変化をうながしていくためには、必要であると価値づけられることが大勢のようである。

これまでも何回も書いているように、おそらく「二項対立」的なものがこれも大勢をしめる現代の日本社会の中で同じように、「時間を切る」ことが求められているのだろう。口惜しいがそのことは見つめざるを得ない事象だと感じている。

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