ノンフィクション「エンド・オブ・ライフ」から在宅医療介護を覧る
相方の「友人とのやりとり」で家にあった佐々涼子著「エンド・オブ・ライフ」集英社。届いてから数ヶ月。大事なものを立てかけてある「見えやすい」ところにおいてあるが開かれていない。
相方が「生命の洗濯」のために数日間家を空けている間に、手に取った。一緒に暮らし初めてから20年。彼女は若くして自分の母親を亡くしている。「死」というものに対して彼女なりの思いを強くもっていることを横に居ながら常に感じる。その彼女がこのタイトルの本を開かずにいることもよくわかる。
数ヶ月の間、気になりつつその本の行方をみていた。そして私自身も「その本を読みたい」とは彼女の言えぬまま彼女のいないときに扉を開くという選択をした。もしかしたら自分が読み終わった後に「読んだら?」と背中を押すかもしれない。それは彼女の友人が彼女にこの本を送った思いを推し量ることができる、とも思っていた。
バタバタしている日常の間をぬって300ページに近いこのノンフィクションを読んだ。作者が書いているようにそこに「死」が取り扱われているが、私はそこに在宅医療と介護の現実がつぶさに書かれていることに重きを感じた。それは「エンド」を取り上げているからこそことさらに見える「生」を支える京都の在宅医療診療所。
このノンフィクションの主人公とも言うべき「彼(ら)」が、華やかなスポットライトではなく緩やかな陽光をお互いに浴びながら静かにたたずむ風景をみせてきた中での語りだからなのだろう。
しかし、その実私たちがよく知る在宅の介護や医療の現実を、ドラマや小説のように「美しく描く」いまの社会現実を真っ向から否定しているようなグロテスクな風景がそこには画かれてている。そしてそれが批判ではなく淡々と展開されている。
この風景は「誰に」覚悟をむけているのだろうか?
「生きること」を日常的な生と死の連続性から剥がされ、私たちは権力に握られている。その権力とは、果たして西洋医学のことをのみ指しているのか?きっとそうではない。
そんなことを考えさせられながら筆は「彼」のエンド・オブ・ライフへと向かっていく。彼のメッセージとはなんだったのだろうか。
作者は彼のメッセージを受け止めたようにこの書を終わる。
在宅医療や介護と言われてから40年、50年たった今。多死社会の中で陳腐な議論を展開する前に、私たちは何を考えるのだろう、知るのだろう。それはドラマチックな何かではないことだけは確かだ。たった一人の人生はその人のものでしかない。私たちが経験しているその毎日をこのライターさんに書いて欲しいとも思った。
読み終えた今。私から相方にこの本を「読めば?」とは勧められないな、と思う。おそらく、彼女は彼女のタイミングでこの本の扉をあけるだろう。
そう、この本を送ってくれた彼女の友人である主人公の「彼」の奥さんの思いに応えながら。